陽介の死は、海藤を亡くした時とはまた違う喪失感だった。
両親を既に失い正子が側にいない俺にとって、弟は最後の肉親だった。俺を無心に慕ってくれて心配してくれる、かけがえのない家族を失ってしまった。
陽介の葬儀は俺が行ったはずだが、何も覚えていない。呆然としていて、自分がどんな顔をしていたのか、参列客と何を話したのかさえわからなかった。
ようやく意識が戻ったのは、葬儀が終わって夜に自宅のアパートに戻って来てからだった。
紫色の袋をテーブルに置いた時、俺はようやく現在の自分を取り戻した。
小さな袋に収められた陽介の遺骨。それを目の前にして、俺は気づく。
……俺は一人だ。もう誰もいないのだと思った。
一晩眠らずに泣いた。朝が来るのが、他人事のようだった。
翌朝、重い体をひきずって出勤した。ただの惰性の動きで、何の感情もそこにはなかった。
「氷牙、いい。無理するな」
「しばらく休め」
同僚たちは俺を心配して口々に言った。俺は何も答えることができず、ふらふらと執務室に入った。
室内には既にみことさんが出勤していて、パソコンを前に検察事務官の席に座っていた。
俺はめまいを感じて、扉を背にその場に座りこんだ。立ち上がる気力もなくて、しばらくそのまま動かなかった。
パチパチとみことさんがタイプを打っている。今日もきっちりとスーツを着込んで髪をまとめ、指の先まで凛とした緊張を身にまとっている。
彼女も弟を亡くしたばかりなのに、いつの間にかしゃんと立ち直っている。どうしてなのだろうと、俺はぼんやりと思う。
どれくらい呆けていたのかわからない。
「席に座らないのですか?」
ふいにみことさんが言った。
「座らないなら出て行ってください。そこに座るのは検事だけです」
全くその通りだと、俺はぎこちない笑いさえ浮かべそうだった。
「……でも」
みことさんは立ち上がって俺の机の前に立つ。そこには既に山のように書類が積み重なっていた。
「ここにある仕事を引き受けた検事はあなたしかいないでしょう。あなたはこれを放りだすつもりですか?」
俺は無言でみことさんを見上げる。
そういえばみことさんは弟を失っても休むことなく、毎日仕事をしていたと気づく。
「この書類の中のすべての被害者が、一日も早く裁判が始まるのを待っています。あなたが起訴しなければこの内のどの被疑者も、法の前で裁かれることがないんです」
みことさんは強く俺を睨みつける。
「あなたが止めなければ、正義の刃はまた人を殺すかもしれないんですよ」
俺の前に歩いて来て、彼女は俺を見下ろした。
「腑抜けてる時間があると思ってるんですか?」
「……俺は!」
せりあがってくる悲しみに、俺は声を上げていた。
「最後の肉親をなくしたかもしれないんですよ。一人なんだ!」
「一人じゃありません」
ぐいとみことさんは俺の胸倉を掴んだ。
「検事のあなたは決して一人じゃありません。私も同僚も警察も、みんなあなたを支えます」
「みんないなくなる。母さんも愛理も陽介も。親しい人間を亡くすのなんてもうたくさんだ!」
「それでも戦うのが私たちじゃないんですか!」
みことさんの瞳は泣いているようで、でもそれ以上の力があった。
「最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。その覚悟がないなら権力の刃を捨てなさい!」
雷が落ちたような衝撃が走った。
俺はのろのろと自分の手を上げる。
――氷牙。自分に任された権力の重みがわかってるか?
いつか海藤が言っていた。
――俺たちは刃を持ってるんだぞ。人の命さえ奪える。怖いと思わないか?
睨むようにして俺を見た海藤の目が、今のみことさんの目と重なって見えた。
――正義であり続ける覚悟がないなら、お前には任せられない。
俺たちは法に反した者を処罰する力を託されている。人を傷つけることさえ認められる。ただ一つの理由、正義であるがために。
「……捨てるわけにはいきません」
俺は壁に手をつきながら立ち上がる。
「まだ守るべき命が一つ、あるんです。俺は刃を握り続けます」
みことさんは俺を見上げて眼鏡の奥の目を細めた。
ついと腕時計を見下ろして、彼女は告げる。
「三時間二十分後に正義の刃対策本部の会議があります。それまでに下で仮眠して、朝食を取って、顔を洗って出直してきてください」
検察事務官の席に戻って元通りに座りながら、みことさんは言った。
「その時にまたそんな顔を見せたら、今度こそ叩きだしますからね」
俺は苦笑しながら、うなずいた。
通称「正義の刃」対策本部の会議は二十人ほどの警察官と刑事部の検事が来ていた。
知らない若い警官もいるが、ほとんどがベテランのやり手刑事だ。警察の方も本腰を入れてきたなという印象だ。
年齢からいけば俺は中堅に分類されるが、公判を担当する検事など捜査のプロである彼らから見ればほとんど素人で、本来俺に発言権はないといっていい。
「悪かったな、氷牙」
けれど対策本部部長は、会議の前に俺に声をかけてきてくれた。
「俺たちの不始末で、お前の家族の事件が長らく放置されてきた。このたび、事件に正式に加えて再捜査することになった」
「不始末だなんて。陽介は俺の身内ですから」
「俺たちの身内でもある」
部長は難しい顔をして言う。
「いい奴だった。あいつがただの恨みだけで海藤を刺したとは思えない。唆して殺した奴を俺たちは許さない」
時間になって、会議が始まった。
今までの捜査で集められた資料などを見ながら、事件の内容を詳細に検討する。
俺も陽介の遺品から取り戻した海藤のデータを焼いたディスクを、部長に渡しておいた。
「刃の被害者は今のところ「人を殺した者」だとされていますが、声明等は出ておらず、その犯行目的はわかっていません」
中堅どころの警官がプレゼンターとなって、スクリーンを前に説明する。
「怨恨にしては対象者に共通点がなさすぎます。あるとしたら社会に対する憎悪、不満ゆえのテロ。愉快犯、精神異常者もありえます」
「何らかの信念があるとしたら、それは何だ?」
質問に、別の警官が答える。
「教会殺人事件の被疑者が犯人であるとすれば、信仰という可能性が考えられます」
「カルト集団か?」
「現実に、教会殺人事件は信者たちによる集団殺人事件でした。信仰は人を殺す危険を持っています」
「一般論で進めるには材料が少ないな」
白髪のベテラン刑事がため息をつく。
「陽介を庇うつもりじゃないが、どうにもあいつが首謀者だとは思えない。共犯者がいるはずだ」
「……あのう」
ふいに気の弱そうな声が割って入る。
振り向くと、隅の席にまだ着任して間もないくらいの若い警官がいた。
「い、いや裏はまだ取れていないのですが」
「発言してみなさい」
「は、はい」
茶髪の若い警官は、立ち上がって話し始める。
「刃の共通点は人を殺した者が被害者だということですけど、法で裁かれた者は誰も狙われたことがないんですよね」
「そうなってるな」
「刃はなぜそう法にこだわるんでしょう。法を崇拝しているような印象さえ受けます」
「陽介の事件はどう整理する?」
「それについては、陽介先輩の事件を担当している彼からお願いします」
隣に座っていた、まだ二十代の若手刑事が立ち上がる。
「陽介先輩なんですが、遺書が見つかりました」
「え?」
思わず声を上げた俺だけでなく、皆にざわめきが走る。
「刃は、陽介先輩が死んで法では裁かれなくなる前にと、実行に及んだのでは」
「刃がなぜそこまでのことを知っている?」
「言いにくいのですが、そのう……」
言葉を詰まらせた若手警官の代わりに、岩のように動かなかった老年の警官が答える。
「刃は警察や検察機関内部に通じていると」
「一つ別の視点をご紹介します」
眼鏡をかけたインテリ風の中堅警官が立ち上がる。
「正義の刃事件は、広く情報収集ができるだけの資金源がないと不可欠です。裁判は公開されていますが、情報が多岐にわたるからです。一方で労力のわりにマスコミには露出の少ない事件ばかりで、利益はほとんどないのです」
それは俺も感じていた。何らかのメッセージを打ち出すのであれば、もっとセンセーショナルな事件を対象にした方が都合がいいはずなのに、刃はそれをしていない。
何の目的で刃は人を殺しているんだろう。このようなことをして、刃に何の得がある?
