平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛は、川から汲んできてもらった水を大きな木桶に移し、竈のそばで湯を沸かした。その湯に麻布を浸して濡らすと、それで農民たちの体を一人一人丁寧に拭いてまわった。そんな彼女の姿は、とても貴族の娘とは思えないほどで、涙を流す者もいれば、思わず手を合わせる者までいた。
「まさか、貴族のお方にこんなに良くしていただけるなんて、何ともありがたい」
「体が清潔になれば、気持ちも落ち着きますし、少しは楽になるでしょう?」
 彼女は笑みを浮かべながら手を動かし、優しく農民たちに寄り添っている。その頃には、彼女の衣はすっかり泥まみれになり、裳の先を軽く結んでいたせいで、生地の端は今にも破れそうになっていた。だが本人はそんなことは気にも留めず、いきいきと働き続けていた。
(人々の救済って、もしかしたらこういうところから始まるのかもしれない)
 彼女自身も懸命に働きながら、こういう時だからこそ、身分や立場を越えて人は助け合えるのだと感じていた。
 ここまでくると、彼女の両親も安宿媛の意志を尊重し、しばらくは見守ることにした。もともと信仰深い二人でもあり、貴族の娘には得がたい経験をさせてみるのも、決して悪くないと考えたのだろう。
 不比等の管轄のもと、安宿媛はその後、現地で他の数名の女性たちと何日も生活を共にすることになった。
 簡素な屋根の下、地面に板を敷いただけの仮小屋が寝所となり、そこに藁を敷きつめた上で皆が身を寄せて休んでいた。こうして身を寄せ合う夜ごとに、安宿媛は少しずつ、“人と共にある”ということの意味を知っていく。
 そこには、彼女のような貴族もいれば、下級役人や農民など、さまざまな身分の人々が集まり、互いに力を合わせて救済に取り組んでいた。皆、服も顔も汚れているのを誰も気にする様子はなく、互いを励まし合い、ときおり笑い声まで聞こえてくる。
 この頃になると、子どもたちも元気を取り戻し、建物の瓦礫や農地のあたりへ入り込んでは、遊び半分で何やら探索を始めていた。
 藤原不比等の支援によって、ようやく皇族や他の貴族たちも動きを見せ始めた。だが、それでも十分な処置とは言えないだろう。
 結局のところ、その地に集まった人々の助け合いこそが、何よりも大きな力となっていた。

 安宿媛がひとり腰を下ろして休んでいると、真備がふと声をかけてきた。彼はこれまでも定期的に様子を見に来ていたが、思いのほか皆とうまくやれているのを見て、最近は時折声をかける程度にとどめていた。
「安宿媛にはとても感謝してます。あなたのおかげで、我々も動きやすいですし、お父上のご協力もいただけました」
「私は、ただ自分がそうしたかっただけなの、それに、ここでの活動を通して、とても多くのことを学べたような気がします」
 そう話す彼女は、どこか少しはにかんだ様子を見せた。普段は不比等の邸宅からあまり外に出ることのない彼女にとって、ここでの出来事はどれも物珍しく、毎日がとても新鮮だった。
「それは、本当に良かったです。それなら、少しはご自身の進むべき方向も見えてきましたか?」
 それを聞いた安宿媛は、その場にそっと立ち上がり、真備をまっすぐ見つめて言った。
「それは正直、まだはっきりとは分からないけれど……一つだけ、分かったことがあります」
「分かったこととは?」
「日頃は、自分のことや人々の幸せをよく祈っているのだけれど……」
 そう言うと、安宿媛はそっと視線を周囲の人々へ向け、続けて語った。
「私たちに願いがあるように、神々にも願いがあるんじゃないかしら。なら、世の中がその願いどおりになることが、結果として私たちの幸せにつながる気がするの」
「へぇ……またすごい考えですね。日本に仏教がやってきたのも、もしかすると神計らいなのかもしれませんね?」
 それから彼女は、少し目を輝かせ、真剣なまなざしで真備へと向き直り、言った。