「じゃあ、そろそろ外に出ますか?」
「ええ。私も、そろそろ家に戻った方が良さそうです」
そう言って、二人はそっとその場を後にした。木戸を押し開けると、外のひんやりとした空気が頬を撫でる。また、遠くの松林からは、小鳥のさえずりがかすかに響いてくる。
二人が外を歩いていると、学寮内が何やら慌ただしい様子に見えた。学生たちは、白や淡い色の衣を身にまとい、声を交わしている。
一部では、言葉を交わしながら身振りでやり取りし、揉め事でもあるかのように立ち話をしている者もいる。
「あら、何かあったのかしら?」
「確かに変ですね。ちょっと、知っていそうな人に聞いてみますか」
二人は近くの学生に声をかけ、この騒ぎの事情を尋ねてみた。
「あぁ、これは真備殿ですか。実は最近、修業が不十分なのに、みだりに任官の推薦を求める学生がいるらしいのです」
「なんと、強情な者ですね。それで、今はどういう状況なのですか?」
「武智麻呂様の指示により、その者たちを集め、一人一人話を聞いて回っているところのようです」
(まぁ、首皇子が今日ここに来ていたのも、この事が関係しているのかしら?)
安宿媛は真備の横で話を聞きながら、ふとそう思った。皇太子である首皇子が、普段このような場所に足を運ぶとはなかなか考えにくい。きっと、それ相応の理由があったはずだ。
(でも彼が、こんな学生の些細な問題にまで関わるものかしら……)
その場の学生たちの表情にも、少し緊張が漂っている。巻き物を手にささやき合う者もいれば、眉をひそめ、困惑して腕を組む者もいた。
日差しがあたる裾や帯が、昼の学寮の中で、かすかに目に入る。
「まぁ、それは武智麻呂様に任せるしかないでしょう」
「ええ。勉学に支障がなければ、それで十分です」
(真備殿のように真面目に勉学に励む人たちもいることだし、面倒な問題ごとにならなければ良いけど)
その後、真備は安宿媛の方を見て、声をひそめて告げた。
「どうやら、私の知っている人物も混じっているようだ。ちょっと見に行って来ます」
そう言うと、真備は安宿媛の横をそっと離れ、群れの中へ歩み入っていった。
安宿媛は彼の背を見送り、向かった先を心配そうに目で追う。
学寮の昼の空気の中で、群れのざわめきがやや強く広がっていった。
(どうしよう、真備殿が巻き込まれなければ良いけれど)
安宿媛は、とりあえず彼が戻ってくるのを待つことにした。
そんな時である。少し離れた所に、藤原武智麻呂が立っているのが見えた。
(こんな所に私がいるのが見つかったら、問題かもしれない)
だが、あいにく彼は安宿媛に気づいたようだった。彼は安宿媛の姿を見るや否や、驚きの表情を顔に浮かべ、駆け足で彼女の傍までやってくる。
「安宿媛、何でお前がここにいるんだ!」
「お兄さま、これはちょっと理由があって」
安宿媛は理由を考えようとするが、なかなか思いつかない。両手を頭に当て、視線を周囲に走らせた。
(どうすれば、この場をしのげるかしら)
そうこうしているうちに、遠くの方から「武智麻呂殿ー!」と彼を呼ぶ声が聞こえた。
「く、仕方ない。とにかくお前は早く帰るんだ、良いな!」
そう言うと、彼は呼ばれた人物のもとへ駆けて行き、少し言葉を交わしたあと、どこかへ去ってしまった。しかし、その道中の様子には、わずかに困惑の色が見て取れた。
「ふぅ、何とか助かったわ。ところで、真備殿は大丈夫なのかしら」
安宿媛が彼に目を向けると、説得に入ったはずの真備が、逆上した相手に今にも押されそうになっていた。このままだと、真備が危害を受けてしまうかもしれない。
(駄目、彼を助けないと)
安宿媛は真備の元へ急いで駆け寄った。そして相手の男の前で両手を広げ、毅然と立ちはだかる。
「やめて、彼は何も悪くないわ!」
「何だ、きさま!ここは女がしゃしゃり出てくるような所じゃねえ!」
その瞬間、相手の男が彼女の腕を強く掴んだ。
安宿媛はとっさに身を引こうとしたが、腕に伝わる力が思いのほか強く、簡単には振りほどけない。思わず胸の内に、強い憤りがこみ上げた。
(どうしよう、真備殿が)
その時、誰かが脇から素早く駆けつけ、相手の男の腕を安宿媛から引き離した。
その人物を見て、安宿媛は思わず息をのんだ。その相手は、なんと首皇子だった。
(首皇子が、何故ここに?)