ただの愉快犯なのか。損得勘定もできない、精神異常者なのか。
「ここで、教会殺人事件の件に戻りますけど」
向聖は、一連の刃の事件の中で唯一確定している容疑者だ。だから彼についてはかなり詳しく調べられているようだった。
「霧島向聖の身の回りに不自然な金の動きがあるようです」
「どういうことだ?」
「五年前に、霧島向聖は会社を立ち上げました。独自ブランドのビールの製造と販売を行う、設立当時は資本金100万円にも満たない小さな株式会社です。それが五年の内に名の知れた優良企業にまでなりました」
インテリ風の警官は淡々と続ける。
「ところが社長の霧島向聖はほとんど経営には参加していないようなのです。株式保有率も5%以下で主導も取れない。もっぱら、外部の株主が会社経営の舵をとっていて、資本もノウハウも提供している様子です」
「その辺りのどこが不自然な金の動きなんだ?」
「これを見てください。霧島向聖の確定申告です」
スクリーンに映し出された税金の確定申告の年ごとの比較表を見て、俺は眉を寄せた。
「五年前から、毎年会社からの給与が記載されていますよね。初年度は500万円程度でした。ですが年々増えて、今年度は5億にまで達しています。これは会社の剰余金の半分以上です」
若手警官は眼鏡の奥の目を光らせる。
「株式は僅かしか持たず、経営者ですらない者に、なぜそんな高額の給与を与えているんでしょうか?」
確かに妙なことだと、俺も口元を押さえた。
「しかも会社を立ち上げた時期が五年前。ちょうど氷牙さんの事件を除き、刃が容疑者と見られる事件の開始時期と重なります」
不自然な金の動きと刃の事件には何らかの関係があるのだろうか。もしかして、刃は俺も気に入っているあの酒場のビールを収入源としているのだろうか。
「……氷牙さん」
しばらく考え込んでいた俺に、プレゼンターの警官が声をかけてきた。
「氷牙さんは何か思うところはありますか?」
いつの間にか場の視線が俺に集中していた。
「ここ数件の事件は氷牙さんの身の回りで起きています。俺たちも捜査で散々調べた以上、氷牙さんが犯人だとは考えていません。でもこの件について氷牙さんは重要人物なんです」
俺もそう考えていた。なぜ俺の身の回りで事件が頻発しているのかと。
少し黙って、俺は考えを口にする。
「陽介は刺される前に気になることを話していました。「あんなものがなければ自分は海藤を殺すこともなかった」と」
「あんなもの?」
「刃のことを知っているようで、刃のことを「魔物」と呼んでいました」
自分で口にして、俺ははっとする。
――魔物、というのはどうでしょうか。
シルクハットの旅行者、テラさんもそんなことを言っていなかったか。
「これは、あくまで仮説なんですが」
俺は前を見据えて告げる。
「「正義の刃」とは、人ではなく「物」なのではないでしょうか。人を容易に殺せてしまう、特殊で危険な凶器」
まだ一度も俺たちの目に触れたことがない、未知なる物。
「おそらく、犯人は一人ではないのです。それを持った、複数の者による一連の事件が正義の刃と呼ばれているのではないでしょうか」
そしてその刃の正体を明かさなければ、きっと止まらないのだ。
俺は前を見据えて、その姿に目をこらした。
俺は上司と同僚の協力を得て、正義の刃事件に専念できるように他の仕事を減らしてもらうことになった。
二日後に留置場へ向聖の接見に行ったら、先客がいた。面会室から出てきたのは聖也君だった。
「大丈夫?」
思わずそう声をかけたほどに、しばらく会わない内に、彼はずいぶん憔悴しているように見えた。
顔色は青く、細い体がますます痩せたようだ。儚くなってしまいそうな、危うい雰囲気だった。
「いえ、貴正さんの身の上に起こったことを思えば……。本当に、どれほど悲しまれたことかと思います」
陽介のことを心配してくれたのだとわかって、俺は目を伏せる。
「俺は何とか。仲間がいるからな。それより君はちゃんと食べてるかい?」
ベンチに導くと、聖也君は少しよろめきながらも座る。
「僕は……何もできなくて」
意気消沈したように、聖也君は俯く。
「悲しい事件が繰り返されているのに、その連鎖を断ち切れないでいます。向聖さんにも、何と言って励ませばいいのかわからなくて」
「何か差し入れたかい?」
「聖書を持って行ったくらいです」
「ああ、なら十分だ」
俺は聖也君の頭をぽんと叩いて言う。
「向聖は昔から、聖書さえあれば満足な奴だから」
会社を立ち上げたというが、向聖は根っからの聖職者だった。俗世のことなどほとんど興味がなかった。
覚えている。正子にも、彼は優しく接してくれた。
――正子ちゃんも読んでごらん。子ども用だから読みやすいよ。
――おい、布教するな。うちは仏教徒なんだ。
休日に教会の庭へ遊びに行くと、向聖はよく正子に聖書を勧めたものだ。
――仕方ないだろう? 神の教えを説くのが私の仕事なんだから。
――じゃあ良心で控えてくれ。
――正子ちゃんは興味があるみたいなのに。まあ、友人の頼みなら仕方ないね。
もっとも向聖は俺が少し文句を言うとすぐに肩を竦めて笑う、憎めない奴だった。
――君の教える人の法は難しすぎるよ。それを噛み砕いて教えたのが聖書なだけだ。そう嫌わないでくれ。
晴れた空の元での昼下がり、正子と聖也君が遊び回っているのを二人で見守りながら笑っていた、あの他愛ないひとときはもう戻って来ないのだろうか。
心に訪れた悲しみの波に、俺は奥歯を噛んで耐えた。
今は過去の時間の中で止まっていることはできないと、俺は首を横に振る。
「聖也君。君のところに滞在しているテラさんにまた話を聞けないだろうか」
「それなのですが」
彼は困ったように口の端を下げる。
「テラさんはこの間の実況見分の日から、姿が見えないのです。毎日滞在費がポストに入っていますから、まだ近くにはいらっしゃるはずなのですが」
「そうか」
予想はしていたが、彼女はやはり警察を避けている。これ以上俺たちに関わる気はないらしい。
「彼女は何か話していなかっただろうか。よければ教えてくれ」
俺の質問に、聖也君は口ごもる。
「貴正さんの捜査の助けになるような話はないかと」
「どんなことでもいいんだ」
「大したことでは」
聖也君は困り顔で、ぽつりと言う。
「彼女はその、少し変わった方でして」
「そう見えたな」
「滞在のお世話になっているからと、毎晩お話を聞かせてくださったのです。時代も国もばらばらなのですが、物語を一つずつ」
「どんな話なんだ?」
「魔物が登場する話です」
俺は思わず眉を寄せて聞き返した。
「魔物?」
「ある時、その時代の外から入り込んでしまった魔物が騒動を起こすんです。そのせいで時の中に瘤が出来て、時が止まってしまう」
「それで?」
俺の問いかけに、聖也君は少し考えて答える。
「そこの国に住んでいる人が魔物を消して終わります。「すべてハッピーエンドです」と笑って」
俺はテラさんの、底の見えない闇のような目を思い出す。
「「時そのものが消えてしまうので、誰も悲しむ人はいませんよ」と」
それは何かのたとえ話か作り話だとわかっていても、一瞬俺は背中が冷たくなる気がした。
「もし彼女を見かけたら俺に連絡してくれ」
そう言って聖也君と別れた。
面会室に入ると、向聖は椅子にかけて聖書を読んでいた。
年齢の感じられない横顔は、俺のずっと知っている向聖そのままだった。何日も外部から隔絶されていても、毎日のように取り調べを受けていても、彼にとっては日常と何も変わりがないようだった。
俺が向かい側の椅子に座ると、向聖は聖書を閉じてテーブルの上に置く。
