その日、安宿媛は家の使用人を連れて東市へ出かけることにした。彼女の家から東市までは徒歩で行けるため、さほど遠くはない。
朱雀大路を下っていくと、朝日が軒先に当たり、影が壁を伝って下へ伸びていく。
道沿いには人々の声が響き、行き交う商人や子どもたちの話し声が、自然と耳に入ってきた。遠くの方では、役人の乗る馬が土を蹴り上げる音が小さく響いている。
安宿媛は、その人の多さを横目に、路を進めていく。京で暮してはいるものの、頻繁に外へ出かけるわけではないため、その活気に自然と心が弾む。
平城京には、左京八条三坊に東市、右京八条二坊に西市が置かれた。市は市司という役所の管理下にあり、昼から日没まで開門している。
印となる樹木が植えられた市の中には、売り物を示す看板を掲げた店が並んでいた。
ここは、京で暮らすおよそ十万人もの人々の暮らしを支える場となっており、貴族から庶民まで、さまざまな者が日々この市に足を運んでいる。
朝廷や各地から宮や京へ集められた物産も市に出され、京に暮らす六位以下の中下級役人たちは、給料として受け取った現物をここで売り、銭にかえて生活に必要な品を揃えていた。
売られている物は衣類や土器、文具、薬などで、そのほかにも、かごや桶といった暮らしに使う品々が店先に並んでいた。
広場では人々が行き交う一方で、時折、罪人が引き出される場面に居合わせることもあった。
「市は相変わらず賑やかで良いわ」
安宿媛は、そう呟きながら、市の様子を見渡した。
「安宿媛も、市はお好きですね」
「ここに来ると、珍しい物が見つかったりするから、息抜きにも最適だもの。それに身分に関係なく、やり取りが出来るのが良いのよ」
今日も市は活気に満ちあふれている。品々を見て通りかかった者が足を止め、売り値の交渉をしている。
笛の音もどこからか聞こえてきて、そんな光景を見るのが、彼女はとても好きだった。
「安宿媛、では早く目的の品を探しましょう」
使用人にそう言われ、彼女は早速目当ての品を探し始めた。
今日は新しい布と、筆や木簡で使う小刀が目当てだった。書写には紙も使うが、紙は高価なため、練習や簡単な用事の際には木簡を使うこともある。
目当ての品々を見定めると、安宿媛は売り手に声をかけ、まずは布を購入することにした。
「今日は良い布が手に入ってますよ。一つ手に持って見てくだされ」
彼女は差し出された布を手に取る。触り心地も良く、値段もわりと手頃のようだ。
「確かに良い布ね。これにするわ!」
意外にも早く決まり、彼女は支払いを袋から取り出して売り手に渡す。布は使用人に持ってもらい、次に文具の店を探す。
文具の店の前で、さまざまな品を眺めながら、安宿媛はどれにするか考え込む。
「水差しや円面硯もだいぶ使っているから、本当は新しいのが欲しいけれど、あまり贅沢はできないわ」
「安宿媛は、本当にお優しいですね」
「書写でも貴重な紙を使うから、貴族の娘とはいえ、できるところは節約しておきたいの」
「そうですね。私たちが豊かな生活を送っている裏では、農民たちは重い税に苦しんでいると聞きますし」
そんな会話をしながら、二人は品を前に、なおもしばらく思案していた。
彼女らがまだ悩んでいるようだったので、売り屋の者は、ひとまず他の客に声を掛け始める。
安宿媛は目の前の品々を見ながら、ふとつぶやいた。
「本当にそうね。私にも、いつか何か出来ることを見つけてやりたいわ」
安宿媛はそう言って、軽く微笑んだ。
誰も苦しむことなく、平穏に暮らせる世の中になってほしい。
真備に話したその想いが、しっかりと心に刻まれていた。
「まぁ、そのようなお考えをお持ちだったのですね」
使用人の女性は、彼女の意外な発言に、ふと驚いた表情を見せる。普通の貴族の娘が口にする内容とはとても思えなかった。
「えぇ、前から何となく思っていたけど、最近知り合った人の話を聞いて、もっとそう思うようになったの」
自分のような貴族の娘でも、誰かの役に立つことをしたい。その思いは、ただの理想ではなく、少しずつ思いが膨らんでいくようだった。
(私にできることは、世の中から見れば、ほんの些細なことかもしれない。でも、私の願いだと思うなら、きっと意味がある)
