夢幻の飛鳥 ~いにしえの記憶~

 稚沙(ちさ)が倉庫に向かって走っていると、彼女の前方から、何やら見覚えのある人物がこちらに向かって歩いてきているのが見えた。

(あれは……蘇我馬子(そがのうまこ)だわ)

 彼女が目にしたのは、豪族蘇我氏の有力者である蘇我馬子だった。そして彼は、今の大和の豪族の中でもっとも力のある人物である。

 そんな彼が突然現れたので、稚沙は思わず走るのを止めて、横にずれて道をあけることにした。

 さらに蘇我馬子の少し後ろをもう一人、一緒について歩いている人物がいることにも、彼女は気が付く。

 稚沙は一体誰だろうと思い、その人物にふと目をやる。

 馬子同様にとても上等そうな袍と袴を着ており、頭には帽子を被っていた。見た目は稚沙よりも少し年上の青年のようで、割と顔立ちも整っている。

(初めて見る男の子だわ……彼も蘇我の人間かしら?)

 稚沙はとりあえず、蘇我馬子とその青年が通り過ぎるまで、待つことにした。

 馬子はそんな彼女に対し、特に声をかける訳でもなく、無言でそのまま彼女の側を横切っていく。

 彼女は続けて馬子の後ろにいる青年に思わず目をやる。

 相手の青年も視線を感じたのか、一瞬稚沙と目があった。だが彼は特に表情を変えることなく、馬子同様に無言で、彼女の横を歩いていった。

(ちょっと感じの悪そうに見えたけど、偶然かしら?)

 稚沙は蘇我馬子とその青年の後ろ姿を、そのまま少しの間眺めていた。

 そして2人の姿が小さくなった頃、彼女も再び目的の場所に向かうことにした。

「では、急いで倉庫に向かわないと。また遅くなって炊屋姫(かしきやひめ)様に迷惑を掛けたくない」


 そして稚沙はやっと炊屋姫の私用の倉庫の元にたどり着いた。

(とにかく早く終わらせて戻らないと……)

 彼女はそれから倉庫の中に急いで入っていく。
 倉庫の中には彼女が持ってきたような木簡もあれば、置物、他国から取り寄せた書物等、様々なものが置かれてある。

 彼女は女官なので、炊屋姫からこの倉庫に入る許可を得ている。でもだからといって、むやみに触らないようにしていた。下手に触って壊しでもしたら大変な事になる。

(相変わらずここには、色んな物があるのよね……)

 稚沙はとりあえず木簡が置かれている場所に行き、手に持っていた木簡を簡単な仕分けだけして、それからその場所に置いていった。

 稚沙は元々和歌を詠むのが好きなため、文字も一通り読める。
 彼女自身、女官としてここに仕えるようになったのだが、文字が読めるのは正直助かっていた。

「さてと、じゃあ戻りますか」

 稚沙は倉庫内の物に、うっかり触ってしまわないよう気をつけながら外に出ていく。
 そしてそれから急いで炊屋姫の元へと向かった。
 稚沙(ちさ)炊屋姫(かしきやひめ)の元に戻って来てみると、彼女は外で誰かと話をしているようだ。そしてその人物は、どうやら稚沙も良く知っている人物のようである。

(あら、もう来られてたんだわ!)

 稚沙は炊屋姫とその人物を見つけるなり、すぐさま2人の元に駆け寄っていく。

 そしてそんな彼女の足音に気が付いたらしく、2人も思わず稚沙に振り返る。

厩戸皇子(うまやどのみこ)、もうお越しになられてたんですね!」

 稚沙はとても嬉しそうにしながら、2人の元へとやってきた。

 彼女が厩戸皇子と呼ぶ人物は、炊屋姫の甥にあたる大和の皇子だ。
 年齢は28歳で、皇子らしくとても質の良い服を来ており、常に凛々しい立ち振舞いをしている。

 彼はとても正義感が強く、能力的にも非常に優れていた。そして大変信仰深く、炊屋姫の亡き父親である波流岐広庭大王(はらきひろにわのおおきみ)の時代に入ってきた仏教に対し、誰よりも熱意を持って広めようとしていた。
※波流岐広庭大王:欽明天皇

