平城京の導き ~古都の物語〜

 安宿媛と真備は、観世音寺に戻ってきた。
 どうやら、彼女たちがやって来る少し前に、安宿媛の使用人の女性も寺院を訪れていたらしい。
 真備は寺に着くと、すぐに使用人の姿に気づき、そっと安宿媛に耳打ちした。
「何か誤解があってもいけません。私はこれで失礼しますね」
 そう言うと、彼は軽く一礼し、そのまま寺院を後にしてしまった。
「安宿媛、本当に軽はずみな行動は控えてくださいませ。あなたに何かあれば、私が不比等様たちに叱られてしまいます!」
「本当にごめんなさい。もう、あなたに迷惑をかけることはしないから」
 二人はその後寺院を出て、朱雀大路を通り自宅へ向かった。平城京の中心を南北に貫く朱雀大路は、整然とした道が悠々と伸びている。
 西の空にはまだ陽が残り、行き交う人々の姿を照らしていた。
 安宿媛は帰り道、心の中で反省しながらも、使用人から散々説教を受ける羽目になる。
 東市で買った荷物が思いのほか増えてしまい、安宿媛もその一部を自分で持って歩く。使用人の横を歩きながら、ささやかな気持ちを込めているつもりだった。どうか今日の出来事が、お父さまやお母さまに知られませんように――彼女は胸の内で、息をひそめるように願った。

 今日は東市に向かうだけのつもりが、まさか平城京の外に出ることになるとは、本当に予想外の出来事だった。そう思い巡らせながら歩いていると、朱雀門の手前で、ふと声を掛けられる。
「まぁ、あなたは安宿媛では?」
 声の主は、県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という名前の娘で、安宿媛の母・三千代(みちよ)の親戚にあたる人物だった。
「今日はどこかに出かけていたの?」
「えぇ、ちょっと市の方へ」
 安宿媛は、広刀自の装いに思わず目をやる。彼女は見栄えの良い衣をまとい、どこか整った印象を与えていた。
 一方の彼女は、東市で布や文具を買い、その後は平城京の外まで農民の様子を見に行っていたため、髪や衣に少し土埃がついている。
 立場としては自分の方が上であるのに、彼女の洗練された美しさに、思わず戸惑いを覚えてしまう。
「あなたこそ、こんな所でどうかしたの?」
「ええ、実は私――」
 その時、二人の背後から、聞き覚えのある声がかかった。
「広刀自、どうかしたのか?」
 振り返ると、そこに立っていたのは首皇子だった。彼は外出用の浅葱色の衣をまとい、穏やかながらもどこか感情の読めない表情で、こちらを見つめていた。
 広刀自が何か答えようとしたその時、首皇子の視線がふと横にずれた。
 その先に立つ安宿媛の姿に気づき、彼はわずかに目を見張る。だが次の瞬間には、元の無表情に戻ってしまった。
 安宿媛は突然のことに、どうしてよいか分からず、思わず視線を落としてしまう。
(どうして、首皇子がここにいるの?)
 首皇子は二人のもとへ、静かに歩み寄ってきた。
「今ちょうど、安宿媛にばったり会ったのよ。彼女は今日、市に行っていたみたい」
 広刀自は柔らかく微笑みながら答えた。その表情には、彼への親しみが深く込められているようにも思えた。
「......ふーん、そうなんだ」
 首皇子は短くそう呟くと、ほんの一瞬だけ安宿媛の方へ視線をやり、そのまま広刀自の隣へと並んだ。
 並んだ二人の様子は、どこか親しげに映っている。
 その光景を前にして、安宿媛の胸に、かすかな痛みが走った。
「じゃあ広刀自、そろそろ行こうか」
「ええ、そうね」
「あの、二人はどうして一緒にいるの?」
 安宿媛は、二人が去ろうとするのを見て、思わず声をかけた。
「今日は唐から珍しい品々が来たそうで、それを皇子が見せてくれるの」
「え?」
 安宿媛は思わず言葉を失い、思考が止まってしまった。それほどに彼は、広刀自とは親しい間柄なのだろうか。
 その瞬間、彼女の父親の言葉が脳裏をよぎる。首皇子は、安宿媛を娶るつもりはないが、広刀自なら可能性がある。そう言っていたのだ。
 彼女は変な違和感を覚えた。理由は分からないまま、気持ちだけが落ち着かなくなる。
 だが、その気持ちを悟られまいと、彼女は表情を整え、そっと顔を上げた。