月明かりの夜、入れ替わりを必要とする人の前に……美しい女神のような死神は現れる。長い髪の女神が不思議な光を纏い現れた。

「人生を入れ替わってみませんか? 他人の人生と交換可能ですよ」
 長髪のきれいな髪をなびかせた若い女が、甘い声で甘い誘惑を投げかけてきた。目の前に美しい女性が月明かりに照らされて映し出された。その姿は幻想的でこの世のものとは思えなかった。いつからこの人はいたのだろう? いつのまにか目の前に現れた不思議な存在である美女に謎を抱きながらも、俺はその美しさに目を奪われた。文学センスがあるほうでもないのだが、「闇夜に咲く一輪の美しい花」という表現がふさわしいようにも思えた。

「他人の人生って? 今の姿で入れ替わることができるのか?」
「いいえ、中身だけが入れ替わります。見た目はお互い別な姿になってしまいます」

 人生の荒波に揉まれた俺はとっても疲れていた。過労と心労で死んでしまうかもしれない、それくらい心身ともに疲れて、足元がおぼつかない状態だった。俺は不器用で仕事をテキパキこなせない人材だ。だから、会社では浮いた存在だ。仕方がない、仕事ができないのだから。残業しても終わらない仕事が山積みだった。もっと要領がよかったら、もっと愛想がよかったら、もっと仕事ができたら人生は変わっていただろう。もっと頭が良ければ、今の仕事よりも楽な仕事で高給取りになれたかもしれない。もっと……という壮大なく果てしない野望が、俺の欲望を掻き立てるが、夢ばかりみていても何かが起こるわけでもない。簡単に人生も能力も変わらないのだ。

 コミュニケーションが不得手な俺は、世渡り下手なのだと思う。冷ややかな上司や同僚の視線や人間関係にも疲れていた。気の利いた話の出来ない俺は、仕事にも人間関係にも人生にも疲労していた。栄養ドリンクのような一時しのぎでは解決する疲れではなかった。

 俺の家は幼少のころから貧乏だ。ろくでもない父親は離婚後行方知れずで母親しかいない片親家庭だ。しかも、その母親も病気で寝込んでいる。精神的にも肉体的にも母親は病におかされている。母親はいつも俺に八つ当たりをしてきて、正直同居や介護は大変だったが、病気で金もない母親を置いて消えることもできなかった。ひとつまみのささやかな同情と育ててもらった感謝が人として俺の良心を保っていた。俺はそこまで冷酷な人間ではない。だから、騙されやすいし利用されやすい。そして、割と責任感もある。俺は母親のためにも生活のために金を稼がなければいけない。その一心で俺は仕事をしていた。

 もしも、たくさんのお金があったら……大金持ちだったら俺の人生は変わっていたはずだ。ありえない「もしも」を思いながら俺は夜道を歩いていたのだが、ありえない詐欺のような提案をされた。

「人生を交換できるのですか?」
 半信半疑な俺の質問に、美人ですらっとした身長の女神が真面目な顔をして答える。基本人を疑わない俺の欠点でもあるが利点でもあるのかもしれない。

「私は死神です。実は、新たな死神ビジネスをはじめました。働き方改革の一環です。他人の芝生は青いといいますが、他人と中身だけ入れ替わってみませんか?」
「お金はかかるのでしょうか?」
 おそるおそる、ぼったくられる可能性も考えて、念のために聞いておいた。

「依頼主は全財産をあなたにあげるそうです。あなたの見た目は依頼主になるわけですから、土地財産全部相続権はあなたのものになります」
「依頼主?」
「入れ替わりを希望しているお客様がお金を払っています。あとは、マッチングに成功すれば入れ替わり完了です」
「入れ替わったらずっとそのままですか?」
「はい、ずっとそのままです」
「今、入れ替わりを希望しているお客様が1名います」
「どういった方ですか?」
「大企業の資産家の御曹司であなたと同じ23歳です。刺激のない生活に飽きてしまい、入れ替わりを希望しています」
 
 御曹司だと? もしも……と夢を見ていた大金持ちになれるということではないか。夢だとしても、夢くらい見てみたい。俺は人間の欲望丸出しで提案をのんでみたくなった。嘘だとしても一晩だけの夢だとしても、今の生活水準以上の生活をしてみたかった。どうせ明日会社に行っても、冷ややかな同僚や上司の視線にさらされ、仕事をできない自分を丸出しにするだけだ。社会の底辺にいる自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

「でも、俺はしがないサラリーマンだ。貧乏で母親も病気なのに、俺なんかでいいのですか?」
「はい。普通の生活をしてみたいそうです」

 普通の生活? 俺の生活は普通なのだろうか? つまらない仕事に追われているが、失敗ばかりだし、怒られてばかりいる。プライベートの楽しさも友達も恋人もいない無趣味な男だが、本当にこんな人生を送りたい人がいるのだろうか? 転職も考えてはいるが、今以上に給料は低く労働条件が悪くなることは目に見えていた。今以上にいい生活なんて、普通に生活していたら絶対に手に入らないであろう。ならば、転職ならぬ転人生をしてみたい。一発逆転というやつだ。

「じゃあ、俺は金持ちの生活が満喫できるのですか? お金には困らないだけの財産がある人になれるのですか?」
「お金には困りませんよ。大金持ちになるのですから。依頼主は刺激を求めています。逆境から這い上がりたいそうです」

 とんでもなくサディスティックな人間がいたものだ。好き好んで逆境を這い上がりたいとは。俺とは正反対だな。楽な生活がただで手に入るなんてうれしいことがあったものだ。その大企業は俺もよく知っている名前の大きな有名企業だ。資産家というのは本当なのだろう。「棚からぼたもち」とはこのことだろうか?

