「私の願いは、誰も苦しむことなく、平穏に暮らせる世の中になってほしいです。それこそが、神の御心だと思っております。こんな私でもできることがあるでしょうか」
「ええ、もちろんです」
それから真備は、ここまで来た道の方角に視線を向け、安宿媛にもそちらを見るよう促した。
視線の先には、平城京の街並みが整然と広がり、ゆるやかに伸びる大路の様子がここから見て取れ、日差しが路を照らしている。
「安宿媛、私たちは藤原京より、この平城京へと移り変わってきました。皆がそれぞれの希望や想いを持ち、まるでここに導かれるかのように」
「そうね。より良き京を作るために」
「ええ、藤原不比等殿の進言もあり、天皇自らが平城京への遷都をご決断されたのです」
「真備?それが何か?」
「もし平城京に導かれ、私達もこうして今日出会えたのだとすれば、あなたの純粋な誠と祈りにより、きっと神は報いてくださると思うのです」
真備の穏やかな声が、安宿媛の中にすっと入ってくる。その言葉にごまかしはなく、彼のまっすぐな信念が伝わってくる。すると、彼女の目の奥が自然と熱くなってきた。
「それを私も信じたいです。今日はあなたに会えて、本当に良かったと思います」
「及ばずながら、私もお力になりたいと思います。何となくあなたとは目に見えぬ縁を感じるのです」
「ええ、私も不思議とそのような気がします」
安宿媛は指先で頬を伝う涙を拭い、泣き笑いのような微笑みを浮かべる。
(私はもっと自分を信じて頑張ってみたい。そうしたらいずれは首皇子とも、以前のように話せるようになるかもしれない)
こうして二人は別れ、宿媛は自身の邸へ戻ることにした。
気付けば夕方を過ぎ、平城京の外の道には人影も少なく、遠くで人々の声や馬の蹄の音がかすかに聞こえてくる。
そして邸に戻るやいなや、使用人たちが彼女に駆け寄ってきた。どうやら相当心配していたらしく、不比等と三千代も、ずっと待っていたらしい。
(あぁ......やっぱり、お父さま達、怒ってるわよね)
「安宿媛、一体今までどこに行っていたんだ!」
「お父さま、ごめんなさい。少し外に出かけてました」
「年頃の娘が、一人でそんなに長いあいだ出歩くなど、もっと己の行動に自覚を持たないか」
「そうですよ、安宿媛。外は何かと物騒なことも多いの。何かあってからでは遅いのですよ」
三千代もそう言って大きくため息をついた。
その声に促されるように、安宿媛は一歩前へ進み、深々と頭を下げ、素直に詫びの言葉を口にした。
「お父さま、お母さま、本当にすみませんでした。以後は気をつけます」
「本当にやれやれだ。お前は物分かりはいい子だと思っているが、何かに夢中になると、ちょっと周りが見えなくなるところがあるな」
(本当に、何も言い返せない)
「やはり首皇子には、先に広刀自を嫁がせるべきかしらね」
「え、広刀自?」
三千代が言うのは県犬養広刀自といい、彼女も同じく、県犬養の娘だ。年は安宿媛よりも二歳年上になる。
「お母さま、それはどういうことですか?」
「お父さまから少し聞いてはいると思うけど、元々首皇子には、あなたと広刀自の二人を夫人の候補にしていたのよ」
安宿媛はそれを聞いてひどく衝撃を受けた。てっきり父親たちが考えているのは、自分だけだと思っていたからだ。だが冷静に考えれば、皇太子が一人しか娶らないという訳もないだろう。
(そういえば首皇子は、藤原氏の娘は迎えないと言っていた。それは、藤原の家に連なる者すべて、という意味だったのかもしれない)
「ですが、首皇子は、藤原の家に連なる娘は娶りたくないと、おっしゃっていました」
「理由はまだ分からないけど、どうも広刀自の場合は少し様子が違うようなの。彼女なら首皇子も受け入れるかもしれないわ」
「え、どうしてですか? 私が駄目でも、広刀自なら構わないなんて......」
