近所の土手で桜が咲いた。クラス替え直後は以前と変わらない生活だった。暖かくなる気候に逆らうように、凍雨の胸は何故だか冷えていった。席替えの後、同じ本を読んでいたことをきっかけに、後ろの席の前島と親しくなった。いつの間にか同じ班の矢中も話に混じっていた。
 すっかり寒さを忘れられたと思った頃に、また桜が咲いて、一陣の冷たい風が胸を抜けた。

 三回目の桜が咲いた。凍雨は中学生になった。
 二年生に、新任の若い教師がいることは知っていた。入学式のその日に、前島が兄から聞いたのだと話していたからだ。けれど、ほとんど接点のない教師のことなど、お互い興味が薄く、慌ただしさの波に飲まれた。
 だから、四月の半ば、生活委員の「あいさつ運動」とやらで、あののん気な顔を見た時は驚いた。くりくりした大きな目も、へにゃへにゃした笑みもあの頃のまま。下ろしていたクセのある髪が、後ろでまとめられていることだけが違った。
 沙穂は凍雨へ向けてにこりと笑みを浮かべた。「おはようございます。」と、そう声をかけた。
 そして、凍雨の後ろにいた女子生徒の一団にも同じ笑みを向けた。一団は二年生だったのだろう、「沙穂ちゃん、おはよう!」と元気な声がかかる。

「先生でしょう?」

 本人は低く注意したつもりの声は、迫力に乏しく、「沙穂ちゃんせんせーい!」と楽しげな声が返る。
 とぼとぼと下駄箱に着いた時、もう驚きは抜けていた。
 凍雨はじっと自身の爪先を見つめた。
 グラグラと何かが煮立っている。胸の内で、グラグラ、グラグラと。
 何で、こんな所にいるんだ。何で、普通に笑っているんだ。
 ああ、張り倒してやりたい。
 そうしたら、このムカムカも、イライラも、すっきりするのではないだろうか。

 一生徒が一教師を張り倒したりしたら、親を呼ばれて指導を受けることは想像に難くないので、凍雨はその衝動を忘れることにした。
 沙穂を視界に入れると、また胸が煮えてくるので、見ないように気をつけている。声を聞くとムカムカするので、すぐに遠ざかるようにしている。
 それなのに。

 同じクラスの外口と仲良くなった。生活委員に入った外口は、副顧問の沙穂を気に入ったらしく、矢中と一緒に懐いて回るようになった。
 のん気な顔が三つも並ぶと、ムカムカも膨れてくる。はしゃぐ声二つと困っている声一つに、胸の内が噴きこぼれそうになる。
 一度だけ、矢中を後ろからど突いた。気持ちは晴れなかったし、キャンキャン吠えられて煩わしかった。

 ***

 コンビニに寄りたいと、階段を先に降りる矢中が言った。後田がうなずく。凍雨も否はないので口を挟まない。

「かふぇおーれっかふぇおーれっ。」

 機嫌よく歌いながら、矢中がたんたんっと段を跳ばして降りていく。一つ下の階に着いた所で、きゅっと止まった。

「お。沙穂ちゃーん!」

 ぱっと顔を輝かせた矢中とは反対に、凍雨はぐっと顔をしかめた。しかし、矢中はすぐにションボリと肩を落とした。凍雨と後田が矢中に追いついて並ぶ。
 いつものように駆け出していかない矢中に、後田が首をかしげた。

「どうした?」
「お姉様方、いっぱいー。」

 見れば、教室を出たすぐの所で、沙穂が女子生徒に囲まれて眉を八の字にしていた。二年生のグループだ。外口同様に沙穂を気に入っていて、よくああしておもちゃにしている。
 今日の標的はそのクセ毛であるらしく、コームを持った一人と、ヘアピンを持った一人が沙穂に迫っている。
 たかが一年。されど一年。中学生には大きな差である。しかも、異性の群。あそこに突っ込んでいく勇気は矢中にはないらしく、「ちぇー。」と唇をとがらせている。階段を降りていく。後田も矢中の後に続いた。
 苦笑を浮かべる沙穂が、手にしていた教材を盾にして逃げようとしている。しかし、後から少女の一人がその腰に抱きついた。沙穂はそれだけで動けなくなる。情けない悲鳴が、にぎやかな声に遮られる。

「橋場?」

 後田の声に振り返る。階段の中程に立ち止まって、後田がこちらを見上げていた。もう踊り場を越えたのか、矢中の姿は見えない。知らない男子生徒が二人、上の階から降りて来て、後田の横を通り過ぎた。
 階段と廊下の境に自分が立ち止まっていたことに、凍雨はようやく気がついた。
 再び後田が口を開く。