 そして炊屋姫と共に今の大和の(まつりごと)に深く関わっている人物でもある。

 また稚沙はそのとても無邪気で素直な性格のためか、厩戸皇子からはわりと気に入られていた。

「やぁ、稚沙。君も相変わらず元気そうだ」

 厩戸皇子はそんな稚沙を見て、少し微笑んで彼女にそう答える。

「本当元気なのは良いのだけれど、もう少し落ち着きがあれば……」

 炊屋姫は少し肩を落として、厩戸皇子にそう呟く。

「叔母上、この元気さが彼女の良い所なのです。私は稚沙のような娘は好きですよ」

 厩戸皇子は少し愉快そうにしながらそう話して、稚沙にちらっと目で合図を送る。

 稚沙は厩戸皇子に見つめられて、思わず頬を赤くした。彼はいつもこんな感じで、稚沙に優しく接してくれる。

 大和の皇子とはいえ、傲慢な部分が一切なく、彼は諸臣(しょしん)達からの信頼も厚い。

(厩戸皇子はこういうことを全く抵抗なくいえる人だわ。だから他の娘達からも好意を持たれやすい……)

「私から見ても稚沙は本当に良い子よ。だからこそ立派な女官になって貰いたいものだわ。
 それに私は彼女の一族に色々と世話にもなってきているから」

 炊屋姫はそんな稚沙を見ながらそう話す。

「確か稚沙は平群(へぐり)額田部(ぬかたべ)筋の娘でしたね。であれば叔母上も気にかけたくなるでしょう」

 厩戸皇子も炊屋姫に同調して答えた。

 稚沙は他の豪族の娘とは少し状況が異なる。炊屋姫の幼少期、稚沙の一族が彼女の養育に携わっていた。
 その縁があった関係で、彼女は炊屋姫の元に女官として仕えることになったのだ。

 ただ彼女の場合、元々炊屋姫に対しとても憧れを抱いていた。そこで小墾田宮(おはりだのみや)への女官としての出仕は本人たっての希望で叶ったものだ。

 だからこそ、彼女は誰よりも熱心に日々の務めに励んでいたのだ。
炊屋姫(かしきやひめ)様にお仕えできて、私も本当に嬉しく思っております。だからこそ、これからも精一杯務めていきたいです!」

