平城京の導き ~古都の物語〜

 自分には見向きもしないくせに、藤原の縁に連なる別の女性なら構わないというのか。それなら、自分は嫌だと言われているのと同じである。
(そんなこと......)
「もう、良いです。首皇子のお心のままになさってくださいませ」
 それだけ口にすると、安宿媛はその場を後にした。

 裳を引きずりながら、彼女は早歩きで足を進める。心の中は混乱でぐちゃぐちゃになり、悲しいやら悔しいやらで、胸が押し潰されそうだった。
(何よ、やっぱり私の事が嫌いなんじゃない!)
 安宿媛は部屋に戻るなり、その場に座り込み、うつむいてしまう。袖を握りしめ、何とか心の痛みを抑えようとした。
 悔しさやもどかしさはうまく言葉にならず、息をするたびに胸の奥が苦しくなってくる。
「これでも、彼を信じろって言う訳?私......そこまで強くはない」
 もともと、自分は藤原不比等の娘であり、親の意向に沿った相手に嫁ぐものだと考えていた。だが、こんな事態が今後も続くなら、もう誰の元にも嫁ぎたくはないと思った。
(私の人生は、やはり御仏に仕えるべきなのかもしれない)
 ふと彼女は、今日真備に見せてもらった経典に手を触れる。彼のおかげで、中身はそれなりに理解できていた。
 紙をめくり、筆で書かれた文字をそっとなぞると、指先にわずかな冷たさが伝わってきた。
「本当、御仏は皆に平等とはいかないのかもしれないわね」
 経典を胸に抱え、そのまま床に寝そべる。彼女の目からは一筋の涙が流れた。
「首皇子」と彼女は小さく呟く。
 こうしてこの日は、安宿媛の感情とは裏腹に、いつの間にか過ぎていった。