安宿媛は、心の中でそっと自分にそう言い聞かせた。
朱雀大路を下っていくと、朝日が軒先に当たり、影が壁を伝って下へ伸びていく。
道沿いには人々の声が響き、行き交う商人や子どもたちの話し声が、自然と耳に入ってきた。遠くの方では、役人の乗る馬が土を蹴り上げる音が小さく響いている。
安宿媛は、その人の多さを横目に、路を進めていく。京で暮してはいるものの、頻繁に外へ出かけるわけではないため、その活気に自然と心が弾む。
平城京には、左京八条三坊に東市、右京八条二坊に西市が置かれた。市は市司という役所の管理下にあり、昼から日没まで開門している。
印となる樹木が植えられた市の中には、売り物を示す看板を掲げた店が並んでいた。
ここは、京で暮らすおよそ十万人もの人々の暮らしを支える場となっており、貴族から庶民まで、さまざまな者が日々この市に足を運んでいる。
朝廷や各地から宮や京へ集められた物産も市に出され、京に暮らす六位以下の中下級役人たちは、給料として受け取った現物をここで売り、銭にかえて生活に必要な品を揃えていた。
売られている物は衣類や土器、文具、薬などで、そのほかにも、かごや桶といった暮らしに使う品々が店先に並んでいた。
広場では人々が行き交う一方で、時折、罪人が引き出される場面に居合わせることもあった。
「市は相変わらず賑やかで良いわ」
安宿媛は、そう呟きながら、市の様子を見渡した。
「安宿媛も、市はお好きですね」
「ここに来ると、珍しい物が見つかったりするから、息抜きにも最適だもの。それに身分に関係なく、やり取りが出来るのが良いのよ」
今日も市は活気に満ちあふれている。品々を見て通りかかった者が足を止め、売り値の交渉をしている。
笛の音もどこからか聞こえてきて、そんな光景を見るのが、彼女はとても好きだった。
「安宿媛、では早く目的の品を探しましょう」
使用人にそう言われ、彼女は早速目当ての品を探し始めた。
今日は新しい布と、筆や木簡で使う小刀が目当てだった。書写には紙も使うが、紙は高価なため、練習や簡単な用事の際には木簡を使うこともある。
目当ての品々を見定めると、安宿媛は売り手に声をかけ、まずは布を購入することにした。
「今日は良い布が手に入ってますよ。一つ手に持って見てくだされ」
彼女は差し出された布を手に取る。触り心地も良く、値段もわりと手頃のようだ。
「確かに良い布ね。これにするわ!」
意外にも早く決まり、彼女は支払いを袋から取り出して売り手に渡す。布は使用人に持ってもらい、次に文具の店を探す。
文具の店の前で、さまざまな品を眺めながら、安宿媛はどれにするか考え込む。
「水差しや円面硯もだいぶ使っているから、本当は新しいのが欲しいけれど、あまり贅沢はできないわ」
「安宿媛は、本当にお優しいですね」
「書写でも貴重な紙を使うから、貴族の娘とはいえ、できるところは節約しておきたいの」
「そうですね。私たちが豊かな生活を送っている裏では、農民たちは重い税に苦しんでいると聞きますし」
そんな会話をしながら、二人は品を前に、なおもしばらく思案していた。
彼女らがまだ悩んでいるようだったので、売り屋の者は、ひとまず他の客に声を掛け始める。
安宿媛は目の前の品々を見ながら、ふとつぶやいた。
「本当にそうね。私にも、いつか何か出来ることを見つけてやりたいわ」
安宿媛はそう言って、軽く微笑んだ。
誰も苦しむことなく、平穏に暮らせる世の中になってほしい。
真備に話したその想いが、しっかりと心に刻まれていた。
「まぁ、そのようなお考えをお持ちだったのですね」
使用人の女性は、彼女の意外な発言に、ふと驚いた表情を見せる。普通の貴族の娘が口にする内容とはとても思えなかった。
「えぇ、前から何となく思っていたけど、最近知り合った人の話を聞いて、もっとそう思うようになったの」
自分のような貴族の娘でも、誰かの役に立つことをしたい。その思いは、ただの理想ではなく、少しずつ思いが膨らんでいくようだった。
(私にできることは、世の中から見れば、ほんの些細なことかもしれない。でも、私の願いだと思うなら、きっと意味がある)
安宿媛は、心の中でそっと自分にそう言い聞かせた。