 稚沙(ちさ)はとても真剣な表情でそういった。故郷の家族を説得し、やっとの思いで女官としてここ飛鳥の都にきたのだ。そう簡単に引き下がる訳にはいかない。

 炊屋姫と厩戸皇子(うまやどのみこ)は、そんな必死で話す稚沙を目にして、互いに顔を合わせてクスクスと笑った。

 2人とも何だかんだで、稚沙のことは信頼している。きっと彼女なら、いつの日か立派な女官に成長することだろう。

「さて、厩戸も来たことだし。後は馬子(うまこ)だけね。彼はもう宮にきてるのかしら?」

 炊屋姫は、どうやら大臣(おおおみ)である蘇我馬子(そがのうまこ)の到着を待っているようだ。

「馬子様なら、先ほど見かけました。もしかすると(ちょう)に寄られてから、こちらに向かわれるのかもしれません」

 稚沙は先程見かけた蘇我馬子達をふと思い出す。彼らは炊屋姫のいる大殿(おおとの)ではなく、庁に向かって歩いてるように見えた。

「まぁ、馬子ったら。時が押してるから、まずは私の元にきてもらいたかったわ。てっきり小墾田宮(おはりだのみや)にまだ到着してないものと思うじゃないの」

 炊屋姫少しやれやれといった感じだ。

 蘇我馬子の持つ権力はこの時代とても絶大だった。また炊屋姫の母親である堅塩媛(きたしひめ)は馬子の姉にあたる。つまり彼女からすれば馬子は叔父でもあるのだ。

 そんな事を彼女が思っている矢先、何やら誰かの足音が聞こえてくる。

 3人がふとその音のする方に目をやると、何と今話に出てきていた蘇我馬子本人だった。

 彼は炊屋姫達をめがけて、そのまま真っ直ぐやってくる。そして彼の後ろには、先程稚沙が見かけたあの青年も一緒である。

「炊屋姫、遅くなってしまって済まない。少し庁に用があったものでな」

 蘇我馬子は炊屋姫の前に来ると、軽く頭を下げて挨拶をした。後ろの青年も馬子に続けて同じように頭を下げる。

「もう、まだあなたが到着してないのかと思って心配していたのよ」

 炊屋姫は少し嫌みたらしくして答える。いくら彼が叔父にあたるといっても、炊屋姫と馬子の年齢差は7歳程しか離れていない。

「いや、それは本当に申し訳ない。今日は大事な行事の日だ。少し庁によって確認したい事があったのだ」

 そうはいっても、蘇我馬子は余り悪びれた感じがしない。それが彼と炊屋姫達の今の立場を表しているようでもあった。

「ところで馬子殿、今日は身内の方も連れられていたのですね。確かあなたの甥でしたか……」

 厩戸皇子はふと馬子の後ろにいる青年に目を向ける。
 それまで口を閉ざしていた青年は、急に厩戸皇子に話を振られたため、さっと馬子の横に出てきた。

「私の甥にあたる蘇我椋毘登(そがのくらひと)です。今年で16歳になったので、そろそろ政にも関わる機会をと思いましてな。それで本日は同伴させた次第です」

 蘇我馬子はそういって、椋毘登と呼ばれたその青年に挨拶するよう催促する。

 すると彼は手を前で揃えてから、軽くお辞儀をし、そして彼らに話した。

「炊屋姫、厩戸皇子、本日は勝手な訪問になってしまい、申し訳ございません。私は蘇我馬子の甥で椋毘登と申します。おニ人方とは、今後お会いすることも多くなるかと」

 椋毘登がそう挨拶すると、それを聞いていた厩戸皇子は、馬子の甥にあたるその少年を、何やらとても興味深くして見る。

「椋毘登、君のことは昔何度か見た事がある。私の妃の1人である刀白古朗女(とじこのいらつめ)は、確か君とは従姉妹同士のはずだ。それにしても、あんなに小さかった男の子がもうこんなに大きくなっていたとは……」
 厩戸皇子(うまやどのみこ)蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の刀白古朗女(とじこのいらつめ)を妃にしていた。そして蘇我椋毘登(そがのくらひと)の父親である蘇我小祚(そがのおそ)は、馬子の弟にあたる人物だ。

 よって彼の妃と椋毘登は従姉弟同士の関係になる。

 一方稚沙は、自身の女官としての立場を考えて、少し控えて彼らの会話を聞いていた。

(私ここにいて、本当に良いのかしら……)

 厩戸皇子はそんな少し戸惑い気味の稚沙の様子に気が付いたらしく、ふと話を変えた。

「でも椋毘登が16歳なら、こっちの稚沙と歳が近いですね。彼女は平群(へぐり)の額田部筋の生まれで、叔母上の元に今女官として仕えてる娘です」

 蘇我馬子と椋毘登は、それまで全く話に入っていなかった稚沙に急に目を向けた。

「おや、そなたは先程道ですれ違った娘だな。そうか、平群の一族の娘だったか。しかも額田部となると炊屋姫とも縁が深かそうだ」

 蘇我馬子は少し興味深そうに、稚沙をじろじろと見る。
 しかし椋毘登の方は彼女に余り興味がないのか、特に表情は変えていない。

(こうやって興味本位で見られるのは余り良い気分じゃないわね。でも相手はあの蘇我馬子だし、下手なことはできない……)

「稚沙は女官としてこの宮にいるので、椋毘登も良かったら、今後は仲良くしてやってくれないか」

 厩戸皇子は少し嬉しそうにしながら、彼にそう話した。

「厩戸皇子がそうおっしゃるなら、まぁ努力は致しましょう」

 そういって彼は稚沙に向けて軽く笑みを見せる。

 見た目だけでいえば、彼は割と好青年のように思える。だがそんな彼のこの笑顔は恐らく本心ではなく、作り笑いだろう。
 稚沙はそんな椋毘登を見てふとそう思った。


 それから少し立ち話をした後、炊屋姫達は一旦その場を解散する事にした。

「では炊屋姫またのち程。それと私の息子の蝦夷(えみし)とは今日別々に来ることにしている。なので後々合流するつもりです」

「まあ、そうなのね。あなたにしては珍しいこと……」

 炊屋姫は少し意外に思えた。だがもしかすると、今日は甥の椋毘登を付き添わせる為にそうしたのかもしれない。

「まぁ当分は、椋毘登が同伴するやもです。では、失礼する」

 そういって、蘇我馬子と椋毘登はその場を離れていった。


「馬子の働きは確かに助かるけど、やはり警戒は必要だわ。あの人はいざとなれば大王や皇子でさえ、平気で殺せる……」

 炊屋姫は独り言のようにして、静かにそう口にする。

 蘇我馬子は泊瀬部大王(はつせべのおおきみ)の暗殺以前に、彼の兄にあたる穴穂部皇子(あなほべのみこ)や、2人の従兄弟である宅部皇子(やかべのみこ)も殺している。

 穴穂部皇子は、元々蘇我馬子と敵対していた大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)の側に付いていた。そして彼は、自身が大王になることを強く望んでもいた。

