小さい頃のことなんて、ぼんやりとしか覚えていない。思い出そうとしても、よぎるのはアルバムに収められた大人の視点ばかりだ。
バレリーナになるって言ったらしい。
ケーキ屋になるって言ったらしい。
ブルーホークになるって言ったらしい。
叔父と結婚するって言ったらしい。
懐かしいと、みんな度々口にするけれど、私は全く覚えていない。
君も、今日を忘れるのかな。
その小さな頭で、たくさんたくさん考えたこと、全部こぼれていってしまうのかな。
その大きな目で、たくさんたくさん見つけたもの、全部見えなくなってしまうのかな。
それを寂しいと思うから、大人は話したがるのかな。
***
風が、冷たさをほほに吹きつけた。交差点に立っていた、10代半ばの少女が、コートの上から自身を抱き締めて体を縮める。なかなか青に変わってくれない信号をにらみながら、マフラーを鼻先まで引き上げる。片手に紙袋がなければ、手をすり合わせていたかもしれない。髪の合間からのぞいている耳が赤くなっている。
信号に浮かぶシルエットがようやく歩き出したのを見て、少女も白と黒のしま模様へ躍り出た。この道路を越えれば、もう少しだ。
かわいい顔を思い出して、足取りが軽くなる。
少女の家と母の実家との距離は、電車で二駅。普段から頻繁に遊びに行っているが、毎年正月は親子三人で泊まりに行っている。祖父の人徳か、年始に客の多い家なので、正月の準備を母が手伝うためでもあった。
クリスマス後、ツリーを片付けるついでに大掃除を仕上げ、終わり次第母子で実家に移る。父は仕事を終えて合流。というのが、毎年の恒例である。
しかし、今年はちょっとしたアクシデントが起きた。転んだ拍子に祖母が腕を痛めてしまったのだ。幸い大事には至らなかったが、今年は祖母にご自愛いただこう、ということで少女、咲耶花が実家の大掃除に参加することになった。
先週の土日にも少し手伝って、高校が冬休みに入った今日、再び向かっている。
母の実家は、祖父が営んでいる自転車屋と隣接していて、叔父もそこで働いている。パンク修理もメンテナンスも面倒を見てくれる、町の自転車屋さん。近所の中学生は、通学用の自転車をここで買う。
最寄り駅から向かうと店の前を通る。あいさつがてら、咲耶花は中をのぞき込んだ。
休暇か休憩か、祖父の姿はない。奥の展示の方に大学生くらいの男性がいて、その人を案内していた叔父が、咲耶花に気がついた。大きな手をひらっと振る。咲耶花も振り返した。
道を曲がって、庭に入る。ジャリジャリ玉砂利を踏んで玄関へ。チャイムを鳴らすとすぐに叔母が出てきた。掃除の途中だったようで、いつも下ろしている髪を後ろでまとめている。
「サヤカちゃん、いらっしゃい。」
「お邪魔します叔母さん。これ、お父さんから。」
「いつものね。お義父さんが喜ぶわ。」
紙袋を渡すと、さっそく祖父に見せに行くのか、にこにこしながら叔母が廊下の奥に向かった。咲耶花は手洗いうがいのため洗面所に寄ると、手を拭くのもそこそこに急いで叔母の背を追った。
天気が良いからだろう、外の光がぼんやりと部屋を渡って、廊下に障子の影を落としている。その影を叔母が踏むか踏まないか、という瞬間、パシンっと強い音をたてて障子が開いた。障子を押さえる手だけでなく、足も肩幅に開いた大の字で立っていたのは、7歳になったばかりの少年だった。
「こら、ミツキ!」
その姿を認めて、叔母が声を飛ばす。丸みのある幼い顔が上がって、大きなつり目がキッと叔母をにらんだ。その目が、後ろに咲耶花を見つけて見開かれる。
咲耶花は、少年、魅月へひらひらと手を振った。
いつもの彼なら、ぱっと顔を輝かせて駆け寄って来てくれる。昨日もらったクリスマスプレゼントの報告もしてくれるだろう。いつもなら。
彼は、きゅっと唇を引き結ぶと顔を伏せた。叔母を突き飛ばすようにして二人とすれ違い、逃げて行ってしまう。どたどたと乱暴に階段を上って行く音がここまで響く。
「え……。」
咲耶花はぽかんとその小さな背を見送った。叔母も驚いたようで、目をぱちぱちと瞬かせている。はっと、我に返って部屋の中をのぞき込んだ。
「お義父さん、どうしたんですか? ミツキ、何かしました?」
