2人が飛鳥寺に戻ってくると、どうやら椋毘登と恵慈(えじ)も出先から戻ってきているようだった。

 厩戸皇子は恵慈の元に会いに行き、椋毘登は稚沙が書物の仕訳をしている部屋にいるとのことだったので、雪丸を皇子に返し、急いで彼の元へとやってきた。

「椋毘登、ごめんね!ちょっと外に出ていたから」

 稚沙が思わず椋毘登本人を見ると、彼は彼女が自分あてに書いた木簡を握っていた。
 そしてどうやら、彼はかなり不機嫌そうな様子をしている。

「く、椋毘登、もしかして怒ってる……」

「当たり前だ!お前は今まで一体何をやっていたんだ!それに何だよこの内容は!!」

 稚沙は慌てて、自身が書いた木簡を手に取ってあらためて読んでみる。

 木簡には「厩戸皇子と外に行ってきます。帰る頃までには戻ってくるね!」みたいな内容が漢字をもちいて書かれていた。

「お前な、書くならもう少し内容のわかることを書いておけよ。
 それと仕事を皇子に手伝わせて、早く終わったから外に出掛けるとか、一体何を考えてるんだ!」

(何よ椋毘登、何もそこまで起こらなくても......)

 こうして稚沙はその後、椋毘登から散々に説教を受けるはめになった。そして飛鳥寺の部屋の中では、今日は椋毘登は声がとてもよく響いていた。

 その後、彼らの様子が気になった厩戸皇子が部屋にやって来る。そして彼の説得により何とか無事にその場を納めることができた。

 だがそれとは別に、稚沙にはもう1つ悲しいことがあった。

 それは厩戸皇子が雪丸を連れて斑鳩に戻る時間になってしまったからだ。

「雪丸~せっかく仲良くなれたのに~!」

「くぅーん!くぅーん!」

 雪丸の方も稚沙とお別れするのが分かっているようで、悲しく声を出して泣いている。

「うーん。今日の雪丸はずっと稚沙の腕の中にいたから、すっかり懐いてしまったようだ」

 この状況には、さすがの厩戸皇子も少しばかり苦笑いをしてしまう。

「稚沙、いい加減あきらめて、厩戸皇子にその犬を渡せよ」

 椋毘登は半分呆れたようにして、彼女にそう催促する。彼も早いところこの場を切り上げたいのだろう。

「何よ、椋毘登!雪丸はこんなに可愛いんだから」

「……いいから渡せ」

 稚沙も先ほどまで椋毘登に散々怒られていたので、今は中々彼に反論がしにくい。

「そ、それは分かってるんだけど、次いつ会えるかも分からないから……」

 稚沙はそういって、尚も雪丸を抱き締める。

 だがしばらくして、稚沙さすがにこれ以上駄々をこねるのは悪いと思い、渋々に厩戸皇子に雪丸を渡した。

 皇子の住む斑鳩では、きっと彼の家族達が、雪丸がやって来るのを今か今かと待っているばすだ。

 一方の雪丸のもジタバタ暴れて、何とか稚沙の方に行きたい素振りを見せてくる。

 そんな雪丸のいたいげな姿を見て、稚沙も胸をジーンとさせた。

(ゆ、雪丸~!)

「雪丸、本当に元気でね。私のこと忘れないで~」

「お前な、何も今生のお別れって訳じゃないんだから」

 そんな稚沙の様子を見た厩戸皇子は、何とも愉快そうにしながら彼女にいった。

「そうだよ、稚沙。また雪丸に会わせてあげるから」

「う、厩戸皇子、それは本当ですか!」

「あぁ、本当よ。だから安心しなさい」

 それを聞いた稚沙はやっと納得することが出来た。もちろんまたすぐに会える訳ではないだろうが、厩戸皇子が会わせてくれるといっている。ならその時を楽しみに待つことにしよう。

(雪丸、しばらくは会えないけど元気でいるのよ)

 それから皇子は雪丸を布に納めると、紐で器用に自身の胸下に巻き付ける。

 そして既に厩から連れ出してきた自身の馬にさっとまたがって乗った。

「じゃあ、私は斑鳩宮に戻るとするよ。稚沙と椋毘登も気をつけて帰るんだよ」

 厩戸皇子は2人にそういうと、壮快に馬を駆け出していった。

 稚沙と椋毘登は、そんな皇子を姿が見えなくなるまでその場から見送っていた。

 そして気が付くと、日が傾き出してきたので、椋毘登もさっさと稚沙を家まで送り届けることにした。

 こうして今日も、慌ただしい日常がやっと終わりを告げることになった。