 なので蘇我馬子からすると、穴穂部皇子の存在はとても邪魔となってしまったのだ。

 そしてそんな穴穂部皇子と仲が良かったという理由だけで、宅部皇子も続けて殺されている。

 馬子は皇族だけでなく、さらにその後に物部守屋にも戦いをしかけて、その結果物部氏の中心的な勢力を一気に衰退させた。この戦いは後に「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれ、仏教の崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏の対立から起こったものだ。


 しかし厩戸皇子は、そんな彼女の発言に口を挟んだ。

「ただ一概に、私は馬子殿のしてきたことが全て悪かったとは思ってはおりません。特に物部氏との戦い時、私も馬子殿の側につきましたから……」

 厩戸皇子は思った。この時代綺麗ごとだけでは済まされない。それに他の国では、もっと悲惨な戦いが行われている。

「それは私も良く分かっているつもりです……でも厩戸、あなたも彼には十分気をつけることね」


 それから炊屋姫と厩戸皇子は、もう少し今日の行事のことでやり取りをするとのこと。
 そして稚沙は、炊屋姫よりそのまま仕事に戻るよう命じられる。

(蘇我氏はやはり炊屋姫様達からしても、少し恐ろしい存在なのね……)


 こうして、稚沙は炊屋姫の指示に従い、自身の仕事へと戻ることにした。
 この日、炊屋姫(かしきやひめ)は諸した者達の前に現れ、誓願(せいがん)を発する。そして皆で改めて心を一つにし、この国の繁栄を祈っていくのだ。

 そのために、ここ小墾田宮(おはりだのみや)には炊屋姫の命により沢山の人達が集まり始めていた。

 宮の使用人達は、集まった人達をすぐさま朝庭(ちょうてい)へと移動させていく。

 女官の稚沙(ちさ)も、その手伝いで今日は忙しく働いていた。たがこれほど多くの人を迎え入れるのは彼女自身も初めての経験である。

「稚沙、早くこれを運んでちょうだい!それから白銅鏡(まそかがみ)の台の周りを綺麗に拭いておくのよ」

「ちょっと、稚沙!これ頼んでいた物と違うじゃない。急いで倉庫から取ってきなさいよ!!」

 彼女はここの宮では最年少であり、一番経験の浅い女官である。そのために他の女官達は皆、彼女に容赦無しに指示を出していった。

(まさか、こんなに忙しいなんて)

 今日は大王の炊屋姫が詔して、大和とその周辺から沢山の人々がやってきていた。そのせいだろうか、日頃の務め以上に宮仕えの者達の目が、皆とても厳しくなっている。そんな中で、もし何か粗相でもあればただでは済まされない。

(とにかく、ここさえ乗り切れば……その後は炊屋姫様がお出になられる)


 そして稚沙が忙しくしていると「おぉ、稚沙じゃないか!」と誰かが急に声をかけてきた。

 彼女が思わず振り向くと、そこには一人の中年の男性が立っていた。

「あ、比羅夫(ひらぶ)の叔父さま!」

 彼女がそう呼んだ人物は、額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)と呼ばれる人物で、稚沙のいる額田部(ぬかたべ)の者だ。(かばね)(むらじ)で、厩戸皇子(うまやどのみこ)が発令した冠位十二階のうち、彼は大礼を授かっている。