「もしかして家族がとんでもない親だとか、仕事が大変だとか、そういった事情があるのでしょうか?」
「いいえ、とても優しい両親で、仕事はほとんど何もしていません。名前だけでお金が入るそうです。親の会社なので社員も文句ひとつ言わないということです」
「それならば、是非、お願いします。もうこんな生活は嫌なのです」

「では、依頼主にあなたとの入れ替わりを伝えます。ここに、仕事先や住所と名前や家族構成、伝えたいことを書いてください」
「では、今晩0時に入れ替わります。心の準備をしてお待ちください。寝ている間に入れ替わります。目が覚めたらあなたは別人です」
「お願いします」
 俺はそのまま帰宅していつもどおり眠ることにした。母親との別れも辛くもなく、会っておきたい友達も一人もいない俺には、別れを惜しむ必要すらなかった。
 
 次に目をあけたときに本当に別人になっているのだろうか? 半信半疑のままで眠ることにした。先程の話が嘘ならば嘘でいい。明日、また同じつまらない毎日が待っているだけなのだから。

 目が覚めると、そこは知らない場所だった。そこに広がる景色は、俺がよく知っている古い借家の一室ではなかった。俺の住んでいた家は物であふれ、片付いていないのだが、ここはきれいに掃除をされた大きな豪邸の一室で、高級なインテリアが置いてあった。枕元に依頼主からの伝言がパソコン打ちされたものが置いてあった、ここでの生活や家族のこと、やるべきことなどがわかりやすく書いてあった。

 依頼主は、日本人ならば誰もが知っている大企業の息子だ。鏡で自分の姿を確認してみた。俺は以前よりも端正な女性うけしそうな顔立ちで、スリムな長身に変わっており、本当に入れ替わった事実に驚きを隠せなかった。金、女、仕事に不自由のない生活が待っている。そう思うと天にも舞い上がる気持ちだった。俺は選ばれた人間だとおごり高ぶっていたように思う。

 人生そんなに甘くはないということをすっかり忘れている自分がいた。御曹司は両親とも仲が良く、親の会社の役員として仕事をしているので、顎で使われることもなく、快適な毎日を過ごしていた。でも、なぜそんな生活を手放してまで俺と入れ替わったのだろうか? 疑問は深まるばかりだった。依頼主は全く生活に困ることもなく、友達も多く、悩みがあるようには思えなかった。メモにも悩みなどは一切書かれていなかった。

 死神の新しいビジネスという言葉もどこか引っかかっていた。あのときは、毎日の生活が嫌で藁にもすがる思いだったけれど、落ち着いて考えてみるとおかしな話だ。実際ビジネスとして死神に利益はあるのだろうか? 依頼主と死神の接点も疑問だった。美しい花には毒があるというが、実際死神というからには、美しい女性だが、毒は持っているような気がする。俺は騙されているのだろうか? 平和な毎日が過ぎていくたびに疑心暗鬼になっていった。幸せであることに疑念しかなくなっていったのだ。

 毎日、ここでの別人での生活は穏やかで静かな時間が流れていた。おいしい料理をシェフが毎日作ってくれる。お金に困ることもなく、好きなものを買うことができる。既にほとんどのものが買い揃えられていて、娯楽は充分だった。広い家でのんびり暮らす。家政婦は掃除をしてくれるし、俺が何かしなければいけないということは何もなかった。友人や女友達もたくさんいる。

 しかし、俺は友達との接し方もわからなかったし、名誉やお金目当ての人もいるような気がして、いまいち心を開くことはできなかった。一日の大半を自分の部屋で過ごすようになっていた。やはり、ぼろがでることが怖かったのだ。今までの記憶は俺にはないわけで、その人が積み上げてきた想い出とか関係を他人が知ることはできない。中身が別人なのだから仕方がないことだ。

 そして、生活や趣味嗜好も変化していることを悟られないように隠れるように生活をしていた。幸せなはずなのに、本物の自分を隠すという生活は想像以上にきついものだった。親はそういった子供の変化に敏感だろうし、身内にもなるべく接することなく、ひきこもった生活になっていた。

 それが、幸せなのかどうかはわからないが、誰かに怒鳴られたり八つ当たりをされることのない生活は以前よりは、ましという程度だった。こんなにものに不自由することもないのに、以前より、ましというのはいささか不思議なことだったが、やはり、自分を偽るということはとてつもなく大きな負担があった。誰も入れ替わったなんて思うはずもないけれど、ばれないように、息をひそめて生活をしていた。

 ――ある日、俺は衝撃の事実を知ることになる。