平城京の導き ~古都の物語〜

 元正天皇(げんしょうてんのう)の即位の礼が行われてから、数日の間、人々のあいだには、まだその余韻が残っていた。
 安宿媛(あすかべひめ)は机の前に静かに腰をおろし、親から譲り受けた仏教の経典を、一心に読み耽っていた。
 この時代の仏教は、三論宗(さんろんしゅう)成実宗(じょうじつしゅう)法相宗(ほっそうしゅう)倶舎宗(ぐしゃしゅう)華厳宗(けごんしゅう)、そして―律宗(りっしゅう)という六つの宗派に分かれていた。安宿媛は、特に宗派にこだわることもなく、さまざまな教えの書に目を通し、学んでいた。
 だが、今の彼女の知識では、この書の内容を理解するのは難しく、頁をめくるたびに、小さくため息が出てしまう。
「お父さま達から、私には理解が難しいと言うけれど......それも、少し悔しい。どうにかならないかしら?」
 彼女がそんなことを考えていたとき、ふと部屋の外から声がした。声の様子からして、この家に仕えている女たちの声のようだ。
 庭の外には、ちょうど実りを迎えた橘の木があり、その下で女たちは楽しそうに語り合ってい。その声が、彼女の部屋の中まで、自然と聞こえてくる。
「へえ、そんなに優秀な方なの?」
「ええ。どんな書物でもすぐに覚えてしまって、難しい内容のものでも、あっという間に理解されるそうよ」
(一体、誰の話をしているのかしら?)
 安宿媛は、外の女たちの話がどうにも気になり、手にしていた書物をそっと閉じた。そのまま机の上に置くと、一息ついて腰を上げ立ちあがり、部屋の外へと向かった。
 庭で声を弾ませていた女たちは、安宿媛が突然姿を見せたため、はっとして手で口をつぐんだ。
「これは安宿媛......ど、どうかされましたか?」
「ごめんなさい。いまのお話が聞こえてきてしまって。少し気になったの。その優秀な方って、一体どなたのことかしら?」
「それは、大学寮におられる下道真備(しもつみちまきび)という青年のことです。大学寮の中でもとくに優秀な方らしくて……娘たちのあいだでは、ちょっとした噂になっておりまして」
「......え、下道真備?」
 安宿媛は、その名を聞いた瞬間、思わず息をのんだ。
 ついこの間――即位の礼のあと、平城宮の外れで偶然出会った、あの青年の名だった。
(そうよ、きっとあの方だわ。これは、御仏が私のために出会わせてくださったに違いない)
「ねぇ、その方には、大学寮に行けば会えるのかしら?」
「まぁ、そうなりますね。でも、どうしてその方に安宿媛さまが?」
「ええと、それは……その、それほど優秀な方がいるなんて知らなかったから、ちょっと気になっただけよ」
 安宿媛は少し曖昧な笑みを浮かべながら、そう答えた。
 あの青年のことは、まだ誰にも話していない。それに、さきほどの噂を聞くかぎり、ここで余計なことは言わない方がよさそうだ。
 だが女たちの方は、彼女の言葉の意図がよく分からず、互いに顔を見合わせ、思わず首を傾げた。
(でも、大学寮に行きたいなんて話して、お母さまたちが許してくれるかしら?)
 仏教の経典を読むだけならまだしも、大学寮に行きたいなんて言えば、今度は「役人にでも興味を持ったのか」と言われてしまいかねない。
(本当に、どうしたらいいのかしら)
「はぁ、さようですか。安宿媛は、本当にいろいろなことにご関心がおありなのですね。それでは私たちは、仕事に戻りますので、ここで失礼させていただきます」
 そう言って、女たちは軽く頭を下げると、そそくさとその場を離れていった。
 気がつけば、安宿媛は庭先にひとり、ぽつんとその場に立ち尽くしていた。
(うーん、どうしたものかしら)
 安宿媛は、どうすれば大学寮へ行けるのかと、あれこれ思案を巡らせていた。けれど、いくら考えても妙案は浮かばない。
 やがて彼女はしばらく考え込んだあと、ふと顔を上げて小さくつぶやく。
「そうだわ。少し身分の低い娘の服を、この家の使用人に借りて、大学寮の門の前で待てばいいのよ。もしかしたら、真備殿に偶然会えるかもしれない」
 安宿媛はそう思い立つと、使用人の娘に声をかけ、自分と年の近い者の服を借りることができた。
(よかった。思ったより怪しまれずに済んだみたい)
 さっそくその服に着替えてから、彼女は音を立てぬようにして、そっと部屋を抜け出した。
 昼前の邸宅内は、朝の勤めを終えたあとでひどく慌ただしい。炊屋女は炊殿の片付けに追われ、下仕えの娘たちは、部屋の外を忙しそうに行き来している。
 庭の方では、庭師の男が箒を手に、静かに落ち葉を集めていた。その音が風に混じり、どこか遠くでは鳥の声が響いている。
 そんな様子だったので、家の者は誰ひとりとして、安宿媛が部屋を抜け出したことに気づいていなかった。
(良かった。きっと、今のうちね……)
 彼女は表の門を避け、西の門の方へと回り込む。そして周りに気を配りながら、そっと門を抜けて、大学寮へと向かっていった。