 そして彼は稚沙の父親の従兄弟という間柄で、彼女を小墾田宮の女官に推薦した人物でもある。

 額田部比羅夫は稚沙を確認すると、直ぐさま彼女の元にやってきた。

「どうだ、稚沙。宮での仕事にはだいぶ慣れたか?」

 彼は割りと気さくな性格で、皇族や他の豪族の人達からも、とても慕われていた。
 そして稚沙自身も、そんな比羅夫のことが大好きである。

「はい、お陰さまで。ただ今日は本当に忙しくて、私は怒られてばかりで……」

 彼女はそういうと、少しシュンとする。
 彼は自身を宮の女官に推薦してくれた人物だ。にも関わらず、今日は中々良い所が見せられそうもない。

 それを聞いた額田部比羅夫は、その場で思わず笑いだした。

「稚沙、お前はまだ女官になって1年と半年ぐらいだろ?それなのにこんな晴れ舞台で働いているんだ。そのことにもっと誇りを持ったら良い」

 額田部比羅夫は稚沙にそういうと、彼女の頭を軽くぽんぽんと撫でてくれた。

(お、叔父様……)

 それを聞いた稚沙は、思わず涙腺が少し緩んでくる。今日はずっと気を張っていたので、彼の言葉が今はとても身に染みる思いだ。

「叔父様、私はまだまだ半人前だけど、頑張っていつか立派な女官になりたいです!」

 彼女は少し泣きそうになりながらも、何とか笑ってそう答えた。

 そんな稚沙を見た比羅夫は「そうだ、そうだ、まだまだこれからじゃないか。お前ならきっと大丈夫だ!」といって彼女を励ましてくれた。

(比羅夫の叔父様、私頑張ります!)


 その後しばらくして彼は稚沙にいった。

「じゃ私は行くよ。向こうに宇志(うし)殿がいるようなので、挨拶をしておかないとな」

 彼のいう宇志とは、平群宇志(へぐりのうし)と呼ばれる人物だ。彼は額田部の同族で、平群氏一の実力者であった。そして大礼の位にいる額田部比羅夫よりもさらに高い、小徳(しょうとく)の位を彼は授かっている。

「はい、分かりました。では宇志様にも宜しくお伝え下さい!」

 稚沙はそういってから、手を大きくふって額田部比羅夫を見送った。

(今日は比羅夫の叔父さまに会えて、本当に良かった)

 額田部比羅夫の姿を見送った彼女は、その後は自身の持ち場へと戻っていった。
 こうして、いよいよ今日の準備が整えられていった。

 ここに集った諸王(しょおう)や他の諸臣(しょしん)の者達は、炊屋姫(かしきやひめ)の登場を今か今かと心を静かにして待っていた。

 そしてついに、炊屋姫が皆の前に現れる。


「皆、今日はこの誓願(せいがん)の為に、はるばる集まってもらい、本当に感謝しています。

 私の父である波流岐広庭大王(おしはるきひろにわのおおきみ)の時代に我が国に仏教が伝わり、この国も大きく変わり始めました……

 そしてその仏教をめぐっては、悲しい争いも経験することになりました。

 ですがこれは、神仏の思し召しの他ならないのです」


 炊屋姫は一言一言、ゆっくりと言葉を選んで語っていく。

 今この国は、仏教という新しい教えが必要なのだと。

 そして仏の教えを通して、この国とそこに住む人々の幸せを願って彼女は自身の想いを皆に語っていった。

「そこで、皆にお願いしたいことがあります。

 この神仏の教えを広めるため、各自が銅および縫の丈六の仏像を、一躯ずつ造ることを誓おうではないか。

 これが私達の神仏への誓いの証として……」


 それを聞いていた者達も、炊屋姫の言葉にとても感銘を受ける。

 これからこの国は大王を中心とし、神仏を敬う国作りを目指す事になるのだろう。


 そして炊屋姫はさらに続けて、皆にいった。

「また仏像を作る工として、鞍作止利(くらつくりのとり)に命じることにしました。今後は彼を中心に、しっかりと取り組むように……鞍作止利も良いですね」

「はい、炊屋姫。仰せのままにいたします」

 その言葉を聞いた鞍作止利も、彼女に深々と頭を下げてそう答える。



 こうしてここに集った者達は、皆それぞれが仏像の制作に取りかかることを、心に誓ったのだった。
 その後、炊屋姫(かしきやひめ)の誓願も無事に終わり、人々は各自解散となった。

 稚沙もその場に集った人々の帰りを見届けると、その後の片付けに取りかかる。だが始まる前の準備に比べれば、そこまで労力のかかるものでもない。

 そして片付けが落ちついてくると、目上の女官から少し休憩を貰えることになった。

(炊屋姫の誓願は本当に素晴らしいものだった。これからは大王を中心とした世の中になるのかしら?)

