「あの、申し訳ありません。私、分からなくて……」

日々繰り返し苦痛と憎しみを向けられることで、何かを感じるということに疎くなっていた。

そう説明すると、神さまは慈悲の眼差しを向けてくれた。大きくて暖かい手が新菜の頭を撫でる。

「そうか……。よく今まで耐え忍んだな。しかしもう大丈夫だ。私の所へ来れば、君は豊かな人間になる。神である私が保証する。兎に角、私には自分の為に記憶を失った君を助ける義務があるし、そう遠からぬ未来に、君は必ず心美しい私の花嫁になってくれている筈だ。だからどうだろう、その身を投げて命を賭す覚悟があったのなら、その覚悟の分、これから私と共に暮らしてはくれないだろうか」

共に、暮らす……、とは……。

「そうだな、まずは宮に行こうか。私は湖(ここ)でも構わないが、君が濡れて風邪を引くといけない。乗りなさい。宮まで飛ぼう」

天雨神はそう言って銀色の龍に変化(へんげ)した。龍の姿でも天雨神は新菜にやさしく、新菜を背に載せて美しい鬣(たてがみ)に掴まらせた。

「掴んでも痛くないからな。きちんと掴みなさい」

そう言って新菜が鬣を掴んだのを確認すると、湖のある山腹の森から一直線に真上に上り、そして新菜が半日かけて上った山を見下ろした。

天雨神はぐんぐんと風を切って空を走り、あっという間に天帝のおわす宮廷の真上に到着した。

「人が宮奥(みやおく)に入るのは初めてではないが、水宮(すいぐう)に招いたのは初めてだな」

この国では天神の住まう天上界を宮奥と表現する。元は舞宮より奥の方、つまり人間が立ち入れない所のことを、そう言っていた。

天雨神は新菜にそう言うと、変化を解きながら新菜を抱え、宮廷の真上にある雲の上にそびえる大きな建物をゆび指した。中央に六角形の屋根の建物と、周りにある五角形の屋根の建物が五つ配されており、その五角形の屋根のうちの一つにひらりと舞い降りる。

建物を囲っていた雲がすうと晴れると、そこには重厚な作りの玄関がそびえ立っており、その板木の重さだけで雲が割けてしまうのではないかと思わせるほどの大きさだった。その扉が、天雨神が触れることなくギイと開く。すると中から飛び出してきたのは、年のころは六~七歳だろうか、茶色い髪の毛がおかっぱ頭の目がくりくりとした背丈が低めな童だった。

「おかえりなさいませ、ミツハさま! そちらの方はいったいどなたでいらっしゃいましたでしょうか?」

「ちょうどいい。チコ、今日からこの水宮で過ごす私の花嫁だよ。名は新菜。良くしてやってくれ。新菜、こっちは側仕えのチコ。童だがよく気が利くから、何かあったらチコに聞くと良い」

天雨神がチコを紹介すると、チコは嬉しそうに新菜に向かってお辞儀をした。

「新菜さま。わたくし、ミツハさまの側仕えをしております、チコでございます! ミツハさまの花嫁さまのお世話を出来るなんて、光栄です! よろしくお願いします!」

新菜は困惑した。まず、人の身で立ち入って良いわけではなさそうな宮にお邪魔してしまったこと。それから天雨神がてらいもなく新菜を嫁だと言い張ること。そしてチコに満面の笑みで受け入れられてしまったこと。

どれもこれも、今までの新菜の立場からすれば恐れ多いことだ。自分が贄となって天雨家の影響がある地の民に穏やかな雨が降れば、新菜の役割は其処で終わりの筈だ。