平城京の導き ~古都の物語〜

「そ、それは良かったわね。じゃあ、私たちはここで失礼するわ。早く家に帰らないと、家族が心配するでしょうから」
「そうだね。君はそうしたほうがいい」
 首皇子は何とも素っ気なく、淡々とそう答えた。その声には冷たさも温かさもなく、まるで感情がないかのように聞こえる。
「じゃあ、私は行くわ」
 安宿媛は思わず、泣きそうになるのを必死にこらえ、使用人を引き連れてそそくさとその場から逃げるように去った。
 使用人の女性も、急に安宿媛が去ろうとするのを見て慌て、二人に一度頭を下げお辞儀すると、そのまま後を追っていく。
 そんな安宿媛たちの後ろ姿を、首皇子と広刀自はただ呆然と見送った。
「まぁ、安宿媛もそんなに急がなくてもいいのに」
 広刀自は少し首を傾げ、隣にいる首皇子にそっと歩み寄り、甘えるような声でそう話しかけた。
 だが首皇子は、そんな彼女を気に留めることもなく、遠くに見える安宿媛の後ろ姿に目を向けている。その瞳には、ふと一瞬だけ、どこか寂しさを帯びているようにも見えた。
「首皇子、どうかしたの?安宿媛のほうを見ているようだけど」
「いや、別に、そんなんじゃないよ」
 そう言うと、彼は急に向きを変え、そのままひとりで歩き始めた。
 言葉の端々に素っ気なさを残したまま、足取りはどこかおぼつかないように思える。
「ねえ、皇子どうかしたの、そんな早足で」
 広刀自も慌てて後ろから追いかけたが、首皇子は口を閉ざしたままだ。広刀自はただ混乱するばかりだった。
(首皇子は一体どうしてしまったのかしら。こんな彼を見るのは初めてだわ) 

 一方、安宿媛は使用人を連れ、自宅へ戻ってきた。迎えたのは母親・三千代である。
 彼女は家に入るなり、げんなりした様子で、どこか心ここにあらずといった感じだった。足取りも重たく、ため息がぽつりと漏れる。ここまでの道のりの疲れが、まだ体に残っているのだろう。
 使用人の女性も後ろからついてきていたが、安宿媛の様子につられるように、どこか浮かない表情をしている。
「まぁ、あなた。行きはあんなに嬉しそうだったのに……どうしたの? 随分しょげ込んでいるわね」
「お母さま、今日はどうも歩きすぎてしまったようで、少し疲れてしまったみたいです」
 三千代も少し拍子抜けしてしまう。髪と衣が土埃を浴び、ここまで疲れ切っている娘を前に、変に詮索をする気にもなれなかった。
「そう、それなら早く体を拭いて、今日はゆっくり休みなさい」
「はい、そうします」
 安宿媛はそう言い、軽くお辞儀をすると、そのまま自身の部屋へと戻って行った。
 その様子を見た三千代は、胸の内に不安を覚え、思わず小さく息をついた。そして安宿媛に同行していた使用人に、今日の出来事について、話せる範囲で尋ねることにした。
 使用人は彼女に問いかけられると、少し困惑した表情を見せながらも、話せる範囲で今日の出来事を伝える。
「そう、そんなことがあったのね。やはり首皇子は、広刀自のほうが良いのかしら」
 三千代は小さく「ふぅー」とため息を漏らした。その表情には、困惑の色と共に、どうにも拭いきれない不安が表れている。
「正直、私には首皇子の真意は全く分かりません。でも、これでは安宿媛が少々気の毒に感じられます」
 出かける前はあれほど嬉しそうだった安宿媛が、今ではすっかり消沈している。その様子を傍で見ていた使用人も、思わず表情を曇らせていた。
「皇子の考えが全く心当たりがないわけではないわ。でも、夫は安宿媛との婚姻を諦めたわけではないので、しばらく様子を見るしかないかしら」
「三千代様、私ごときが申し上げる立場ではありませんが、どうか安宿媛のお幸せも、ちゃんと考えてあげてください」
 使用人は深々と頭を下げた。その表情は三千代には見えないが、手が少し震えており、必死に自分の感情を抑えているようにも感じられた。
 その必死さは、三千代の胸にも痛いほど伝わってくる。
「私だって、あの子の幸せを考えていないわけではないわ。それは夫の不比等も同じことよ」