橋場一家がこの町に引っ越したのは、凍雨が小学四年生の冬のことだった。
 単純に父の仕事の都合だ。母は、四月まで凍雨と元の町に残りたいと訴えていたのだが、それはかなわず、中途半端な時期の転校となった。

 凍雨は、新しいクラスになじむことが出来なかった。
 最初の一週間はクラスメイトに囲まれることが多かったが、それがいけなかった。人見知りの嫌いがある凍雨は、大勢にわいわいと話しかけられることに驚いて、彼らを拒絶してしまったのだ。むっつりと黙り込んでしまう凍雨に、やがて誰も話しかけて来なくなった。
 凍雨は休み時間も放課後も、一人で過ごすことになったが、それ自体は大した問題ではなかった。凍雨は一人の時間が嫌いではなかったからだ。
 ただ、家に帰ると母が質問を重ねてくるのが辛かった。

「今日、何があった?」
「休み時間、何してた?」
「誰か、仲良しになれた子はいる?」

 以前は、こんなことを聞いては来なかった。

「べつになにも。」
「本よんでた。」
「とくには。」

 凍雨が答える度に、母の顔が悲しそうに曇った。
 凍雨は家に帰るのが嫌になった。家にいるのが嫌になった。
 ランドセルを自室に置いて、すぐ外へ飛び出すようになった。交わす言葉は減ったのに、”遊びに出る”凍雨を見て、母はうれしそうにしている。凍雨はますます家にいられなくなった。
 外でしたいこともないのに。
 待っている人もいないのに。

 ***

 凍雨はいつも公園にいた。自宅から小学校とは反対方向にある、小さな公園だ。滑り台と花壇くらいしかない。
 そこの滑り台の天辺に腰かけて、日が沈むのを待つ。大体は本を読んで時間を潰すのだが、雨の中に持ち出すわけにはいかず、降った日はぼんやりと雨雲を眺めて過ごす。

 それは、二月の半ばの雨の日のことだった。
 ぬれた鉄板に座るのは嫌なので、上にビニール袋を敷く。黒い傘を両手でしかと支えて、ぬれる木々を眺める。滑り台の天辺にこうして屋根を掛けると、まるでやぐらだ。そう思うと秘密基地のようで、凍雨の気持ちは浮上してくる。
 ぱしゃんと、軽い水音がした。枝から雫でも落ちたのかと、凍雨は気にもとめない。
 けれど、ジャリジャリとぬれた土を踏む音が近づいて来るのに気がつくと、身を強ばらせた。ぎゅうっと、傘の柄を握る手に力を込める。

「ねえ、君。」

 投げられたのは少女の声だった。クラスメイトのような甲高い声ではない。多分、凍雨よりいくらか年上だ。

「ねえってば。」

 大人になりきれていない甘い声が、もう一度飛んでくる。凍雨はふいっと首を反対方向に向けた。
 ジャリジャリ。砂を踏む音が真下まで迫る。

「ねえ、君。ここにずっといるよね? どうしたの? 誰か待ってるの?」

 問いを重ねる声に、悲しそうな母の顔を思い出す。自分を囲むクラスメイトの煩わしさを思い出す。
 凍雨はぐっと眉を寄せた。

「どこか具合が悪いの?」
「うるさい!」

 凍雨は立ち上がると、声の方へ思いきり傘を振った。滑り台を見上げて、傘を傾けていたその人は、まともにしぶきを浴びることになった。くりっとした大きな目がぎゅっと閉じる。

「わぶぶ。」

 その人が、傘を片手に預けて、もう一方の手の甲で顔を拭う。
 その隙に凍雨は走り出した。滑り台を駆け降りて、その勢いのまま公園を飛び出した。

 ぬれてぐずぐずになった靴、張り付いて生ぬるい靴下をぽいぽいと脱ぎ捨てる。母が困った顔でタオルを持ってきた。

「ずいぶん急いで帰ってきたのね。どうしたの? お友達とケンカした?」

 水たまりも気にせずに走り抜けたせいで、ほほにも泥が跳ねていた。それもタオルで拭われる。
 その間重なられる言葉に、凍雨の苛立ちが募っていく。
 凍雨は口をへの字に曲げて、自室に駆け込んだ。

 ***

 翌日、滑り台の上で本をめくっていた凍雨は、通りの足音を聞く度に顔を上げた。
 犬を連れた老人、買い物袋を提げた女性、カバンを元気に振っている学生が通り過ぎると、ほっと肩から力を抜いた。本へ視線を戻す。