安宿媛は、思わず言葉を失ってしまう。目の前で語られた内容が、頭の中を駆け巡り、しばらく何も考えられなくなる。
「ええ、もちろんです」
それから真備は、ここまで来た道の方角に視線を向け、安宿媛にもそちらを見るよう促した。
視線の先には、平城京の街並みが整然と広がり、ゆるやかに伸びる大路の様子がここから見て取れ、日差しが路を照らしている。
「安宿媛、私たちは藤原京より、この平城京へと移り変わってきました。皆がそれぞれの希望や想いを持ち、まるでここに導かれるかのように」
「そうね。より良き京を作るために」
「ええ、藤原不比等殿の進言もあり、天皇自らが平城京への遷都をご決断されたのです」
「真備?それが何か?」
「もし平城京に導かれ、私達もこうして今日出会えたのだとすれば、あなたの純粋な誠と祈りにより、きっと神は報いてくださると思うのです」
真備の穏やかな声が、安宿媛の中にすっと入ってくる。その言葉にごまかしはなく、彼のまっすぐな信念が伝わってくる。すると、彼女の目の奥が自然と熱くなってきた。
「それを私も信じたいです。今日はあなたに会えて、本当に良かったと思います」
「及ばずながら、私もお力になりたいと思います。何となくあなたとは目に見えぬ縁を感じるのです」
「ええ、私も不思議とそのような気がします」
安宿媛は指先で頬を伝う涙を拭い、泣き笑いのような微笑みを浮かべる。
(私はもっと自分を信じて頑張ってみたい。そうしたらいずれは首皇子とも、以前のように話せるようになるかもしれない)
こうして二人は別れ、宿媛は自身の邸へ戻ることにした。
気付けば夕方を過ぎ、平城京の外の道には人影も少なく、遠くで人々の声や馬の蹄の音がかすかに聞こえてくる。
そして邸に戻るやいなや、使用人たちが彼女に駆け寄ってきた。どうやら相当心配していたらしく、不比等と三千代も、ずっと待っていたらしい。
(あぁ......やっぱり、お父さま達、怒ってるわよね)
「安宿媛、一体今までどこに行っていたんだ!」
「お父さま、ごめんなさい。少し外に出かけてました」
「年頃の娘が、一人でそんなに長いあいだ出歩くなど、もっと己の行動に自覚を持たないか」
「そうですよ、安宿媛。外は何かと物騒なことも多いの。何かあってからでは遅いのですよ」
三千代もそう言って大きくため息をついた。
その声に促されるように、安宿媛は一歩前へ進み、深々と頭を下げ、素直に詫びの言葉を口にした。
「お父さま、お母さま、本当にすみませんでした。以後は気をつけます」
「本当にやれやれだ。お前は物分かりはいい子だと思っているが、何かに夢中になると、ちょっと周りが見えなくなるところがあるな」
(本当に、何も言い返せない)
「やはり首皇子には、先に広刀自を嫁がせるべきかしらね」
「え、広刀自?」
三千代が言うのは県犬養広刀自といい、彼女も同じく、県犬養の娘だ。年は安宿媛よりも二歳年上になる。
「お母さま、それはどういうことですか?」
「お父さまから少し聞いてはいると思うけど、元々首皇子には、あなたと広刀自の二人を夫人の候補にしていたのよ」
安宿媛はそれを聞いてひどく衝撃を受けた。てっきり父親たちが考えているのは、自分だけだと思っていたからだ。だが冷静に考えれば、皇太子が一人しか娶らないという訳もないだろう。
(そういえば首皇子は、藤原氏の娘は迎えないと言っていた。それは、藤原の家に連なる者すべて、という意味だったのかもしれない)
「ですが、首皇子は、藤原の家に連なる娘は娶りたくないと、おっしゃっていました」
「理由はまだ分からないけど、どうも広刀自の場合は少し様子が違うようなの。彼女なら首皇子も受け入れるかもしれないわ」
「え、どうしてですか? 私が駄目でも、広刀自なら構わないなんて......」
安宿媛は、思わず言葉を失ってしまう。目の前で語られた内容が、頭の中を駆け巡り、しばらく何も考えられなくなる。