 稚沙はそんなことを考えながら、宮内を歩いていた。彼女は先程の炊屋姫の凛々しい姿に、酷く感銘を受けていた。女性といえども相手は大和の大王である。
 彼女のその品性には目を見張る物があった。

(でも、やはり蘇我(そが)が心配ね。炊屋姫様も、厩戸皇子(うまやどのみこ)には十分気を付けるようにと話していたから)

 確かに蘇我馬子は何人もの大王や皇子を暗殺している。であれば厩戸皇子が狙われる可能性だって、全く無い訳ではない。

(厩戸皇子にもしものことがあったら……ううん、そんなことは絶対にさせない。あの方は今の大和になくてはならない人なのだから!)

 稚沙がそう心の中で思っていた矢先である。彼女のいる所から少し離れていて、どちらかというと余り人気のなそうな場所に、何やら人影が見えた。

(今日ここに来られた人?でも大半の人達はもう帰られたはずなのに)

 稚沙はその人影が少し気になり、近づいてみることにする。

 そしてその人影は、何と今日彼女が見かけた蘇我馬子(そがのうまこ)とその甥の椋毘登(くらひと)だった。

(どうしてあの2人がまだ小墾田宮(おはりだのみや)にいるの?しかもあんな人目から隠れるような所でこそこそと……)

 2人は何やら真剣そうな感じで話をしている。だがどんな話をしているのかは、稚沙が今いるこの場所からは分からない。

(これは怪しいわ。ちょっと隠れて話を聞いてみよう。それにもしかすると厩戸皇子達のお役に立てれるかもしれないし)

 稚沙の脳裏にふと厩戸皇子の顔が浮かんだ。いつも優しい皇子の助けになるなら、多少の危険はいとまない。彼女はそのように思った。

 それから稚沙は2人に気付かれないように、出来るだけ音を立てずにそっと近づいていく。


 そしてやっとのことで、2人の声がぎりぎり聞こえる所まで近づくことができた。

(よし、あの柱の後ろに隠れれば大丈夫でしょう)

 そして彼女はさらに息を潜めて、何とかその柱の後ろに回ることに成功する。


 すると彼女の元に、やっと2人の会話が聞こえてき出した。
「良いか椋毘登(くらひと)、ここからが肝心だ。今後お前には度々私と一緒に行動してもらう。その為に小祚(おそ)に頼んで、お前をここまで連れてきたのだから」

 それを聞いた椋毘登は、彼の意図していることを理解しているようで「はい」と小さくいって答えた。

(蘇我馬子(そがのうまこ)は何か理由があって、あの椋毘登とかいう男の子を、ここに連れて来てたの?)

 稚沙はさらに耳を澄まして聞くようにした。 もしかすると、これから凄い話を聞けるかもしれないという期待を込めて。

「叔父上、我が蘇我一族の繁栄のためにも、あなたが築き上げてきたこの権力を絶対に失う訳にはいかない……その為なら、俺は何だってするつもりです」

 蘇我椋毘登は、とても真剣な目で叔父の馬子にそう話す。きっと彼は、自身の一族に対しての思いが相当強いのだろう。

「なのでその為にも……うん?」

 椋毘登は何故か急に話すのをやめた。そして何やら彼の様子が少しおかしい。

「椋毘登、どうかしたのか」

 馬子は急に椋毘登が話をするのをやめたので、少し不思議そうにして彼を見る。

 椋毘登は馬子に見らている中、人の気配でも伺うようにして、別の所に意識を向けている。

 そして次の瞬間である。彼は自身の刀を握り、勢いよく(さや)から抜いた。
 その後彼らの後ろにある柱まで向かうと、その刀を柱の横に突きつけた。

 その柱とは先程から稚沙が隠れている所だ。


「きさま、いったい何者だー!!」

 椋毘登はいきなり、柱の後ろにいる稚沙に向かって怒鳴り声を上げた。

 稚沙は余りに突然のことで、思わず体が固まって動けなくなってしまう。

 そして彼の刀は彼女の首近くにあり、彼がちょっと刀をずらせば、確実に首が切れてしまう状況だ。

(う、うそでしょう……)