「こんにちは。今日は何が聞きたい?」
「お前の会社について」
「それは警察にも話したけど、いいのかい?」
係官も監視している小さな白い部屋で、向聖と俺は向かい合う。
「私の会社とは言っているが、名義を貸しているだけなんだ。経営内容もおよそ把握してない」
「そうだろうな」
向聖は会社を立てた後もほとんど教会関係の仕事をしていた。聖職者が商売などと教会の組織から非難されたために、神父職は聖也君に譲っただけだ。
「それならなぜ、お前の給与に剰余金の大半が入ってるんだ?」
「給与の形をとった寄付なんだ。大株主の方が教会の信者らしくてね」
彼は俺を見やって淡々と告げる。
「実際は聖也君に対する寄付だ。彼が未成年で養父の私が財産を管理している関係上、私が自分の財産として申告しているがね」
「何のためにそんな大金を聖也君に?」
「さあ。聖也君は特にその金に手をつけず、ずっと預金し続けているようだよ」
「大株主とは誰だ?」
「それも知らない。私は株主総会にも取締役会にも出たことがないからね」
俺は相手が向聖でなければ、全くのでたらめをしゃべっていると思って相手にしなかっただろう。
「向聖。お前は嘘をついていないかもしれない。だが黙っていることがないか?」
向聖の目を見返しながら、俺は問う。
「お前は自分以外の者の罪まで背負うつもりか?」
向聖の瞳は全く揺らがない。磨き上げられた宝石のような、清廉な光の目だ。
「誰かを庇っているだろう」
そしてそれは、と向聖の瞳の奥まで覗くようにしてみつめる。
「……たぶん、聖也君にかかわる」
俺のあいまいな言葉に、向聖は何のためらいもなく返した。
「そんなことを訊いてどうする」
向聖は聖書を朗読する時のように静かに言う。
「それについては答えは決まっている。「彼は潔白だよ。」」
彼は聖也君を叱らない。聖也君のすることを、すべて無条件で受け入れた。
「彼は私の信仰だから」
向聖にとって、聖也君は「正」で「聖」なのだ。彼らの信仰で神が人々に与えるように、向聖は聖也君に何の見返りも求めず愛を注いだ。
彼は聖也君がどんな罪を犯したとしても微笑んで許すだろう。そして庇う。向聖は、法よりも信仰を取る。
「それに君の家族の事件当時、聖也君は正子ちゃんと同じ八歳だ。そんな子どもが痕跡も残さずに次々と殺人ができるのか?」
犯人が物であるということは俺の憶測に留まっている。だから向聖の質問に対する答えを、まだ俺は持っていない。
結局接見はそのまま進展せず、向聖は聖書を大切そうに抱えて去って行った。
向聖の初公判は三日後に迫っていた。
「忙しい時期ですのに、申し訳ない」
「いえ、ずっと働きづめでしたから、一日くらいゆっくりなさってください」
みことさんが明日一日休みを取りたいというので、俺は気安く応じた。
彼女だって弟を失って辛かったはずなのに、一日も休まずに検察事務官の仕事をしていてくれたのだ。気弱になった俺を時に叱責しながら、一緒にがんばってきてくれた。
いつも俺が仕事を終えるまで付き合ってくれるみことさんがいないのは少し寂しかったが、俺はみことさんが先に帰った後も仕事をしていった。
俺は寒さに肩をすぼめながら街を歩く。そういえばクリスマスは向聖の初公判の翌日だと思いながら。
時刻は十二時を回ろうとしていた。
自宅のアパートで遅い夕食を取って風呂に入り、俺は床につこうとしていた。
インターホンが鳴って、俺はこんな時間に誰だろうと戸口へ向かう。
「はい」
だいぶ建てつけの悪い玄関の扉を開いた瞬間だった。
ふわっと俺に柔らかいものが巻き付く感触があった。
「……み、みことさん?」
腕を回して、みことさんが俺を抱きしめていた。俺は何が起こったのかわからず、その場で立ち竦む。
俺はしばらく言葉を忘れていた。みことさんも何も言わなかった。
「あの、中に入りませんか」
ようやく俺が言葉を取り戻した時、同時に思い出したことがある。
「ちゃんと話しましょう。俺はあなたに伝えたいことがあるんです」
殺人事件でうやむやになっていたが、俺はみことさんと一度話さなければいけないと思っていたのだ。
「みことさんにとって一番大事なのは息子さんだとわかってます。でも、俺はあなたが」
ふいにみことさんが体を離して俺を見上げた。
「駄目ですよ、それを言っちゃ」
涼やかで綺麗な目は、闇の中で少し濡れているような気がした。
「あなたは私の一番にはなれません。私だって、あなたが一番大事なのは娘さんだとわかってます」
笑って、みことさんは俺の前に立つ。
「今度こそ、これですべて忘れましょう。あなたは検事、私はその担当事務官」
言葉に迷った俺に、みことさんはそっと告げた。
「おやすみなさい。貴正さん」
それは俺が今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
翌日、俺は裁判所から地検に帰る途中で少し時間があったので、みことさんの家に立ち寄った。
一晩考えて、俺は自分の気持ちを整理した。
本人が忘れようと言っているのだから、今更俺が掘り返してはいけないのだとわかっている。弟の死で落ち込んでいる彼女に、そういう話をすべき時ではないということも。
それでもちゃんと言わなければいけないと思った。俺と付き合ってほしい……よければ結婚してほしいと。
妻を忘れたわけじゃない。正子のことが今でも心の大半を占めている。仕事でも頼りない検事かもしれない。けれど、彼女が好きであることは間違いないと気づいた。
みことさんは不在だった。俺は少し考えて、近所にある海藤の家に足を向ける。
「あ、検事のおじさん。こんにちは」
ちょうど遊びに行くところだったのだろうか。みことさんの息子の純君が家から飛び出て来た。
母親に似て怜悧な顔立ちをしている純君は、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。お母さんはいる?」
「お母さんは今日手術だよ」
「え?」
病気という話など聞いていなかったと、俺は眉を寄せる。
「夜には帰ってくるんだって。ええっと……八代岬、産婦人科病院?」
俺はその名前に聞き覚えがあったので、さっと顔色を変えた。
「おじさん?」
踵を返して走りだす。頭にのしかかる、嫌な予感につぶされそうになりながら。
純君の言った病院は、仕事で担当したことがある都内の病院だ。
……堕胎専門の産婦人科だ。
タクシーをつかまえて、職場とは反対の方向に向かう。途中から渋滞に巻き込まれたので、俺はタクシーを下りて急いだ。
小雨の降る昼下がりだった。ささやかな雨なのに、冬の空気と合わさると凍るような冷たさだった。
そういえば昨日も小雨が降っていた。この冷たさの中をみことさんは俺の家まで来たのかと思うと、俺はまぎれもない後悔を感じる。
病院まであとは直進だと思って角を曲がったところで、俺は足を止めた。
「え……」
道路にはテープが張られて封鎖されていた。見張りの警官が立っている前に、野次馬が人波を作っている。
「何があったんですか?」
近くの人をつかまえて尋ねると、主婦らしい壮年の女性は答えた。
「大量殺人事件らしいんだよ。でも犯人とか凶器が全然わからなくてね。これも正義の刃事件じゃないかって警官が話してるのを聞いたよ」
「大量……殺人?」
「うん」
女性は病院を見上げて何気なく言う。
「入院中の患者さんやお医者さんに看護師さん、ええと十三人だったかな……全員殺されたそうだよ」
彼女の言葉を、俺は聞き入れることを拒絶した。
「あ、氷牙さん」