 二日目、三日目と平和な日が続くと、凍雨は警戒を解いた。
 夢中で文字を追っていると、ぽつ、と紙面に染みが浮いた。あ、と思うと、またぽつり、と雫が落ちてきて、凍雨の首にもひやっとしたものが触れた。本を閉じて胸の下に抱え込む。きょろっと辺りを見ると、視線の先の地面に、ぽつぽつと黒い染みが出来ていく。
 雨だ。
 傘がない。帰らなくちゃ。
 そう思うと同時に、母の顔が頭を過ぎて動けなくなる。

 とりあえず、滑り台の下に行こう。立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、視界が赤く陰った。驚いて横を向くと、女が立っていた。
 公園の前を通る、セーラー服の少女達と同い年くらいだろうか。ぐっと背伸びをして、滑り台の下から凍雨へ赤い傘を差し掛けている。ふわふわとクセのある髪にぽつぽつと雫が落ちている。くりくりした目と、凍雨の目がぱちっと合って、よりまあるくなる。
 女はぱくぱくと口を開閉してから、ようやく声を発した。

「あのっそのっ、これ返さなくて良いから! カゼ引かないようにね!」

 女は凍雨へ傘を押しつけると、きびすを返して走り去った。振り回している手提げからは青々としたネギがのぞいていた。

 帰ってきた凍雨を見て、母はうれしそうに笑った。

「あら。その傘どうしたの?」

 バサバサと羽ばたかせて水気を切った赤い傘へ、凍雨は視線を落とした。

「……何だろう。」

 凍雨のつぶやきに、母は不思議そうに首をかしげた。

 ***

 凍雨は今日も滑り台の天辺に座っていた。
 空には薄く雲が掛かっているが、雨が降る気配はない。しかし、凍雨は本を持って来ていなかった。代わりに赤い傘を抱えている。
 じっと通りを見張っていた。
 本日二人目で女は現れた。
 曇り空のような灰青色のワンピースに、深緑のカーディガンを羽織っている。女はすいっと滑り台へ視線を投げて、ぴしりと固まった。凍雨が自分の方を見ているとは思わなかったのだろう。
 凍雨はいつかのように滑り台を駆け降りると、女の前へ立った。ずいっと傘を差し出す。

「あ、どうも。」

 女がおずおずと手を伸ばしてくる。その手が傘をつかんだのを見て、凍雨はぷいっと背を向けた。公園の中に戻る。

「ねえ。」

 女の声がかかる。凍雨は肩越しに振り返った。

「そこ、好きなの?」

 そことは、滑り台のことだろうか。公園のことだろうか。

「べつに。」

 答えると、女は眉を八の字にした。そのまま口を開かないので、凍雨はまたぷいと前を向いた。滑り台を坂の方から登る。
 天辺に着くと、女が滑り台の根元まで寄って来た。くりっと凍雨を見上げる。

「私も、ここにいて良いかなぁ?」

 凍雨は眉を寄せた。
 嫌だ。嫌だけど、ここは公園だ。

「すきにすれば。」

 女がにこりと笑う。

「ありがとう。」

 女は花壇に腰かけた。カーディガンのポケットからケータイを取り出して、ちゃっちゃっと操作してから、またしまう。その後は先程の凍雨のように、通りを眺めていた。
 女は、凍雨が帰るまでずっとそこにいた。

 ***

「私ね、沙穂っていうの。君は何くん?」

 公園に来て、滑り台に登る。この女がやって来る。花壇に腰かけてしばらくは静かにしているので、そのままにしていると、ぽつりぽつりと話し始める。それが煩わしくなったら帰る。そうした流れを何日か繰り返した。
 昨日から、沙穂は滑り台の階段に腰かけるようになった。

「もう三月なるのに、今日はすごく冷えるね。」

 沙穂が自分でしていたマフラーを外して、凍雨の首に巻こうとした。凍雨はそれを左手で払うと、もそもそと膝を抱えた。沙穂が苦笑して、マフラーを自身の膝に置く。

「今日みたいな日は、もっと暖かい格好して来るんだよ。滑り台のこの板だってさ、結構冷たいんだし。」

 階段に座り直そうとした沙穂が、「あ。」と小さく声をあげる。凍雨に向き直った。

「今日もさ、お名前教えてくれないの?」

 凍雨はぷいっとそっぽを向く。

「しらない人にはおしえない。」
「ううーん。いったい後何回会ったら、知人にランクアップ出来るんだ……。」

 沙穂はため息をついて、階段に足をそろえて今度こそ前を向いた。凍雨は顔を少しだけ浮かせて、その背をうかがった。ふわふわした髪が風を含んで揺れている。沙穂は上向いて、空の雲を追っていた。

