「安宿媛、いつのまにその様な。もしや先日出かけられた際のことですか?」
「えぇ、そうなるわね。あ、でもお父さまとお母さまには詳しく話していないので、ここだけの話にしておいてちょうだい」
安宿媛はそう言って、必死にお願いした。帰りが遅くなり、両親に散々叱られたばかりの状況だ。これ以上、余計な疑いをもたれたくはなかった。
実際、先日大学寮へ出かけたお陰で、下道真備と色々と話ができたので、彼との繋がりを壊したくはなかった。
口元には小さな緊張が滲み、手のひらに少し力がこもってくる。
「まぁ、安宿媛に変な影響が無ければ良いのですが。もし何か問題があるようなら、不比等様には報告させて頂きますよ」
相手の使用人も、少し不自然な表情を見せたものの、彼女の必死さが伝わったようで、渋々納得した。
「えぇ、わかったわ」
それを聞いた安宿媛はほっと安堵し、胸を撫で下ろした。とりあえずこれで、何とかやり過ごせるだろう。
その後、彼女は欲しい物をいくつか選び、手に取りながら確認した。その中から気に入ったものを決めると、売り屋の者に代金を支払った。
「さて、私はこれで買い物は終わりだけど、あなたは他に何か欲しい物はないの?」
「え、私ですか?まあ、あるにはありますが」
「じゃあ、行ってきてちょうだい。私は観世音寺に寄ろうと思うので。お母さまにも伝えてきたことだし、そこにあなたを付き合わせるのは申し訳ないわ」
市の近くには、観世音菩薩を祀った小さな堂があり、人々はそれを「観世音寺」と呼んでいた。
「そうですか。それならお言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
「あそこの寺院付近には知り合いもいるし、何かあったら送ってもらえるわ」
こうして使用人の女性は安宿媛と別れ、少し嬉しそうな表情を浮かべながら、自身の買い物へと向かって行った。
安宿媛は、使用人を見送ると、それから観世音寺へ向かおうとした。だがふと、周囲のざわめきや人々の動きに、いつもと違う気配を感じた。
(今日はいつもより落ち着いた日のはず。でも、何やらざわめきが増えてきたような気もするわ……)
その時、彼女の横を数名の人が、大路を馬で勢いよく駆け抜けて行った。
道端の人々も慌てて身を引き、端に寄ける。どうやら行き先は平城京の外のようで、突然の出来事に安宿媛も思わず立ち止まり、周囲の人々が小声で話し始める様子を目にした。
「おい、どうしたっていうんだ?」
「何か、やつらひどく慌てていたな」
安宿媛もふと疑問に思い、しばしその場に立ち尽くしていた。だが次の瞬間、急に声を掛けられる。
「これは安宿媛、今日は市へ来られていたのですか?」
安宿媛は思わず振り返った。そこに立っていたのは、先日会った下道真備である。彼は学生らしく簡素な衣を纏い、背には学びに用いる書物を布に包み、簡素な袋のようにして掛けていた。
「あ、あなたは真備殿」
「まさかこんな所で、またお会いするとは。どうかされたのですか?」
真備はそう言い、にこやかに安宿媛へ笑いかけた。相変わらず物腰が柔らかく、その笑顔を見て、安宿媛も少しばかり心がほぐれるのを感じた。
「いえ、今、数人の人が馬に乗って平城京の外に向かっていったので、何かあったのかなと思いまして」
「ふーん。特に大きな問題は聞いていませんが。きっと農民たちの税の徴収でしょうね」
「最近、農民の暮らしがとても苦しいらしいと、お父さまもおっしゃっていました」
「そうですね。では、少し私たちも見に行ってみませんか?一度、農民の暮らしを見ておくのも良いかもしれませんよ」
安宿媛は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに考え込んだ。確かに、普段あまり外に出ない自分にとって、こうした機会でもなければ、農民の暮らしを見ることなど滅多にないだろう。
「そうね。ここからだと、それほど遠くもないし。少し覗くくらいなら、いいかもしれないわ」
安宿媛は、使用人の女性が心配するかもしれないと思い、先に寺院に少し寄ることにした。もし使用人が先に寺院に来ていた場合には、自分が少し外出する旨を伝えてもらえばいいだろう。
こうして二人は、農民の様子を見に、平城京の外へと向かった。
大路を歩きながら、安宿媛は普段目にすることのない農民の暮らしに、少し緊張を覚えた。周囲の喧騒や、道端で働く人々の姿を目にしながら、京とは違う空気や匂いも感じる。