無言でテープの前まで来ると、馴染みの警官が俺をみつける。
「もう連絡がいきましたか。現場を見ます?」
俺は頷いて病院内に入る。
俺の頭の中はみことさんのことでいっぱいだった。人の命はどれも尊いはずなのに、今の俺は被害者の中にみことさんが入っていないことだけを願っていた。
彼女が入院したのはこの病院でないとか、もう退院したとか、偶然外出していたとか。そういう可能性などいくらでもあると心で言い聞かせていた。
病院内は血の匂いで満ちていた。消毒液の匂いすらかき消す、濃厚な大量の鉄の匂いだ。
あちこちに青いシートがかぶせられている死体がまだ残っている。警官たちは写真を撮ったり指紋を取ったりしていた。
俺は入院中の患者の個室が三つ並んでいる場所まで来ると、その名前のプレートを確認する。
一つ目、二つ目を通り過ぎて、三つ目。
「海藤みこと」のプレートを見てもまだ俺はみことさんの無事を信じていた。
病室の中のベッドには青いシートが被せられていた。俺は爆発しそうな動悸を感じながらベッドに歩み寄って、シートの顔の部分をめくる。
みことさんは眠っているようにしか見えなかった。静かな表情で目を閉じているだけだった。
「まだ麻酔が効いていて眠っていたところを刺されたようです」
シートをさらにめくってその胸に刺殺の跡をみつけても、なお俺は彼女が生きていると思った。
「氷牙さん! 死体に触らないでください!」
「……死体?」
触れかけた俺を制した警官に、俺は声を荒げる。
「昨日まで一緒に……仕事をしてたのに?」
俺は手を震わせながら握りしめる。
「こんな、馬鹿な、ことが」
――子どもじゃないんですからやめなさい。私たちは泣いたって何も解決しないんですよ。
まだ検事になりたての頃に仕事でとんでもない失敗をして、俺は隠れて泣いた。その時に、みことさんが俺をみつけてくれた。
ぽんと俺の頭を叩いてくれた、あの優しい手が記憶に蘇る。
――今度は大丈夫。あなたが失敗しないように私が見ていてあげます。
もう泣かなくていいんですよと言った声を、昨日のように覚えている。
「氷牙、被害者の遺品だ。汚すなよ」
壮年の刑事が俺に手袋を渡して、ついで日記帳らしき本を差し出す。
俺は手袋をはめて、慎重にページを開く。丁寧で綺麗な字は、確かにみことさんの字だった。
前日、つまり昨日の日付で最後の日記が記されていた。
『明日、手術を受ける。私は子どもを一人殺すことになる』
みことさんの文には緊張感が漂っていた。
『とても怖い。私は彼と子どもを育てることはできないから決めたが、本当にこれでよかったのか。何度考えても答えは出ない』
昨日の夜、俺に会いに来た後に書いたのだろうか。
『命の代償は、何で払えばいいのだろう。生き物にとって唯一のそれを奪うためには、やはりたった一つの命でしか償えないのではないだろうか』
震える筆跡で、みことさんは記す。
『みっともない。殺人事件も仕事で数多く扱ったのに、私は自分が人を殺す側になって、悲しいよりひたすら怖いのだ』
俺は文章を一字も見逃さないように、目をこらして読む。
みことさんは決意のように次の文を記す。
『何としても刃を止めなければいけない。でもおそらく人を殺す私には、もうその資格がない』
最後は、俺へのメッセージだった。
『貴正さん。被害者と、社会と、そして犯人を救ってください』
俺は目を固く閉じて唇を噛む。
みことさんに子どもを殺させたのは俺だ。俺のせいなんだと、瞼の裏がたまらなく熱くなる。
すぐにでも溢れてしまいそうな涙を、俺は目を閉じたままこらえる。
――腑抜けてる時間があると思ってるんですか。
俺の中を、みことさんの言葉が通っていく。
――最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。
俺は検事であり続けると決めたのだ。救える命がある間は、決して権力の刃を手放さないとみことさんに約束した。
「現場に外部の者が入り込まないよう、痕跡等が消えないようにしてください」
目を開いて、俺は警官たちに告げる。
「事件の前後に病院内に入った者に注意してください。婦人科なら出入りはそれほど多くないはずです。受付記録にも残っているでしょう」
絶対に犯人を逃さない。誰を失っても、最後の一人になっても、俺は犯人を探して裁きにかける。
俺は静かに礼をして、みことさんの病室から出ていった。
翌日、俺は警察署の刃対策本部部長に呼ばれていった。
担当の警官たちは横で写真をテーブルいっぱいに広げて話している。
「すごい美人だな。女優みたいだ」
「誰だよ、刃がカルト教団の信者だなんて言ったの」
「足細いなぁ」
およそ捜査らしくない話をしているのを聞いて、警部から叱責の声が飛ぶ。
「おい、お前ら。そいつと決まったわけじゃないだろうが。しっかり調べろ」
「は、はい!」
そそくさと作業に戻る彼らを、俺は不思議に思いながら見送った。
「氷牙、お前に確認してもらいたいものがあるんだ」
部長が俺に示したのは、一つのビデオテープだった。
「産婦人科事件で事件の前後に出入りした人間が監視カメラに映っていた。人数が少ないから、俺たちの方で一人一人調べているが」
産婦人科だからか、出入りしているのは全員女性だった。
「ここだ」
ビデオを早送りして、部長は一つの時点で止めた。
「見ての通り遠目だが、お前、彼女に覚えはないか?」
白黒画像の中、玄関から入ってくる一人の少女がいた。
年齢はおそらく十代後半ほどで、きれいな長い髪を肩に流していた。シンプルなコートを羽織った上にマフラーを巻いている。格好としては地味だが、そのスタイルはモデルのように完璧に整えられていた。
「……え?」
一瞬映った見覚えのある顔立ちに、俺は思わずボタンを止める。
もう一度ビデオを巻き戻して同じ時点を繰り返す。
サングラスをかけてはいるが、迫力のある華やかな美貌の少女だった
……その顔立ちが、俺の記憶に残る正子と重なった。
信じられない思いで何度もビデオを再生していた俺に、部長がICレコーダーを示す。
「それから、匿名でこんな記録が送られてきた」
部長は再生スイッチを押す。
『そうね。あなたの母親は私が殺したようなものかもね』
そこから山根の興奮した声が流れてきた。
『でも本当に殺したかったのはあなたよ。貴正はあなたが一番大事だって、何度も言って。あなたなんか、あなたなんか……!』
愛理は我を失ったように声を荒げる。
何かを振り回す気配がしたが、やがて録音が途切れた。
「これは時刻から見て、山根の死亡する直前に録られたと見られてる。相手の声は聞こえないが」
俺は山根の言葉を繰り返し頭の中で再生して、呟く。
「あなたの母親、貴正はあなたが一番大事?」
それは、と俺は呆然としながらたった一人を想う。
俺は懐から正子の写真を取り出してみつめる。
八歳の正子は、今日も元気いっぱいに笑っていた。
両親を既に失い正子が側にいない俺にとって、弟は最後の肉親だった。俺を無心に慕ってくれて心配してくれる、かけがえのない家族を失ってしまった。
陽介の葬儀は俺が行ったはずだが、何も覚えていない。呆然としていて、自分がどんな顔をしていたのか、参列客と何を話したのかさえわからなかった。
ようやく意識が戻ったのは、葬儀が終わって夜に自宅のアパートに戻って来てからだった。
紫色の袋をテーブルに置いた時、俺はようやく現在の自分を取り戻した。
小さな袋に収められた陽介の遺骨。それを目の前にして、俺は気づく。
……俺は一人だ。もう誰もいないのだと思った。