畳敷きの部屋の中、テレビの前で祖父があぐらをかいていた。座布団が一つテレビ台にぶつかって曲がっている。画面には、少し前にやっていた戦隊ヒーローが映っている。祖父がリモコンを取ると、合体ロボがポーズを取ったまま停止し、厳つい刑事が顔をしかめている絵に変わった。祖父はポリポリとほほをかいている。
「いやぁ、テレビ見ながら話してただけなんだが。急に怒りだしてなぁ。」
「おじいちゃん、また先の話しちゃったんじゃないの?」
「しとらん。これ、一度ミツキが見とったやつだぞ。」
弁明してから咲耶花に気がつき、祖父がぱっと笑った。手招きする。
「おお、サヤカ。せっかく来たのに帰りおって。じじい不幸者め。」
「学校まだあったんだもん。仕方ないじゃん。」
「俺やミツキより学校が大事なのか。だからミツキが怒ったんだ。」
「ミツキは、今おじいちゃんが怒らせたんでしょ。」
咲耶花は座布団を拾い上げた。孫その2にフラれた祖父を慰めるため、膨れながらも隣に座る。何かあったかいもの作ってきますね、と叔母が台所へ向かった。
***
深見咲耶花は、母方の祖父母の初孫で、10年間一族の末っ子だった。
母の弟である叔父は、物心ついた時からずっと咲耶花の”お兄ちゃん”だった。膝に乗せてもらう権利も、肩車してもらう権利も、自分だけのものだと思い込んでいた。
だから、赤ちゃんのお父さんになってしまった時はとてもショックだった。しかも、初めて会ったイトコは、何だかよく分からない生き物だった。頭が小さくて、それよりもっと体が小さくて、赤くってシワシワしていた。
赤ちゃんって、もっとふっくらしてるんじゃないの? これ本当に人間?
困惑を通り過ぎておびえる咲耶花を置いて、大人達は魅月を囲んで笑っていた。
次に会った時、魅月はもちもちふっくらに進化していた。「赤ちゃんだ……。」と当たり前のことをつぶやくと、ツボにはまったらしく、父が涙が出るほど笑っていた。
ぷにぷにでかわいくなったけれど、それでも咲耶花は魅月が嫌いだった。叔父も叔母も、赤ちゃんのものになってしまった。大好きだった祖父母の家にいても、自分がみんなの端っこに除けられてしまったような心地がした。
けれど、魅月が歩き始めると、そんな気持ちはどこかに行ってしまった。家族総出のお出掛けでは、咲耶花がいつも魅月の手を引いた。自分より高い体温に、一人っ子だった自分にも弟が出来たのだと、うれしくなった。
咲耶花が魅月を構うほど、彼も咲耶花を好いてくれた。
咲耶花が座っていると、自分で膝に乗り上げた。お煎餅をあげると、咲耶花自身の真似なのか、口に押し込もうとしてきた。
言葉を覚えると、あれがイヤ、これがイヤと繰り返すようになった。服を選ぶのも、靴を履くのも、自分でやりたがるようになって、大人の手から逃げた。それでも、出掛ける時に咲耶花が手を差し出すと、ちゃんと握り返してくれた。
ある二月の夜、叔母から電話がかかってきた。叔母はすぐに魅月と替わった。彼の第一声は「チョコ!」だった。行ったり来たりする話をまとめると、咲耶花は魅月にチョコレートを渡さないといけないのだ、ということだった。幼稚園でバレンタインデーの存在を知り、いてもたってもいられなくなったらしい。
中学卒業と同時に、咲耶花の友人に彼氏が出来た。話題の半分くらいが彼氏のことになったうえに、遊ぶ頻度が減った。単純な寂しさと、置いてけぼりにされたような悔しさがあった。居間の畳に懐いてぐだぐだ愚痴っていると、小さな手が頭をなでてくれた。「オレがずっと、あそんでやる。」と男らしい宣言を頂いたので、公園に繰り出した。
魅月は牛乳が苦手だった。ある週末、夕食をごちそうになった後、咲耶花が魅月とくつろいでいると、テレビで歌番組が始まった。デビューしたばかりのアイドルがバク転を披露している。咲耶花はその迫力に驚いた。「あの人、脚が長くてかっこいいね。」次の日から、魅月は頑張って牛乳を飲むようになっていた。
そんな素直でかわいい魅月が。魅月が自分を無視して逃げて行った。
先程は、いったい何事かという衝撃の方が強かった。改めて思い返すと、急に心にダメージが入った。
手に力が入らなくなって、握っていた新聞紙が、ずりぃーっと窓ガラスを滑った。いやいや、と頭を振り、力を込めて窓を磨く。
大丈夫。祖父とケンカして虫の居所が悪かっただけだ。自分だって小学生の頃は、友達とケンカをすると両親の前でもぶすくれていた。
だから、クールタイムを挟めば、魅月はいつも通りのはずだ。今は任務を完遂するのだ。
***