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新菜は初めて袖を通す天雨家の斎服に身を包み、天雨家の神域とされる山の中腹までの道のりを歩いていた。途中、田畑の際を抜けようとして、村人の声が聞こえてきた。
「政府が進めてくれた灌漑水路のおかげで、作物の育ちが安定したなあ。常に豊富な水量で田が潤うのは、梅雨の鬱陶しさに悩まされなくて済むし、過ごしやすいうえに収穫量も安定していいことずくめだぞ」
「本当だなあ。堰堤を作って用水路を張り巡らせてくれたおかげで水に困ることがねえ。これで鉄砲水や嵐が無けりゃ、もっと良いのになあ」
「そうだそうだ。空も手加減してくれりゃいいのになあ、まったく」
「ははは」
のどかな田畑が広がる一帯には作物の緑が濃く、村人たちが言っている通り作物の育ちは順調なんだろうと思う。しかし。
(天への畏怖がなくなっているような気がするわ……。こんなことだから、天雨神さまはお力を貸して下さらないのね……)
天雨家に生まれたというわずかばかりの自負と、それが見向きもされていない現実の二つを背負って、新菜は村々を抜け、神域のある山へとひた登る。
禁足域に通じるということで手入れされていない山中で道らしい道もなく、やがてけもの道を辿って歩いてきて開けた視界には、その深淵を覗き見ることの出来なさそうな深い蒼の湖が佇んでいる。滔々と清らかな水を湛えるその湖はその水を細い川に繋げており、その川は山を下って街の方角へ流れているようだった。湖の際に、古ぼけた祠があるのを見つけた。おそらく禁足域ギリギリにまで住居域を広げていた旧い時代の天雨家に連なる人々が、この神秘的な湖を祀るために作ったものなのだろう。苔むしていても作りは立派だった。
(こんな山奥に、人が暮らしていたのね……。水路や街が整備されて、水源から移ったのかしら……)
今や家屋の片鱗も見えないその湖の周辺を見渡して、そう思う。だとしたら、この祠の主はさぞかし寂しいことだろう。新菜はその祠の前に坐すと、膝の前に手を付き、こうべを垂れた。
「お寂しい神さま。いっときお慰め申し上げます」
新菜は顔を上げ、ゆるりと立ち上がるとその場で腕を開いた。
ひふみ
よいむなや
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ
そをたはくめか
うおえ
にさりへて
のます
あせゑほれけ
ゆっくりと詠唱し、舞うと、幾分祠に光が戻ったようにも見える。これが新菜の、この世でたった一つ成しえた仕事だった。そして神域の方角を見ると、手を合わせて神さまに祈った。
「天雨神さま。どうかわたくしたちの願いをお聞き届けくださいませ。地に雨を。恵みの雨を、くださいませ」
そう唱じて草履を揃えると、新菜は湖の縁に立った。覗き込むとどこまでも美しい蒼の中に、黒髪長い巫女服姿の新菜の姿が映る。この蒼に溶けて行けるのなら本望だと、死を前にして怖気づく己の心を叱咤しながら、新菜は目をぎゅっと瞑って岸の縁をトンと跳んだ。
新菜の体はそのまま湖深くに沈んだ。