佐由良はその場に呆然とたたずんでいた。一体自分に何が起きたのかも分からず。

 そうこうしていると、向こうから一人の女が走ってきた。良く見ると同じ采女の加那弥(かなみ)である。

「佐由良、良かったここにいたのね」

「加那弥、ここに来る時1人の男の人を見なかった。凄く身分のありそうな感じの」

「ええ、私もさっきそこでばったり会ったわ。佐由良、あの方が誰なのか知らなかったの」

「ごめんなさい。初めてお会いしたわ」

 それを聞いた加那弥は少しやれやれといった感じだ。

「あの方は瑞歯別皇子(みずはわけのおうじ)去来穂別皇子(いざほわけのおうじ)住吉仲皇子(すみのえのなかつおうじ)の弟に当たる方よ」

「え、あの方が瑞歯別皇子。名前だけは知っていたけど」

(確か住吉仲皇子の次に当たる第3皇子で、とても有能な皇子だって吉備でも噂されていた。歳は確か私の従兄弟の阿止里(あとり)と同じ16歳だったはず……)  

「まぁ、佐由良は大和に来て日が浅いから仕方ないわね。でもまさか瑞歯別皇子まで来ていたなんて、私も本当にびっくりしたわ。瑞歯別皇子が来られると知っていたら、もっと着飾って出迎えしたものを」

 加那弥はひどく悔しそうに言った。

「え、着飾ってって?」

「だって瑞歯別皇子は見ての通り、本当に綺麗な皇子で、次の大王の弟皇子にあたる方よ。どの娘も出きることならおきに召してもらいたいって思うわよ」

 加那弥は当然の事のように答えた。

「確かに綺麗な人だとは思ったけど、そんな理由だけで、誰でもって分けにはいかないんじゃないの」

「佐由良、私達采女はそんな安全な身分ではないのよ。自分達が生き延びる為には、より力のある人に仕え、そしてその人の妃になって子を成す。それが全てなのよ。それならちょっとでも身分のある男を選びたいって思うじゃない」

「それはそうかもしれないけど……」

(でも采女は、仕えてる人に全てを握られている。私達に自由なんてないのに)

 加那弥のような考え方は、佐由良自身には中々出来ないと思った。 今はただただ宮の皇子にお仕えするので精一杯だ。

「でもあの人、私が吉備の海部の生まれと言った瞬間、今後自分の前には余り現れるなとか言っていたわ。それとあの女と同じ族とか。一体どう言う事なのかしら」

 それを聞いた加那弥は酷く驚いた表情をして、少し気まずそうに言った。

「それはきっと吉備の黒日売(くろひめ)様の事だわ」

「え、伯母様が」

「前の大王は黒日売様をとても大事にされていたんだけど、でもそれが瑞歯別皇子達の母にあたる磐之媛(いわのひめ)様をとても悩ませる事になってしまったの。そして磐之媛様は黒日売や他の妃方の事で苦しみながら亡くなってしまったわ」

「え、そんな事が」

「そして、その事が当時まだ幼かった瑞歯別皇子の傷にもなってしまったの。他にも妃は何人もいたけど、大王は黒日売様の為にわざわざ吉備にまで会いにも行かれたから」

 佐由良自身まだ恋をした事が無かったので、磐之媛の苦しみがどれ程のものかは分からなかった。だが人は恋する人や夫を持つとそんなにも苦むものなのだろうか。

 何とも恋とはやかっないなものだと彼女は思った。