「どうしたんだ? 先生に何か用か?」
「ないよ。」

 意識するより早く言葉が滑り出た。
 そう。ない。ないはずだ。
 まだ不思議そうにしている後田の横を早足に過ぎる。凍雨は努めてその目も廊下も振り返らなかった。
 用なんてない。今更話すことなんて何もない。
 こっちから呼びかけてなんて、やらない。

 ***

 窓から見える空が暗く灰色によどんできたから、嫌な予感はしていた。降り注ぐ銀線が、すでに作った水たまりでバチャバチャと弾けている。
 昇降口の軒下にたたずんだ凍雨は、雨雲に沈んだように暗い校庭を眺めてため息をついた。午前中は晴れていたなんて、自分の記憶の方を疑いたくなる。
 だが、その証拠に傘がない。持って来ていない。置き傘は元々していない。凍雨と同じ目にあった者は少なくないようで、いつもは数本置いてある貸し傘も今はない。
 日直だからと、担任が用を頼まなかったのなら、前島と一緒に帰ることが出来たのに。
 前島は雨の時季でなくともカバンに傘を入れている類の人間だ。ちなみに、矢中と外口は駄目だ。彼らは大雨の日に走り回る類の人間だ。

 一か八か、後田が校舎に残っていないか、確認しようと凍雨は下駄箱に引き返した。上がらずに、すのこを挟んで背伸びしながら後田のスニーカーを探す。出席番号を覚えていないので、右上から順番に見ていった。
 キュッキュッと廊下を踏みしめる音が近づいてくる。

「凍雨くん?」

 棚を追っていた目が瞬く。
 女の声だった。凍雨を下の名前で呼ぶ女性は学校にいない。しかし、凍雨を驚かせたのはその違和感ではなかった。
 その声が、遠く記憶を揺さぶる、甘く柔らかい声だったからだ。
 彼女が廊下からこちらへ入ってきたようで、靴音が変わる。

「どうしたの? 早く帰った方が良いよ。雨、もっと強くなっちゃうって。」

 声が、すぐ横まで近づいてきた。
 凍雨はぐっと唇をかみ締めた。振り返る。立っていたのは沙穂だ。肌寒いのか、カーディガンの前をかき合わせている。段差の分、リーチがあるはずなのに、凍雨と目線が並んでいる。
 沙穂がいる。目の前に。あの頃と変わらないくりっと丸い目で、自分を見ている。
 どうしてここに。どうして今更。
 どうしてと、そればかりが頭を巡る。その中の一つがぽろりとこぼれた。

「どうして、名前……。」
「ん? あー、外口くんがそう呼んでたから。」

 いつのことだろう。沙穂の前で名前を呼ばれた記憶が凍雨にはない。
 沙穂の視線が、凍雨の手元と傘立てにチラッと走る。凍雨の目へ戻って来た。

「傘、ないの?」
「……はい。」

 何となく気まずくて、凍雨は斜めに視線を逃がした。視界の端では、沙穂が口元に手を当てて何やら考え込んでいる。やがて、ふいっと顔を上げた。

「先生の傘で良かったら、貸してあげる。」

――これ返さなくて良いから!

 目の前の彼女は微笑んでいるのに。焦ったようなあの声がよみがえるのは、差し出される彼女の手が変わらないからだ。
 子供が雨にぬれるのは可哀想だと、そう。
 受け取る凍雨の心は、あの頃とこんなにも違うのに。
 凍雨はふいっと顔を背けた。
 グラグラと胸が煮えている。どうして、なんでと沙穂を責めている。
 何一つ口に出来ない凍雨を責めている。


 今日も沙穂は来ない。
 抱いている膝に顔を押しつけて、目からあふれそうになるものを押さえ込む。

「バカ。サホの、バカ。」

 今更名前を口にしたって、もうあの人は振り返ってくれない。届かない。
 ああ、どうして。一度くらい名前を呼ばなかったんだろう。
 どうして。名前を教えてあげなかったんだろう。
 どうして。ちゃんとお別れが言えなかったんだろう。
 きっと、沙穂は忘れてしまう。名前も知らない子供のことなんて。きっとすぐに。