 稚沙は余りのことにぶるぶると震え出した。

 それから椋毘登は刀の位置はそのままで、彼女の目の前に回ってきた。そして彼女の顔を見て思わずハッとする。

「お前は今日見かけた」

 その様子に馬子も慌ててやってきて、同じく稚沙を見て酷く驚いた表情をする。

「お前、俺達の話を盗み聞きなどして、一体どういうつもりだ!」

 椋毘登は尚も続けて稚沙に問いただす。

「わ、私はお二人が何やら深刻な話をしているように見えたので、ちょっと気になって……でも別に何か企んでいた訳じゃないです」

 稚沙はぶるぶると震える体を必死で堪えながら、そう彼に話した。

 この蘇我椋毘登という青年は、蘇我馬子の親族である。馬子同様にいざとなれば、自分など簡単に殺せるのかもしれない。

 そう思うと、彼女はもう恐怖でしかなかった。


「ふん、女だからといって容赦はしない。命が惜しければ白状するんだな。一体誰の差し金だ!」

 彼は一向に気を緩めるつもりはないらしく、さらに刀を彼女の首元に近付けてくる。
 だがその時である。また別の人の声が聞こえてきた。

「お前達、ここで一体何をやっている!!」

 椋毘登(くらひと)達はふとその声の主に目を向ける。そこに現れたのは、なんとあの厩戸皇子(うまやどのみこ)だった。

(う、厩戸皇子……)

 稚沙は助けを求めて皇子に目で訴えた。

 厩戸皇子はこの状況を目の当たりにして、直ぐさま彼らの元に駆け寄ってきた。

「この娘が私と叔父の会話を隠れて聞いていたので、誰かの差し金かと思いましてね。でもあなたが直ぐさま来られるとは、もしや厩戸皇子、彼女はあなたの差し金ですか!」

 厩戸皇子も椋毘登にそういわれて、まさか自分が疑われるとは夢にも思わなかったといった表情を見せる。

「椋毘登、それは誤解だ。私は差し金などしむけてはいない。仮にもしそうだったとしても、何故彼女にそのような危険をさせる必要がある。とりあえず今は、その刀をしまわないか!」

 厩戸皇子はとても怒った口調で、彼にそういい放った。

 椋毘登も彼にそこまでいわれると、流石に逆らえないと思い、しぶしぶ刀をしまった。

「だが、皇子。彼女が私達の話を隠れて聞いていたのは事実です。怪しむのは当然でしょう」

 どうやら椋毘登はまだ全然納得がいっていないようだ。

 だが厩戸皇子はそんな彼の言葉を無視して、直ぐさま稚沙の元に駆け寄った。

 彼女は皇子が目の前にやってきたのを確認すると、安心したのか思わず声を上げて叫んだ。

「う、厩戸皇子、ごめんなさいー!!私が軽はずみな行動をしたばかりに……ほ、本当に、本当に怖かったですー!!」

 それから彼女は皇子の胸に持たれて、大声でわんわんと泣き出してしまった。

 その光景に、さすがの椋毘登も思わず唖然とする。

「な、何なんだ。こいつは……」

 その状況を見ていた蘇我馬子(そがのうまこ)は、椋毘登の横にやってきていった。

「椋毘登、どうやらお前の思い違いのようだ。まぁ、我々も隠れるような所で話をしていたのも良くなかった」

 とりあえずその後、彼らは稚沙が泣き止むのを待ってから、話をすることにした。



「つまり、この娘がいうに。我々が何の話をしているのかが気になって、それで隠れて聞こうとしただけだと……」

 椋毘登は、余りのことに愕然とした。まさか宮の女官がそのようなことをするとは夢にも思わなかった。

「はい、本当に済みませんでした。私が軽はずみなことをしてしまったがばかりに」

 稚沙は素直に椋毘登達に謝ることにした。あわよくば、厩戸皇子に喜んで貰えるのではと思ったことは伏せたままにして。

「馬子殿、椋毘登、私がいうのも変ですが、本当に申し訳ない。彼女も反省しているようですし、今回は見逃してもらえないでしょうか」

「まぁ、今回は我々にも全く落ち度がなかった訳でもないので、大目に見ることにしましょう。なぁ椋毘登。それで良いな」

 彼も叔父の馬子にそういわれてしまうと、さすがにいい返すことが出来ない。

「分かりました。では今回は大目に見ることにします。ですが、また同じようなことがあれば、その時は俺も容赦はしません」