平城京の導き ~古都の物語〜

 それから二人は、大学寮の外まで駆け足でやってきて、さらに平城京の外へ続く路に足を進めた。言葉も次第に少なくなり、二人の足音だけが、静かな路に小さく響いている。
 真備もこの後の用事がないと聞き、安宿媛は肩の力がふっと抜けるのを感じた。これ以上、彼に余計な手間や迷惑をかけずに済みそうだ。
(この方にこれ以上迷惑を掛けずに済んで、本当に良かった)
 しかし同時に、この件で彼を巻き込んでしまったという申し訳なさが、彼女の心に重く残る。
「真備殿、申し訳ありません」 
 安宿媛は言葉を口にしながら視線を真備に向ける。安堵と申し訳なさが混ざり、気持ちが落ち着かないまま、彼女は詫びの言葉を口にした。
「いえいえ、こちらこそあなたを巻き込んでしまって」
「実は今日は、家の者には内緒で来てしまったのです」
「そういうことだったのですね。だから控えめな服装だったのですね」
「はい、武智麻呂の兄さまに知られると、お父さまにも伝わってしまい、何かと面倒になると思いまして」
「なるほど。大切な立場のお方ですからね」
「なので、私もそろそろ家に戻ろうかと思います」

「ええ、それが良さそうです」
 二人はふと外の景色に目をやった。風に揺れる木々の葉が目に入り、遠くからは小鳥の声が聞こえてくる。
 道の両側には木造の平屋が並び、軒先には干し草や野菜を売る女性の姿が見える。
 行き交う人々は庶民の装束を纏い、子供たちが道端で元気に走り回り、商人の呼び声も混ざり、街には自然な賑わいがあった。
 安宿媛はその中を歩きながら、京内の人々がそれぞれに暮らしている様子を眺めていた。
「それにしても、真備殿は本当にすごい方ですね。あれほどの知識をお持ちで、しかも素敵な夢まで語られるなんて」
「そんなことはありません。あくまで夢に過ぎませんし、本当に実現できるかは分かりません。けれど、信じないことには何も始まりませんから」
「信じないことには……」
 安宿媛はその言葉を聞き、ふと考え込んでしまう。真備の言葉が何度も思い返され、はっきりとは分からないまま、心に何かが残ったような気がした。
(先ほど首皇子は、どうして私を助けてくれたのだろう)
「安宿媛、どうかされましたか?」
「実は、今日も少しお話しましたが、私は首皇子とは子供の頃、本当に仲が良かったんです。それが彼が皇太子になる前から徐々に距離ができ、ついには会ってもくれなくなりました」
「そうでしたか。それはさぞお辛いことでしょう」
「でも、先ほどは偶然かもしれませんが、私を庇ってくれたのです」
 真備はそんな彼女の言葉の意味を理解した。彼の目には、安宿媛の戸惑いや不安がしっかりと映っている。
「もしかすると、首皇子にも何か事情があるのではないでしょうか」
「え、事情ですか?」
「はい、彼は決してあなたを嫌っているわけではないと思います」
 安宿媛はそれを聞き、目を大きく見開いた。まだ、希望が残っているのだろうか。
安堵とともに、これまでの寂しさや不安が頭をよぎる。それでも、気持ちは先ほどより少し軽くなった気がした。
「私は、嫌われてはいない」 
「はい。あなたは信仰心も強く、努力を重ね、さまざまなことに目を向けようとされています」
「真備殿?」
 真備は一歩前に出て安宿媛に目を向けると、柔らかくも力強い声で語りかけた。その視線には迷いも躊躇もない。彼の迷いのない確かな思いが伝わってくる。
「私はそう思います。あなたには、きっとあなたにしかできない使命があるはずです。今は自分を信じて進めば良いのです。大丈夫、いつか首皇子との誤解も解けますよ」
「私にしか出来ない使命」 
 真備のその言葉を聞いた瞬間、安宿媛は思わず手のひらを握りしめた。気づくと、視界がにじみ、涙がこぼれてくる。どうしてこんなにも、この言葉で心が揺れるのか、それは自分でも分からない。ただ、胸のあたりが熱くなり、しばらく言葉が出てこなかった。