平城京の導き ~古都の物語〜

 母の背が遠ざかっていくのを見つめながら、安宿媛はそっと息をついた。筆に夢中になっていたとはいえ、少しそっけなくしてしまったかもしれない。
「お父さまも政務にかかりきりで、お母さまもいろいろとお忙しそうだったから……仕方ないわよね。でも、そろそろ始めたほうが良さそうね」
 そう言って、彼女は須恵器(すえき)の硯に残った墨を拭き取り、筆を道具箱へと戻した。
 次に、脚のついた大きな衣装箱の蓋を開ける。蓋に施された漆塗りの赤と唐草の模様が目に入り、箱の中には、新しく仕立てた礼服が整然と収められている。
 上半身には深緋の大袖が目に入り、首元には、白の下衣に浅紫の襟がのぞいていて、裳の裾は床に広がり、そこに宝相華文(ほうそうげもん)が織り込まれている。
 髪を高く結い上げ、玉の飾りを添える姿を思い浮かべるだけで、胸がわずかに高鳴った。
(何しろ、即位の礼に出るのは初めてのこと。きちんとした装いで参列したいわ)
 彼女の並ぶ場所はやや後方で、そう目立つ位置ではないだろう。とはいえ、即位の礼など、そうそう参列できるものでもない。
「でも……もう少し飾りが欲しいかも」
 そうつぶやいて、彼女はもうひとつの箱を開ける。箱の奥には、古びた包みがひとつしまわれていた。
「これ……小さい頃の服ね。こんなところにしまっていたなんて、すっかり忘れていたわ」
 思わず包みを取り、紐を解いた。中には、小さな衣がいくつも重ねられている。桃色や浅緑の絹が少し色褪せていて、袖口には子どもの頃についたであろう汚れが少し残っていた。
(こんな色を着ていたのね……)
 服の間に、布の切れ端のようなものが見えた。手に取ってみると、天平文様が織り込まれた布だった。
「あら、これは……お父さまから頂いた布ね。模様が綺麗で、どうしても欲しくてお願いしたんだったわ」
 あの頃は子どもで、ただその美しさが嬉しくて仕方なかった。そのあと、母か使用人の誰かが衣服と一緒にしまい込み、いつの間にか忘れてしまったのだろう。
「でも、あのときは嬉しくてたまらなくて、首皇子にも見せに行ったのよね。少し分けてあげたけれど……まあ、あのときの皇子は、あまり嬉しそうではなかったわ」
(そんなこともあったのね……)
 彼女はその布を胸に当てると、ふと遠い記憶が蘇ってくる。都がまだ新しく、土の匂いがどこかに残っていたころ。その上を首皇子と笑いながら走り回って遊んでいたことを、懐かしく思い出す。
『私が大人になったら、この布を衣装の一部に使ってみたいわ。きっと素敵に仕上がるでしょうね』
 そんなふうに、彼の前ではしゃぎながら話したものだった。
(あれは、平城京に遷都して間もない頃。みんなが早く新しい暮らしに慣れようと、新しいやり方を探していたわ)
 親も使用人も慌ただしく、日々がめまぐるしく過ぎていったが、首皇子と過ごすひとときだけは、幼い自分の支えとなっていた。
 彼女は布を包みに戻し、箱の蓋をそっと閉めた。パチン、という金具の音だけが、その場に少し響いていた。
「さあ、早く準備を進めなくちゃ。そうしないと、今度こそお母さまに叱られてしまうもの」
 そう言って笑い、彼女は立ち上がる。衣を一枚ずつ整え、髪飾りや帯紐を並べる手つきには、自然と力がこもる。
 几帳の隙間からふと光が入って、衣の上にそっと落ちた。それはまるで、天女が羽織っている衣のようにだ。
 即位の日に、この衣を身にまとい、あの大極殿の前に立つのだと思うと、自然と身が引き締まった。
(きっと、さぞかし素晴らしい即位の詔になることでしょう)
 安宿媛は、そうした思いを抱いたまま、即位の日を迎えることとなる。