一晩眠らずに泣いた。朝が来るのが、他人事のようだった。
翌朝、重い体をひきずって出勤した。ただの惰性の動きで、何の感情もそこにはなかった。
「氷牙、いい。無理するな」
「しばらく休め」
同僚たちは俺を心配して口々に言った。俺は何も答えることができず、ふらふらと執務室に入った。
室内には既にみことさんが出勤していて、パソコンを前に検察事務官の席に座っていた。
俺はめまいを感じて、扉を背にその場に座りこんだ。立ち上がる気力もなくて、しばらくそのまま動かなかった。
パチパチとみことさんがタイプを打っている。今日もきっちりとスーツを着込んで髪をまとめ、指の先まで凛とした緊張を身にまとっている。
彼女も弟を亡くしたばかりなのに、いつの間にかしゃんと立ち直っている。どうしてなのだろうと、俺はぼんやりと思う。
どれくらい呆けていたのかわからない。
「席に座らないのですか?」
ふいにみことさんが言った。
「座らないなら出て行ってください。そこに座るのは検事だけです」
全くその通りだと、俺はぎこちない笑いさえ浮かべそうだった。
「……でも」
みことさんは立ち上がって俺の机の前に立つ。そこには既に山のように書類が積み重なっていた。
「ここにある仕事を引き受けた検事はあなたしかいないでしょう。あなたはこれを放りだすつもりですか?」
俺は無言でみことさんを見上げる。
そういえばみことさんは弟を失っても休むことなく、毎日仕事をしていたと気づく。
「この書類の中のすべての被害者が、一日も早く裁判が始まるのを待っています。あなたが起訴しなければこの内のどの被疑者も、法の前で裁かれることがないんです」
みことさんは強く俺を睨みつける。
「あなたが止めなければ、正義の刃はまた人を殺すかもしれないんですよ」
俺の前に歩いて来て、彼女は俺を見下ろした。
「腑抜けてる時間があると思ってるんですか?」
「……俺は!」
せりあがってくる悲しみに、俺は声を上げていた。
「最後の肉親をなくしたかもしれないんですよ。一人なんだ!」
「一人じゃありません」
ぐいとみことさんは俺の胸倉を掴んだ。
「検事のあなたは決して一人じゃありません。私も同僚も警察も、みんなあなたを支えます」
「みんないなくなる。母さんも愛理も陽介も。親しい人間を亡くすのなんてもうたくさんだ!」
「それでも戦うのが私たちじゃないんですか!」
みことさんの瞳は泣いているようで、でもそれ以上の力があった。
「最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。その覚悟がないなら権力の刃を捨てなさい!」
雷が落ちたような衝撃が走った。
俺はのろのろと自分の手を上げる。
――氷牙。自分に任された権力の重みがわかってるか?
いつか海藤が言っていた。
――俺たちは刃を持ってるんだぞ。人の命さえ奪える。怖いと思わないか?
睨むようにして俺を見た海藤の目が、今のみことさんの目と重なって見えた。
――正義であり続ける覚悟がないなら、お前には任せられない。
俺たちは法に反した者を処罰する力を託されている。人を傷つけることさえ認められる。ただ一つの理由、正義であるがために。
「……捨てるわけにはいきません」
俺は壁に手をつきながら立ち上がる。
「まだ守るべき命が一つ、あるんです。俺は刃を握り続けます」
みことさんは俺を見上げて眼鏡の奥の目を細めた。
ついと腕時計を見下ろして、彼女は告げる。
「三時間二十分後に正義の刃対策本部の会議があります。それまでに下で仮眠して、朝食を取って、顔を洗って出直してきてください」
検察事務官の席に戻って元通りに座りながら、みことさんは言った。
「その時にまたそんな顔を見せたら、今度こそ叩きだしますからね」
俺は苦笑しながら、うなずいた。
通称「正義の刃」対策本部の会議は二十人ほどの警察官と刑事部の検事が来ていた。
知らない若い警官もいるが、ほとんどがベテランのやり手刑事だ。警察の方も本腰を入れてきたなという印象だ。
年齢からいけば俺は中堅に分類されるが、公判を担当する検事など捜査のプロである彼らから見ればほとんど素人で、本来俺に発言権はないといっていい。
「悪かったな、氷牙」
けれど対策本部部長は、会議の前に俺に声をかけてきてくれた。
「俺たちの不始末で、お前の家族の事件が長らく放置されてきた。このたび、事件に正式に加えて再捜査することになった」
「不始末だなんて。陽介は俺の身内ですから」
「俺たちの身内でもある」
部長は難しい顔をして言う。
「いい奴だった。あいつがただの恨みだけで海藤を刺したとは思えない。唆して殺した奴を俺たちは許さない」
時間になって、会議が始まった。
今までの捜査で集められた資料などを見ながら、事件の内容を詳細に検討する。
俺も陽介の遺品から取り戻した海藤のデータを焼いたディスクを、部長に渡しておいた。
「刃の被害者は今のところ「人を殺した者」だとされていますが、声明等は出ておらず、その犯行目的はわかっていません」
中堅どころの警官がプレゼンターとなって、スクリーンを前に説明する。
「怨恨にしては対象者に共通点がなさすぎます。あるとしたら社会に対する憎悪、不満ゆえのテロ。愉快犯、精神異常者もありえます」
「何らかの信念があるとしたら、それは何だ?」
質問に、別の警官が答える。
「教会殺人事件の被疑者が犯人であるとすれば、信仰という可能性が考えられます」
「カルト集団か?」
「現実に、教会殺人事件は信者たちによる集団殺人事件でした。信仰は人を殺す危険を持っています」
「一般論で進めるには材料が少ないな」
白髪のベテラン刑事がため息をつく。
「陽介を庇うつもりじゃないが、どうにもあいつが首謀者だとは思えない。共犯者がいるはずだ」
「……あのう」
ふいに気の弱そうな声が割って入る。
振り向くと、隅の席にまだ着任して間もないくらいの若い警官がいた。
「い、いや裏はまだ取れていないのですが」
「発言してみなさい」
「は、はい」
茶髪の若い警官は、立ち上がって話し始める。
「刃の共通点は人を殺した者が被害者だということですけど、法で裁かれた者は誰も狙われたことがないんですよね」
「そうなってるな」
「刃はなぜそう法にこだわるんでしょう。法を崇拝しているような印象さえ受けます」
「陽介の事件はどう整理する?」
「それについては、陽介先輩の事件を担当している彼からお願いします」
隣に座っていた、まだ二十代の若手刑事が立ち上がる。
「陽介先輩なんですが、遺書が見つかりました」
「え?」
思わず声を上げた俺だけでなく、皆にざわめきが走る。
「刃は、陽介先輩が死んで法では裁かれなくなる前にと、実行に及んだのでは」
「刃がなぜそこまでのことを知っている?」
「言いにくいのですが、そのう……」
言葉を詰まらせた若手警官の代わりに、岩のように動かなかった老年の警官が答える。
「刃は警察や検察機関内部に通じていると」
「一つ別の視点をご紹介します」
眼鏡をかけたインテリ風の中堅警官が立ち上がる。
「正義の刃事件は、広く情報収集ができるだけの資金源がないと不可欠です。裁判は公開されていますが、情報が多岐にわたるからです。一方で労力のわりにマスコミには露出の少ない事件ばかりで、利益はほとんどないのです」
それは俺も感じていた。何らかのメッセージを打ち出すのであれば、もっとセンセーショナルな事件を対象にした方が都合がいいはずなのに、刃はそれをしていない。
何の目的で刃は人を殺しているんだろう。このようなことをして、刃に何の得がある?
