厩戸皇子(うまやどのみこ)蘇我馬子(そがのうまこ)の娘の刀白古朗女(とじこのいらつめ)を妃にしていた。そして蘇我椋毘登(そがのくらひと)の父親である蘇我小祚(そがのおそ)は、馬子の弟にあたる人物だ。

 よって彼の妃と椋毘登は従姉弟同士の関係になる。

 一方稚沙は、自身の女官としての立場を考えて、少し控えて彼らの会話を聞いていた。

(私ここにいて、本当に良いのかしら……)

 厩戸皇子はそんな少し戸惑い気味の稚沙の様子に気が付いたらしく、ふと話を変えた。

「でも椋毘登が16歳なら、こっちの稚沙と歳が近いですね。彼女は平群(へぐり)の額田部筋の生まれで、叔母上の元に今女官として仕えてる娘です」

 蘇我馬子と椋毘登は、それまで全く話に入っていなかった稚沙に急に目を向けた。

「おや、そなたは先程道ですれ違った娘だな。そうか、平群の一族の娘だったか。しかも額田部となると炊屋姫とも縁が深かそうだ」

 蘇我馬子は少し興味深そうに、稚沙をじろじろと見る。
 しかし椋毘登の方は彼女に余り興味がないのか、特に表情は変えていない。

(こうやって興味本位で見られるのは余り良い気分じゃないわね。でも相手はあの蘇我馬子だし、下手なことはできない……)

「稚沙は女官としてこの宮にいるので、椋毘登も良かったら、今後は仲良くしてやってくれないか」

 厩戸皇子は少し嬉しそうにしながら、彼にそう話した。

「厩戸皇子がそうおっしゃるなら、まぁ努力は致しましょう」

 そういって彼は稚沙に向けて軽く笑みを見せる。

 見た目だけでいえば、彼は割と好青年のように思える。だがそんな彼のこの笑顔は恐らく本心ではなく、作り笑いだろう。
 稚沙はそんな椋毘登を見てふとそう思った。


 それから少し立ち話をした後、炊屋姫達は一旦その場を解散する事にした。

「では炊屋姫またのち程。それと私の息子の蝦夷(えみし)とは今日別々に来ることにしている。なので後々合流するつもりです」

「まあ、そうなのね。あなたにしては珍しいこと……」

 炊屋姫は少し意外に思えた。だがもしかすると、今日は甥の椋毘登を付き添わせる為にそうしたのかもしれない。

「まぁ当分は、椋毘登が同伴するやもです。では、失礼する」

 そういって、蘇我馬子と椋毘登はその場を離れていった。


「馬子の働きは確かに助かるけど、やはり警戒は必要だわ。あの人はいざとなれば大王や皇子でさえ、平気で殺せる……」

 炊屋姫は独り言のようにして、静かにそう口にする。

 蘇我馬子は泊瀬部大王(はつせべのおおきみ)の暗殺以前に、彼の兄にあたる穴穂部皇子(あなほべのみこ)や、2人の従兄弟である宅部皇子(やかべのみこ)も殺している。

 穴穂部皇子は、元々蘇我馬子と敵対していた大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)の側に付いていた。そして彼は、自身が大王になることを強く望んでもいた。

 なので蘇我馬子からすると、穴穂部皇子の存在はとても邪魔となってしまったのだ。

 そしてそんな穴穂部皇子と仲が良かったという理由だけで、宅部皇子も続けて殺されている。

 馬子は皇族だけでなく、さらにその後に物部守屋にも戦いをしかけて、その結果物部氏の中心的な勢力を一気に衰退させた。この戦いは後に「丁未の乱(ていびのらん)」と呼ばれ、仏教の崇仏派の蘇我氏と、廃仏派の物部氏の対立から起こったものだ。


 しかし厩戸皇子は、そんな彼女の発言に口を挟んだ。

「ただ一概に、私は馬子殿のしてきたことが全て悪かったとは思ってはおりません。特に物部氏との戦い時、私も馬子殿の側につきましたから……」

 厩戸皇子は思った。この時代綺麗ごとだけでは済まされない。それに他の国では、もっと悲惨な戦いが行われている。

「それは私も良く分かっているつもりです……でも厩戸、あなたも彼には十分気をつけることね」


 それから炊屋姫と厩戸皇子は、もう少し今日の行事のことでやり取りをするとのこと。
 そして稚沙は、炊屋姫よりそのまま仕事に戻るよう命じられる。

(蘇我氏はやはり炊屋姫様達からしても、少し恐ろしい存在なのね……)


 こうして、稚沙は炊屋姫の指示に従い、自身の仕事へと戻ることにした。