場の空気が一変し、周囲の者たちは驚きで一瞬静まり返った。
「皇太子、なぜここに?」
一人の者が思わず口を開いた。驚きと戸惑いで声が少し裏返り、周囲の者たちも皆、一斉に首皇子を見つめた。
首皇子は安宿媛には目を向けず、その場で低く声を発した。
「ここは、今後この国を担っていく者たちが集う場所だ。それなのに、こんな騒ぎを起こす者たちは、その資格がない」
この状況に武智麻呂もさすがに気づいたのか、彼が再びこちらに戻ってくるのが見えた。
安宿媛はその様子を見て、これ以上ここにいるのはまずいかもしれないと考えた。
「真備殿、すみません。ここは一旦離れましょう」
真備も一瞬戸惑ったが、彼女の言うがままに、一度ここを離れることにした。
安宿媛はその場を離れる瞬間に振り返る。首皇子はただ前を見据え、何事もなかったかのように立っていた。
(首皇子、一体どうして)
心の中で首皇子への疑問が浮かぶ一方、安宿媛は早くこの場を離れたくて、真備と共に歩き出した。
「ええ。私も、そろそろ家に戻った方が良さそうです」
そう言って、二人はそっとその場を後にした。木戸を押し開けると、外のひんやりとした空気が頬を撫でる。また、遠くの松林からは、小鳥のさえずりがかすかに響いてくる。
二人が外を歩いていると、学寮内が何やら慌ただしい様子に見えた。学生たちは、白や淡い色の衣を身にまとい、声を交わしている。
一部では、言葉を交わしながら身振りでやり取りし、揉め事でもあるかのように立ち話をしている者もいる。
「あら、何かあったのかしら?」
「確かに変ですね。ちょっと、知っていそうな人に聞いてみますか」
二人は近くの学生に声をかけ、この騒ぎの事情を尋ねてみた。
「あぁ、これは真備殿ですか。実は最近、修業が不十分なのに、みだりに任官の推薦を求める学生がいるらしいのです」
「なんと、強情な者ですね。それで、今はどういう状況なのですか?」
「武智麻呂様の指示により、その者たちを集め、一人一人話を聞いて回っているところのようです」
(まぁ、首皇子が今日ここに来ていたのも、この事が関係しているのかしら?)
安宿媛は真備の横で話を聞きながら、ふとそう思った。皇太子である首皇子が、普段このような場所に足を運ぶとはなかなか考えにくい。きっと、それ相応の理由があったはずだ。
(でも彼が、こんな学生の些細な問題にまで関わるものかしら……)
その場の学生たちの表情にも、少し緊張が漂っている。巻き物を手にささやき合う者もいれば、眉をひそめ、困惑して腕を組む者もいた。
日差しがあたる裾や帯が、昼の学寮の中で、かすかに目に入る。
「まぁ、それは武智麻呂様に任せるしかないでしょう」
「ええ。勉学に支障がなければ、それで十分です」
(真備殿のように真面目に勉学に励む人たちもいることだし、面倒な問題ごとにならなければ良いけど)
その後、真備は安宿媛の方を見て、声をひそめて告げた。
「どうやら、私の知っている人物も混じっているようだ。ちょっと見に行って来ます」
そう言うと、真備は安宿媛の横をそっと離れ、群れの中へ歩み入っていった。
安宿媛は彼の背を見送り、向かった先を心配そうに目で追う。
学寮の昼の空気の中で、群れのざわめきがやや強く広がっていった。
(どうしよう、真備殿が巻き込まれなければ良いけれど)
安宿媛は、とりあえず彼が戻ってくるのを待つことにした。
そんな時である。少し離れた所に、藤原武智麻呂が立っているのが見えた。
(こんな所に私がいるのが見つかったら、問題かもしれない)
だが、あいにく彼は安宿媛に気づいたようだった。彼は安宿媛の姿を見るや否や、驚きの表情を顔に浮かべ、駆け足で彼女の傍までやってくる。
「安宿媛、何でお前がここにいるんだ!」
「お兄さま、これはちょっと理由があって」
安宿媛は理由を考えようとするが、なかなか思いつかない。両手を頭に当て、視線を周囲に走らせた。
(どうすれば、この場をしのげるかしら)
そうこうしているうちに、遠くの方から「武智麻呂殿ー!」と彼を呼ぶ声が聞こえた。
「く、仕方ない。とにかくお前は早く帰るんだ、良いな!」
そう言うと、彼は呼ばれた人物のもとへ駆けて行き、少し言葉を交わしたあと、どこかへ去ってしまった。しかし、その道中の様子には、わずかに困惑の色が見て取れた。
「ふぅ、何とか助かったわ。ところで、真備殿は大丈夫なのかしら」
安宿媛が彼に目を向けると、説得に入ったはずの真備が、逆上した相手に今にも押されそうになっていた。このままだと、真備が危害を受けてしまうかもしれない。
(駄目、彼を助けないと)
安宿媛は真備の元へ急いで駆け寄った。そして相手の男の前で両手を広げ、毅然と立ちはだかる。
「やめて、彼は何も悪くないわ!」
「何だ、きさま!ここは女がしゃしゃり出てくるような所じゃねえ!」
その瞬間、相手の男が彼女の腕を強く掴んだ。
安宿媛はとっさに身を引こうとしたが、腕に伝わる力が思いのほか強く、簡単には振りほどけない。思わず胸の内に、強い憤りがこみ上げた。
(どうしよう、真備殿が)
その時、誰かが脇から素早く駆けつけ、相手の男の腕を安宿媛から引き離した。
その人物を見て、安宿媛は思わず息をのんだ。その相手は、なんと首皇子だった。
(首皇子が、何故ここに?)
場の空気が一変し、周囲の者たちは驚きで一瞬静まり返った。
「皇太子、なぜここに?」
一人の者が思わず口を開いた。驚きと戸惑いで声が少し裏返り、周囲の者たちも皆、一斉に首皇子を見つめた。
首皇子は安宿媛には目を向けず、その場で低く声を発した。
「ここは、今後この国を担っていく者たちが集う場所だ。それなのに、こんな騒ぎを起こす者たちは、その資格がない」
この状況に武智麻呂もさすがに気づいたのか、彼が再びこちらに戻ってくるのが見えた。
安宿媛はその様子を見て、これ以上ここにいるのはまずいかもしれないと考えた。
「真備殿、すみません。ここは一旦離れましょう」
真備も一瞬戸惑ったが、彼女の言うがままに、一度ここを離れることにした。
安宿媛はその場を離れる瞬間に振り返る。首皇子はただ前を見据え、何事もなかったかのように立っていた。
(首皇子、一体どうして)
心の中で首皇子への疑問が浮かぶ一方、安宿媛は早くこの場を離れたくて、真備と共に歩き出した。