ただの愉快犯なのか。損得勘定もできない、精神異常者なのか。
「ここで、教会殺人事件の件に戻りますけど」
向聖は、一連の刃の事件の中で唯一確定している容疑者だ。だから彼についてはかなり詳しく調べられているようだった。
「霧島向聖の身の回りに不自然な金の動きがあるようです」
「どういうことだ?」
「五年前に、霧島向聖は会社を立ち上げました。独自ブランドのビールの製造と販売を行う、設立当時は資本金100万円にも満たない小さな株式会社です。それが五年の内に名の知れた優良企業にまでなりました」
インテリ風の警官は淡々と続ける。
「ところが社長の霧島向聖はほとんど経営には参加していないようなのです。株式保有率も5%以下で主導も取れない。もっぱら、外部の株主が会社経営の舵をとっていて、資本もノウハウも提供している様子です」
「その辺りのどこが不自然な金の動きなんだ?」
「これを見てください。霧島向聖の確定申告です」
スクリーンに映し出された税金の確定申告の年ごとの比較表を見て、俺は眉を寄せた。
「五年前から、毎年会社からの給与が記載されていますよね。初年度は500万円程度でした。ですが年々増えて、今年度は5億にまで達しています。これは会社の剰余金の半分以上です」
若手警官は眼鏡の奥の目を光らせる。
「株式は僅かしか持たず、経営者ですらない者に、なぜそんな高額の給与を与えているんでしょうか?」
確かに妙なことだと、俺も口元を押さえた。
「しかも会社を立ち上げた時期が五年前。ちょうど氷牙さんの事件を除き、刃が容疑者と見られる事件の開始時期と重なります」
不自然な金の動きと刃の事件には何らかの関係があるのだろうか。もしかして、刃は俺も気に入っているあの酒場のビールを収入源としているのだろうか。
「……氷牙さん」
しばらく考え込んでいた俺に、プレゼンターの警官が声をかけてきた。
「氷牙さんは何か思うところはありますか?」
いつの間にか場の視線が俺に集中していた。
「ここ数件の事件は氷牙さんの身の回りで起きています。俺たちも捜査で散々調べた以上、氷牙さんが犯人だとは考えていません。でもこの件について氷牙さんは重要人物なんです」
俺もそう考えていた。なぜ俺の身の回りで事件が頻発しているのかと。
少し黙って、俺は考えを口にする。
「陽介は刺される前に気になることを話していました。「あんなものがなければ自分は海藤を殺すこともなかった」と」
「あんなもの?」
「刃のことを知っているようで、刃のことを「魔物」と呼んでいました」
自分で口にして、俺ははっとする。
――魔物、というのはどうでしょうか。
シルクハットの旅行者、テラさんもそんなことを言っていなかったか。
「これは、あくまで仮説なんですが」
俺は前を見据えて告げる。
「「正義の刃」とは、人ではなく「物」なのではないでしょうか。人を容易に殺せてしまう、特殊で危険な凶器」
まだ一度も俺たちの目に触れたことがない、未知なる物。
「おそらく、犯人は一人ではないのです。それを持った、複数の者による一連の事件が正義の刃と呼ばれているのではないでしょうか」
そしてその刃の正体を明かさなければ、きっと止まらないのだ。
俺は前を見据えて、その姿に目をこらした。
俺は上司と同僚の協力を得て、正義の刃事件に専念できるように他の仕事を減らしてもらうことになった。
二日後に留置場へ向聖の接見に行ったら、先客がいた。面会室から出てきたのは聖也君だった。
「大丈夫?」
思わずそう声をかけたほどに、しばらく会わない内に、彼はずいぶん憔悴しているように見えた。
顔色は青く、細い体がますます痩せたようだ。儚くなってしまいそうな、危うい雰囲気だった。
「いえ、貴正さんの身の上に起こったことを思えば……。本当に、どれほど悲しまれたことかと思います」
陽介のことを心配してくれたのだとわかって、俺は目を伏せる。
「俺は何とか。仲間がいるからな。それより君はちゃんと食べてるかい?」
ベンチに導くと、聖也君は少しよろめきながらも座る。
「僕は……何もできなくて」
意気消沈したように、聖也君は俯く。
「悲しい事件が繰り返されているのに、その連鎖を断ち切れないでいます。向聖さんにも、何と言って励ませばいいのかわからなくて」
「何か差し入れたかい?」
「聖書を持って行ったくらいです」
「ああ、なら十分だ」
俺は聖也君の頭をぽんと叩いて言う。
「向聖は昔から、聖書さえあれば満足な奴だから」
会社を立ち上げたというが、向聖は根っからの聖職者だった。俗世のことなどほとんど興味がなかった。
覚えている。正子にも、彼は優しく接してくれた。
――正子ちゃんも読んでごらん。子ども用だから読みやすいよ。
――おい、布教するな。うちは仏教徒なんだ。
休日に教会の庭へ遊びに行くと、向聖はよく正子に聖書を勧めたものだ。
――仕方ないだろう? 神の教えを説くのが私の仕事なんだから。
――じゃあ良心で控えてくれ。
――正子ちゃんは興味があるみたいなのに。まあ、友人の頼みなら仕方ないね。
もっとも向聖は俺が少し文句を言うとすぐに肩を竦めて笑う、憎めない奴だった。
――君の教える人の法は難しすぎるよ。それを噛み砕いて教えたのが聖書なだけだ。そう嫌わないでくれ。
晴れた空の元での昼下がり、正子と聖也君が遊び回っているのを二人で見守りながら笑っていた、あの他愛ないひとときはもう戻って来ないのだろうか。
心に訪れた悲しみの波に、俺は奥歯を噛んで耐えた。
今は過去の時間の中で止まっていることはできないと、俺は首を横に振る。
「聖也君。君のところに滞在しているテラさんにまた話を聞けないだろうか」
「それなのですが」
彼は困ったように口の端を下げる。
「テラさんはこの間の実況見分の日から、姿が見えないのです。毎日滞在費がポストに入っていますから、まだ近くにはいらっしゃるはずなのですが」
「そうか」
予想はしていたが、彼女はやはり警察を避けている。これ以上俺たちに関わる気はないらしい。
「彼女は何か話していなかっただろうか。よければ教えてくれ」
俺の質問に、聖也君は口ごもる。
「貴正さんの捜査の助けになるような話はないかと」
「どんなことでもいいんだ」
「大したことでは」
聖也君は困り顔で、ぽつりと言う。
「彼女はその、少し変わった方でして」
「そう見えたな」
「滞在のお世話になっているからと、毎晩お話を聞かせてくださったのです。時代も国もばらばらなのですが、物語を一つずつ」
「どんな話なんだ?」
「魔物が登場する話です」
俺は思わず眉を寄せて聞き返した。
「魔物?」
「ある時、その時代の外から入り込んでしまった魔物が騒動を起こすんです。そのせいで時の中に瘤が出来て、時が止まってしまう」
「それで?」
俺の問いかけに、聖也君は少し考えて答える。
「そこの国に住んでいる人が魔物を消して終わります。「すべてハッピーエンドです」と笑って」
俺はテラさんの、底の見えない闇のような目を思い出す。
「「時そのものが消えてしまうので、誰も悲しむ人はいませんよ」と」
それは何かのたとえ話か作り話だとわかっていても、一瞬俺は背中が冷たくなる気がした。
「もし彼女を見かけたら俺に連絡してくれ」
そう言って聖也君と別れた。
面会室に入ると、向聖は椅子にかけて聖書を読んでいた。
