平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛は家の敷地内を、とぼとぼと歩いていた。
 敷地では、夕餉の支度に追われる使用人たちが、慌ただしく行き交っていた。
(もう、今日は本当に疲れたわ。部屋に戻ったら、早く休まなくては)
 彼女が部屋の前にやってくると、板戸を開けて中に入り、ふと床に腰を下ろす。まだ髪も拭いておらず、衣も早めに着替えたほうがよさそうだ。
 一呼吸おいて、木目の色味が落ち着いた衣装箱から、頭を拭く布と着替えの衣を取り出そうと立ち上がったその時、急に周囲がぐらぐらと揺れ始めた。
「え、何、地震?」
 あまりの揺れの激しさに、まともに立ていられず、ふらつきながらも何とか部屋の外へ飛び出した。
 外に出ると、家の者たちも慌てふためき、我先に部屋から飛び出してくる。
 彼女もどうすればよいか分からず、一人で動揺していると、遠くから「安宿媛ー」と、三千代の高く張り上げた声が響いてくる。
「お、お母さま、私はこっちです!」
 安宿媛もひどく震えながら、必死で声を上げ、自分の居場所を母親に伝えようとする。

 しばらくして、父の不比等も従者を引き連れ、何とか邸宅に戻ってきた。家に戻ると、従者と共に邸宅内を見て回り、安否を確かめて回った。
 敷地内のあちこちが壊れ始めており、急を要する状況だった。不比等の表情にも焦りが滲み出ている。
「皆、無事か!」
「はい。私や安宿媛、家の使用人たちも、建物に挟まれた者はいますが、命に別条はありません」
 三千代は安宿媛のそばに近づき、沈着冷静に答えた。かつて後宮に仕えた高級女官であった彼女は、こんな場面でもどこか落ち着いて見える。
「そうか……それは良かった。皆も、地震が落ち着くまでは、あまり外に出ないように」
 とはいえ、家の建物も完全に安全とは言えず、取り急ぎ補強に取り掛かることになった。
 安宿媛は恐怖に震えながら三千代にしがみつき、外の様子をじっと見つめている。
(この家がこんな状況なら、外は一体どうなっているのかしら......)
 まだ続く余震に怯えながら、皆は邸宅内のあちこちに集まり、身を寄せ合って夜を明かすことになった。

 翌日、不比等の元にも被害状況が少しずつ伝わってきた。
 さらに数日が経つと、農民の家が崩れ、多くの人が亡くなったとの報告も入り、山崩れや川の堰き止め、地割れも数多く起きているらしい。
「お父さま、京や農民の人たちは大丈夫でしょうか」
「今は天皇の指示により、さまざまな地域を回って状況を把握している。今回は皇太子も同行しているそうだ」
 だが、今はそんな悠長なことをしている場合ではない。日に日に死者やけが人が増えていく――この状況なら、容易に想像がつく。
「もちろん、状況を把握することも大事です。でも、困っている人たちを早く助けなければ、亡くなる人はさらに増えてしまいます」
「お前の言いたいことは分かる。しかし、人手が足りず、今すぐには対応できないのだ」
(確かに、これだけの被害をすぐに解決するのは無理よね)
「なら、私も外に出て、困っている人たちを助けに行きます」
「馬鹿なことを言うな、お前にそんなことは無理だ。大人しく家の中にいなさい」
 安宿媛は、そんな父の言葉などまったく気に止めず、強く反発した。
「いいえ、絶対に聞きません。今、私にできることをします!」
 彼女の脳裏には、先日見た農民の人々の様子が浮かぶ。幼い子供たちでさえ泣いていた。あの人たちも今、必死で助けを求めているかもしれない。そんな人たちを放っておくなど、今の彼女にはとてもできない。
 その言葉と共に、彼女は裳を身にまとったまま部屋を飛び出し、外へ駆けて行った。揺れる地面の上でも、その足取りに迷いはなかった。
 不比等は、そんな娘を止めることもできず、ただ呆然と立ち尽くす。
「はぁ、あの子は一度決めると、頑として譲らないからな」
 不比等はそう呟き、外へ駆けていった娘の方角を一度だけ見やった。それでも、邸宅の安全を確かめることは欠かせなかった。瓦の落ちた箇所や壁の裂け目を確かめ、倒れそうなものには急ぎ手を入れた。
 三千代は使用人たちに声をかけ、庭や、屋の崩れそうな所から移るように促した。
 不比等は遠くで揺れる木々や、崩れかけた塀を見やり、一人静かに息をつく。
「まずは、この邸を守ること、それが何よりも急ぐべきことだ」