(本当に、平城京の外の人たちはどんな暮らしをしているのかしら)
「えぇ、そうなるわね。あ、でもお父さまとお母さまには詳しく話していないので、ここだけの話にしておいてちょうだい」
安宿媛はそう言って、必死にお願いした。帰りが遅くなり、両親に散々叱られたばかりの状況だ。これ以上、余計な疑いをもたれたくはなかった。
実際、先日大学寮へ出かけたお陰で、下道真備と色々と話ができたので、彼との繋がりを壊したくはなかった。
口元には小さな緊張が滲み、手のひらに少し力がこもってくる。
「まぁ、安宿媛に変な影響が無ければ良いのですが。もし何か問題があるようなら、不比等様には報告させて頂きますよ」
相手の使用人も、少し不自然な表情を見せたものの、彼女の必死さが伝わったようで、渋々納得した。
「えぇ、わかったわ」
それを聞いた安宿媛はほっと安堵し、胸を撫で下ろした。とりあえずこれで、何とかやり過ごせるだろう。
その後、彼女は欲しい物をいくつか選び、手に取りながら確認した。その中から気に入ったものを決めると、売り屋の者に代金を支払った。
「さて、私はこれで買い物は終わりだけど、あなたは他に何か欲しい物はないの?」
「え、私ですか?まあ、あるにはありますが」
「じゃあ、行ってきてちょうだい。私は観世音寺に寄ろうと思うので。お母さまにも伝えてきたことだし、そこにあなたを付き合わせるのは申し訳ないわ」
市の近くには、観世音菩薩を祀った小さな堂があり、人々はそれを「観世音寺」と呼んでいた。
「そうですか。それならお言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
「あそこの寺院付近には知り合いもいるし、何かあったら送ってもらえるわ」
こうして使用人の女性は安宿媛と別れ、少し嬉しそうな表情を浮かべながら、自身の買い物へと向かって行った。
安宿媛は、使用人を見送ると、それから観世音寺へ向かおうとした。だがふと、周囲のざわめきや人々の動きに、いつもと違う気配を感じた。
(今日はいつもより落ち着いた日のはず。でも、何やらざわめきが増えてきたような気もするわ……)
その時、彼女の横を数名の人が、大路を馬で勢いよく駆け抜けて行った。
道端の人々も慌てて身を引き、端に寄ける。どうやら行き先は平城京の外のようで、突然の出来事に安宿媛も思わず立ち止まり、周囲の人々が小声で話し始める様子を目にした。
「おい、どうしたっていうんだ?」
「何か、やつらひどく慌てていたな」
安宿媛もふと疑問に思い、しばしその場に立ち尽くしていた。だが次の瞬間、急に声を掛けられる。
「これは安宿媛、今日は市へ来られていたのですか?」
安宿媛は思わず振り返った。そこに立っていたのは、先日会った下道真備である。彼は学生らしく簡素な衣を纏い、背には学びに用いる書物を布に包み、簡素な袋のようにして掛けていた。
「あ、あなたは真備殿」
「まさかこんな所で、またお会いするとは。どうかされたのですか?」
真備はそう言い、にこやかに安宿媛へ笑いかけた。相変わらず物腰が柔らかく、その笑顔を見て、安宿媛も少しばかり心がほぐれるのを感じた。
「いえ、今、数人の人が馬に乗って平城京の外に向かっていったので、何かあったのかなと思いまして」
「ふーん。特に大きな問題は聞いていませんが。きっと農民たちの税の徴収でしょうね」
「最近、農民の暮らしがとても苦しいらしいと、お父さまもおっしゃっていました」
「そうですね。では、少し私たちも見に行ってみませんか?一度、農民の暮らしを見ておくのも良いかもしれませんよ」
安宿媛は一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに考え込んだ。確かに、普段あまり外に出ない自分にとって、こうした機会でもなければ、農民の暮らしを見ることなど滅多にないだろう。
「そうね。ここからだと、それほど遠くもないし。少し覗くくらいなら、いいかもしれないわ」
安宿媛は、使用人の女性が心配するかもしれないと思い、先に寺院に少し寄ることにした。もし使用人が先に寺院に来ていた場合には、自分が少し外出する旨を伝えてもらえばいいだろう。
こうして二人は、農民の様子を見に、平城京の外へと向かった。
大路を歩きながら、安宿媛は普段目にすることのない農民の暮らしに、少し緊張を覚えた。周囲の喧騒や、道端で働く人々の姿を目にしながら、京とは違う空気や匂いも感じる。
(本当に、平城京の外の人たちはどんな暮らしをしているのかしら)