年齢の感じられない横顔は、俺のずっと知っている向聖そのままだった。何日も外部から隔絶されていても、毎日のように取り調べを受けていても、彼にとっては日常と何も変わりがないようだった。
俺が向かい側の椅子に座ると、向聖は聖書を閉じてテーブルの上に置く。
「こんにちは。今日は何が聞きたい?」
「お前の会社について」
「それは警察にも話したけど、いいのかい?」
係官も監視している小さな白い部屋で、向聖と俺は向かい合う。
「私の会社とは言っているが、名義を貸しているだけなんだ。経営内容もおよそ把握してない」
「そうだろうな」
向聖は会社を立てた後もほとんど教会関係の仕事をしていた。聖職者が商売などと教会の組織から非難されたために、神父職は聖也君に譲っただけだ。
「それならなぜ、お前の給与に剰余金の大半が入ってるんだ?」
「給与の形をとった寄付なんだ。大株主の方が教会の信者らしくてね」
彼は俺を見やって淡々と告げる。
「実際は聖也君に対する寄付だ。彼が未成年で養父の私が財産を管理している関係上、私が自分の財産として申告しているがね」
「何のためにそんな大金を聖也君に?」
「さあ。聖也君は特にその金に手をつけず、ずっと預金し続けているようだよ」
「大株主とは誰だ?」
「それも知らない。私は株主総会にも取締役会にも出たことがないからね」
俺は相手が向聖でなければ、全くのでたらめをしゃべっていると思って相手にしなかっただろう。
「向聖。お前は嘘をついていないかもしれない。だが黙っていることがないか?」
向聖の目を見返しながら、俺は問う。
「お前は自分以外の者の罪まで背負うつもりか?」
向聖の瞳は全く揺らがない。磨き上げられた宝石のような、清廉な光の目だ。
「誰かを庇っているだろう」
そしてそれは、と向聖の瞳の奥まで覗くようにしてみつめる。
「……たぶん、聖也君にかかわる」
俺のあいまいな言葉に、向聖は何のためらいもなく返した。
「そんなことを訊いてどうする」
向聖は聖書を朗読する時のように静かに言う。
「それについては答えは決まっている。「彼は潔白だよ。」」
彼は聖也君を叱らない。聖也君のすることを、すべて無条件で受け入れた。
「彼は私の信仰だから」
向聖にとって、聖也君は「正」で「聖」なのだ。彼らの信仰で神が人々に与えるように、向聖は聖也君に何の見返りも求めず愛を注いだ。
彼は聖也君がどんな罪を犯したとしても微笑んで許すだろう。そして庇う。向聖は、法よりも信仰を取る。
「それに君の家族の事件当時、聖也君は正子ちゃんと同じ八歳だ。そんな子どもが痕跡も残さずに次々と殺人ができるのか?」
犯人が物であるということは俺の憶測に留まっている。だから向聖の質問に対する答えを、まだ俺は持っていない。
結局接見はそのまま進展せず、向聖は聖書を大切そうに抱えて去って行った。
向聖の初公判は三日後に迫っていた。
「忙しい時期ですのに、申し訳ない」
「いえ、ずっと働きづめでしたから、一日くらいゆっくりなさってください」
みことさんが明日一日休みを取りたいというので、俺は気安く応じた。
彼女だって弟を失って辛かったはずなのに、一日も休まずに検察事務官の仕事をしていてくれたのだ。気弱になった俺を時に叱責しながら、一緒にがんばってきてくれた。
いつも俺が仕事を終えるまで付き合ってくれるみことさんがいないのは少し寂しかったが、俺はみことさんが先に帰った後も仕事をしていった。
俺は寒さに肩をすぼめながら街を歩く。そういえばクリスマスは向聖の初公判の翌日だと思いながら。
時刻は十二時を回ろうとしていた。
自宅のアパートで遅い夕食を取って風呂に入り、俺は床につこうとしていた。
インターホンが鳴って、俺はこんな時間に誰だろうと戸口へ向かう。
「はい」
だいぶ建てつけの悪い玄関の扉を開いた瞬間だった。
ふわっと俺に柔らかいものが巻き付く感触があった。
「……み、みことさん?」
腕を回して、みことさんが俺を抱きしめていた。俺は何が起こったのかわからず、その場で立ち竦む。
俺はしばらく言葉を忘れていた。みことさんも何も言わなかった。
「あの、中に入りませんか」
ようやく俺が言葉を取り戻した時、同時に思い出したことがある。
「ちゃんと話しましょう。俺はあなたに伝えたいことがあるんです」
殺人事件でうやむやになっていたが、俺はみことさんと一度話さなければいけないと思っていたのだ。
「みことさんにとって一番大事なのは息子さんだとわかってます。でも、俺はあなたが」
ふいにみことさんが体を離して俺を見上げた。
「駄目ですよ、それを言っちゃ」
涼やかで綺麗な目は、闇の中で少し濡れているような気がした。
「あなたは私の一番にはなれません。私だって、あなたが一番大事なのは娘さんだとわかってます」
笑って、みことさんは俺の前に立つ。
「今度こそ、これですべて忘れましょう。あなたは検事、私はその担当事務官」
言葉に迷った俺に、みことさんはそっと告げた。
「おやすみなさい。貴正さん」
それは俺が今まで聞いた中で、一番優しい声だった。
翌日、俺は裁判所から地検に帰る途中で少し時間があったので、みことさんの家に立ち寄った。
一晩考えて、俺は自分の気持ちを整理した。
本人が忘れようと言っているのだから、今更俺が掘り返してはいけないのだとわかっている。弟の死で落ち込んでいる彼女に、そういう話をすべき時ではないということも。
それでもちゃんと言わなければいけないと思った。俺と付き合ってほしい……よければ結婚してほしいと。
妻を忘れたわけじゃない。正子のことが今でも心の大半を占めている。仕事でも頼りない検事かもしれない。けれど、彼女が好きであることは間違いないと気づいた。
みことさんは不在だった。俺は少し考えて、近所にある海藤の家に足を向ける。
「あ、検事のおじさん。こんにちは」
ちょうど遊びに行くところだったのだろうか。みことさんの息子の純君が家から飛び出て来た。
母親に似て怜悧な顔立ちをしている純君は、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは。お母さんはいる?」
「お母さんは今日手術だよ」
「え?」
病気という話など聞いていなかったと、俺は眉を寄せる。
「夜には帰ってくるんだって。ええっと……八代岬、産婦人科病院?」
俺はその名前に聞き覚えがあったので、さっと顔色を変えた。
「おじさん?」
踵を返して走りだす。頭にのしかかる、嫌な予感につぶされそうになりながら。
純君の言った病院は、仕事で担当したことがある都内の病院だ。
……堕胎専門の産婦人科だ。
タクシーをつかまえて、職場とは反対の方向に向かう。途中から渋滞に巻き込まれたので、俺はタクシーを下りて急いだ。
小雨の降る昼下がりだった。ささやかな雨なのに、冬の空気と合わさると凍るような冷たさだった。
そういえば昨日も小雨が降っていた。この冷たさの中をみことさんは俺の家まで来たのかと思うと、俺はまぎれもない後悔を感じる。
病院まであとは直進だと思って角を曲がったところで、俺は足を止めた。
「え……」
道路にはテープが張られて封鎖されていた。見張りの警官が立っている前に、野次馬が人波を作っている。
「何があったんですか?」
近くの人をつかまえて尋ねると、主婦らしい壮年の女性は答えた。
