――――筈だった。

空(くう)を飛べば、新菜の体は重力の力で湖に沈むはずだった。新菜が沈めば、天雨神も幾ばくかの慈悲をくれるものと信じていた。しかし今、足袋の足先は水に濡れるどころか水面上に浮いていて、巫女服に包まれた新菜の体は、恐ろしいほどの美貌の主に抱き留められていた。

「……驚いたな。再びこの地で君と相まみえようとは。しかも、身投げとはどういうことだ。何か困りごとか? であれば、何故この三年間、私を呼ばなかったのだ」

ゆらりと舞う長髪は、銀。新菜を見つめる瞳は、湖のように奥深い蒼。更にはやはり湖と同じ蒼の着物を着て、宙に浮いている。それらのことだけでも、新菜の頭を混乱させるには十分だった。

「っ!? あ、ああの、ええと、あの……っ!!」

新菜は天雨家を出たことがなかった。つまり家族と使用人以外の人間に会ったことがなかった。当然近しい男性も居らず、このように体を抱き上げられるなどという経験も初めてだった。

すらりとした体躯に見えるのに、新菜を抱えてもびくともしない銀の彼は、ゆうるりと宙を降りると地面に足を付いた。ほっとして、降ろしてください降ろしてください、と自分を抱える相手に懇願する。青年は新菜の混乱ぶりに苦笑して、そこまで嫌がられると傷付くではないか、と零しながら、それでも新菜を大切そうにそっと地面に降ろし、自らが新菜の前にひざまずいて、脱いだ草履を履かせてくれた。

「あっ、あの……。初めてお会いした方に、そんなことをして頂くのは……」

申し訳ない、と続けようとしたら、青年が酷く傷付いたような、切ない目をした。そして新菜の前にひざまずいたまま、新菜の両手をそっと包む。

(え……)

「我が巫女姫。どうかそんな冷たいことを言わないでくれ。私は君の声をもう一度聞くことが出来て、この胸がはちきれんばかりに喜んでいるのに」

伝わらないだろうか、この鼓動が。

そう言って青年は新菜の手を青年の胸に宛がった。この国に文明をもたらしたという外(と)つ国の人らしい彼の鼓動を知ろうにも、着物の上から感じるのはほんのりした体温だけ。それより新菜の手を握った青年の手の温度が気になった。

青年は一生懸命なまなざしで新菜を見て来るが、新菜はこの青年とは初対面の筈だ。このような目立つ成りの人だったら一度会ったら忘れない筈であり、新菜の記憶の何処を探しても、彼のような美貌の主の面影は残っていなかった。

「あの……。どなたかとお間違えではないでしょうか……? 私は確かに巫の血を引いておりますが、正式には巫女ではありません。そのような立場ではないのです」

巫女姫とは、天末(あますえ)の神が自ら認めた巫女のことを呼ぶ呼び名だと、母親に聞いたことがある。新菜は鈴花が執り行っているような神の声を聞く神事を行ったことがないので、その呼び名は当たらない。しかし青年は新菜のことを自分の巫女姫だと言って譲らなかった。

「そら。先程舞った時に飛び出たんだろう、首から出ているその首飾り。その飾りは三年前、私が君に贈ったものだ。覚えてないか?」

え、と思う。この首飾りは昔から新菜が大事に身に着けていた、いわばお守りのようなものだ。それをいきなり、自分が贈ったなどと言われても……。