「あの……。」

 先程まで真っ直ぐに飛んできていた沙穂の声が、力なく沈む。

「公園の外で話しかけたから、怒ってるの?」
「え?」

 消え入りそうな声だった。それでも、雨音にもかき消されずに確かに聞こえた。思わず沙穂を見る。
 振り返った凍雨に、沙穂はビクッと肩を揺らした。本人としては、誰の耳にも届けるつもりのない独り言だったのかもしれない。口元を押さえている。

「今の……。」
「ご、ごめんね。何でもないのっ。傘持ってくるね!」

 きゅっと沙穂がきびすを返す。ふるんっとおダンゴが揺れる。
 凍雨は逃げていくカーディガンの裾をつかんだ。びんっと布地が張って、沙穂が立ち止まる。
 おそるおそる、といった様子で振り返る彼女を、凍雨はぎっとにらんだ。

「僕だって、分かってたの?」

 こくり。沙穂がうなずく。

「いつから?」
「……四月に、朝見かけて。」

 あいさつ運動の時か。それより前か。どちらにしろ、あの時点で凍雨のことを分かっていたのか。
 カーディガンをつかんだままの手に力がこもる。

「それで? 僕が公園の外で話しかけるなって言ったから、律儀に黙ってたの?」
「うん。」
「バカじゃないの。」
「だって、悲鳴あげられたりしたら、今の方が大惨事だよ!?」

 沙穂の方が悲鳴のような声をあげた。凍雨は空いている方の手で額を押さえた。何だか頭がぐるぐる回っているようで、頭痛がする。

「怒ってるよ。怒ってたに決まってるでしょ。」

 戻って来てたなら、何で教えてくれなかったの。
 やっと再会したのに、何でいつも通りなの。
 今年も、桜を一緒に見られなかったじゃない。
 どうして、他の子ばかり構うの。
 どうして、傍に来てくれないの。

 四月のあの日からたまっていた文句が、胸の内で暴れている。ぶつける相手は目の前にいる。でも、のどの奥でつかえて、一つも口にすることが出来ない。
 一番言いたい、ごめんねの一言も。
 代わりにこぼれたのは、弱々しい声だった。

「沙穂のバカ。」

 ひゅるひゅると力なく落下する声。それをすくい上げるように、沙穂は凍雨の手を両手で包んだ。へへっと笑う。大人にしては丸みのあるほほに、赤みが差す。

「私のことなんて、覚えてないと思ってた。」

 凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。額を押さえていた手を下にずらして、手の甲を目に押しつけた。

 ***

 四限の理科が終わって、ぞろぞろと科学室を出る。

「腹減ったー。」

 腹部をさすりながら、たかたかと外口が前を行く。凍雨は前島と並んでその後に続く。階段を駆け上がって、外口が「あ!」と声をあげた。廊下へ身を乗り出す。
 沙穂が女子生徒二人と何やら話している。一人がノートを開いて見せているので、授業に関することだろう。

「さーほーちゃーん!」

 外口が手を振り駆け出す。沙穂がこちらを振り返る。

 びんっ!
「ぐぇっ。」

 数歩行って、外口がのけ反った。自身の襟を引っ張りながら、凍雨を振り返る。その目には涙が浮かんでいる。

「何すんだよ凍雨!」

 凍雨はきょとりと目を瞬かせた。自分の手が、外口の襟をつかんでいた。
 ……いつの間に。
 横では前島が肩を揺らしている。女子生徒と分かれて、沙穂がこちらに駆けて来る。

「外口くん? 橋場くん? どうしたの?」

 くりっとした大きな目に見つめられて、凍雨は外口を放した。外口がけほっとむせる。沙穂は心配そうに眉を寄せて、その背をさすり始める。
 む。

「沙穂。」
「先生でしょ。先生。」

 沙穂が眉をきゅっとつり上げて、凍雨を見上げる。凍雨は、そのほほをぐにっと引っ張った。大きな目がくるりとさらに丸くなる。

「にゃにするの、ひゃしびゃくん!」
「あっはっはっはっ。急にどうしたの橋場。何したいのお前っ。」

 沙穂が非難の声をあげると、とうとう前島が腹を抱えて笑い出した。ここは階段なので、二人の声がよく響く。
 前島が何を笑っているのかよく分からないし、自分自身でも何がしたかったのかよく分からない。

「もうっ。何なの!」

 手を払った沙穂が、ほほをさすりながら凍雨をにらんでくる。それを見て、なぜか気分が晴れたので、凍雨的にはもう全部解決した。
 怒らせて気分が良いなんて、前島が言った通り、自分は沙穂が嫌いなのかもしれない。そういうことにしておこう。


 END