「大量殺人事件らしいんだよ。でも犯人とか凶器が全然わからなくてね。これも正義の刃事件じゃないかって警官が話してるのを聞いたよ」
「大量……殺人?」
「うん」
女性は病院を見上げて何気なく言う。
「入院中の患者さんやお医者さんに看護師さん、ええと十三人だったかな……全員殺されたそうだよ」
彼女の言葉を、俺は聞き入れることを拒絶した。
「あ、氷牙さん」
無言でテープの前まで来ると、馴染みの警官が俺をみつける。
「もう連絡がいきましたか。現場を見ます?」
俺は頷いて病院内に入る。
俺の頭の中はみことさんのことでいっぱいだった。人の命はどれも尊いはずなのに、今の俺は被害者の中にみことさんが入っていないことだけを願っていた。
彼女が入院したのはこの病院でないとか、もう退院したとか、偶然外出していたとか。そういう可能性などいくらでもあると心で言い聞かせていた。
病院内は血の匂いで満ちていた。消毒液の匂いすらかき消す、濃厚な大量の鉄の匂いだ。
あちこちに青いシートがかぶせられている死体がまだ残っている。警官たちは写真を撮ったり指紋を取ったりしていた。
俺は入院中の患者の個室が三つ並んでいる場所まで来ると、その名前のプレートを確認する。
一つ目、二つ目を通り過ぎて、三つ目。
「海藤みこと」のプレートを見てもまだ俺はみことさんの無事を信じていた。
病室の中のベッドには青いシートが被せられていた。俺は爆発しそうな動悸を感じながらベッドに歩み寄って、シートの顔の部分をめくる。
みことさんは眠っているようにしか見えなかった。静かな表情で目を閉じているだけだった。
「まだ麻酔が効いていて眠っていたところを刺されたようです」
シートをさらにめくってその胸に刺殺の跡をみつけても、なお俺は彼女が生きていると思った。
「氷牙さん! 死体に触らないでください!」
「……死体?」
触れかけた俺を制した警官に、俺は声を荒げる。
「昨日まで一緒に……仕事をしてたのに?」
俺は手を震わせながら握りしめる。
「こんな、馬鹿な、ことが」
――子どもじゃないんですからやめなさい。私たちは泣いたって何も解決しないんですよ。
まだ検事になりたての頃に仕事でとんでもない失敗をして、俺は隠れて泣いた。その時に、みことさんが俺をみつけてくれた。
ぽんと俺の頭を叩いてくれた、あの優しい手が記憶に蘇る。
――今度は大丈夫。あなたが失敗しないように私が見ていてあげます。
もう泣かなくていいんですよと言った声を、昨日のように覚えている。
「氷牙、被害者の遺品だ。汚すなよ」
壮年の刑事が俺に手袋を渡して、ついで日記帳らしき本を差し出す。
俺は手袋をはめて、慎重にページを開く。丁寧で綺麗な字は、確かにみことさんの字だった。
前日、つまり昨日の日付で最後の日記が記されていた。
『明日、手術を受ける。私は子どもを一人殺すことになる』
みことさんの文には緊張感が漂っていた。
『とても怖い。私は彼と子どもを育てることはできないから決めたが、本当にこれでよかったのか。何度考えても答えは出ない』
昨日の夜、俺に会いに来た後に書いたのだろうか。
『命の代償は、何で払えばいいのだろう。生き物にとって唯一のそれを奪うためには、やはりたった一つの命でしか償えないのではないだろうか』
震える筆跡で、みことさんは記す。
『みっともない。殺人事件も仕事で数多く扱ったのに、私は自分が人を殺す側になって、悲しいよりひたすら怖いのだ』
俺は文章を一字も見逃さないように、目をこらして読む。
みことさんは決意のように次の文を記す。
『何としても刃を止めなければいけない。でもおそらく人を殺す私には、もうその資格がない』
最後は、俺へのメッセージだった。
『貴正さん。被害者と、社会と、そして犯人を救ってください』
俺は目を固く閉じて唇を噛む。
みことさんに子どもを殺させたのは俺だ。俺のせいなんだと、瞼の裏がたまらなく熱くなる。
すぐにでも溢れてしまいそうな涙を、俺は目を閉じたままこらえる。
――腑抜けてる時間があると思ってるんですか。
俺の中を、みことさんの言葉が通っていく。
――最後の一人になっても犯人を見つけ出して、裁きにかけるのが私たちの仕事です。
俺は検事であり続けると決めたのだ。救える命がある間は、決して権力の刃を手放さないとみことさんに約束した。
「現場に外部の者が入り込まないよう、痕跡等が消えないようにしてください」
目を開いて、俺は警官たちに告げる。
「事件の前後に病院内に入った者に注意してください。婦人科なら出入りはそれほど多くないはずです。受付記録にも残っているでしょう」
絶対に犯人を逃さない。誰を失っても、最後の一人になっても、俺は犯人を探して裁きにかける。
俺は静かに礼をして、みことさんの病室から出ていった。
翌日、俺は警察署の刃対策本部部長に呼ばれていった。
担当の警官たちは横で写真をテーブルいっぱいに広げて話している。
「すごい美人だな。女優みたいだ」
「誰だよ、刃がカルト教団の信者だなんて言ったの」
「足細いなぁ」
およそ捜査らしくない話をしているのを聞いて、警部から叱責の声が飛ぶ。
「おい、お前ら。そいつと決まったわけじゃないだろうが。しっかり調べろ」
「は、はい!」
そそくさと作業に戻る彼らを、俺は不思議に思いながら見送った。
「氷牙、お前に確認してもらいたいものがあるんだ」
部長が俺に示したのは、一つのビデオテープだった。
「産婦人科事件で事件の前後に出入りした人間が監視カメラに映っていた。人数が少ないから、俺たちの方で一人一人調べているが」
産婦人科だからか、出入りしているのは全員女性だった。
「ここだ」
ビデオを早送りして、部長は一つの時点で止めた。
「見ての通り遠目だが、お前、彼女に覚えはないか?」
白黒画像の中、玄関から入ってくる一人の少女がいた。
年齢はおそらく十代後半ほどで、きれいな長い髪を肩に流していた。シンプルなコートを羽織った上にマフラーを巻いている。格好としては地味だが、そのスタイルはモデルのように完璧に整えられていた。
「……え?」
一瞬映った見覚えのある顔立ちに、俺は思わずボタンを止める。
もう一度ビデオを巻き戻して同じ時点を繰り返す。
サングラスをかけてはいるが、迫力のある華やかな美貌の少女だった
……その顔立ちが、俺の記憶に残る正子と重なった。
信じられない思いで何度もビデオを再生していた俺に、部長がICレコーダーを示す。
「それから、匿名でこんな記録が送られてきた」
部長は再生スイッチを押す。
『そうね。あなたの母親は私が殺したようなものかもね』
そこから山根の興奮した声が流れてきた。
『でも本当に殺したかったのはあなたよ。貴正はあなたが一番大事だって、何度も言って。あなたなんか、あなたなんか……!』
愛理は我を失ったように声を荒げる。
何かを振り回す気配がしたが、やがて録音が途切れた。
「これは時刻から見て、山根の死亡する直前に録られたと見られてる。相手の声は聞こえないが」
俺は山根の言葉を繰り返し頭の中で再生して、呟く。
「あなたの母親、貴正はあなたが一番大事?」
それは、と俺は呆然としながらたった一人を想う。
俺は懐から正子の写真を取り出してみつめる。
八歳の正子は、今日も元気いっぱいに笑っていた。