「なまえなんて、どうしてしりたいの。」

 腕の中に吸い込まれるようなぼそぼそした声でも、彼女はちゃんと拾ってくれた。こちらに背を向けたまま、楽しそうな声だけ寄越す。

「名前を知らないと、公園の外で君を見かけても、呼び止められないでしょ。」
「ここ以外でそばによってきたら、ひめいあげてやる。」
「やめてー。ちびっこにそんなことされたら、社会的に死んじゃうー。」

 情けない声をあげてから、沙穂は、ああ、でも、とつけ足した。

「ここなら、寄ってっても許しくれるんだ?」

 からかうような声音に、凍雨はぐっと口をへの字に曲げた。ぐりぐりと自身の膝に顔を埋める。
 沙穂はなお笑った。歌うような軽やかな声で。

「なら、いいかな。名前、知らなくても。ここで、一緒にいさせてくれるなら。それでいいや。」

 沙穂はそれで話を切った。しばらくして、今日の雲の形がどう見えるか話し始めた。
 その日から、凍雨の名前を尋ねてこなくなった。

 ***

 沙穂は、ぽつりぽつりと、どうでも良いことばかり話す。

「そこの木にね、冬に赤い花が咲くんだけど、見たことある?」
「私が小さい頃って、外でも男の子達がカードゲームしてたんだけど、今の子はどうなのかな。」
「急にあったかくなったね。もう菜の花が咲いたんだって。」

 凍雨が返事をしなくてもお構いなしに、思いついたことから話す。凍雨が本からチラッと目を上げると、にこっと笑う。

「桜はいつ咲くのかな。一緒に見られると良いねぇ。」

 前は一日一冊読み終わったのに。
 読むスピードが落ちたのは、このおしゃべりのせいで気が散るからだ。
 凍雨は本に向き直ると、せっせっと目で文字を追った。

 ***

 昨日は終業式だった。
 春休み初日、凍雨は昼食を食べてから出掛けた。沙穂はもう公園で待っていた。
 けれど、その日の沙穂はじっと地面を見つめていて、凍雨となかなか目が合わなかった。「あのね、」と口を開くのに、そこで言葉を切って、しばらくして近所の犬の話など、どうでも良い話を続けた。帰る凍雨を見送る時、困ったように眉を八の字にしていた。
 次の日も、沙穂は先に来て待っていた。
 いつもと変わらず、取り留めがないことをぽつりぽつり話す。しばらく黙ってからふいに、

「私ね、遠くの町の大学に通ってるんだ。」

 分かるかな、と沙穂が告げた駅名は、県外のものだった。思わず、凍雨は「ウソでしょう?」とこぼした。

「キミは、もうずっとまえから ここにいるじゃない。」

 そう、初めて会ったのはもう一月近く前だ。
 凍雨の反応が面白かったのか、沙穂がクスクスと笑う。

「大学はね、春休みがとっても長いんだよ。だから、その間、家に帰って来てたの。」

 沙穂が体をずらして、凍雨に向き直る。くりっとした目が凍雨を見つめる。

「それでね、明日、学校の方へ戻るんだ。ここに来るのも、今日が最後。」

 急に、音が遠くなった気がした。

「今年から色々忙しくなるから、夏もあまり帰れそうにないんだよね。だから、しばらく会えないね。」

 風に揺れる木々のざわめきも、近所で鳴いている小型犬の声も聞こえなくなる。

「本当は、ギリギリまでこっちにいようと思ってたんだけど。お父さん達があっちの様子を見たいって……どうしたの?」

 途中で言葉を切って、沙穂が首をかしげる。足下に手をついて、凍雨の顔をのぞき込もうとする。
 まだチャイムも鳴っていないのに。まだまだ日は高いのに。凍雨の視界は暗くなっていく。胸の内がグラグラと煮立っている。

 ここにいたいって、言ったのに。
 一緒にいたいって、言ったのに。
 一緒に桜を見たいって、言ったのに。
 それなのに、遠くに行ってしまうのか。
 それなのに、僕を一人にするのか。

 凍雨は衝動のまま立ち上がった。その顔を追って沙穂の目が上向く。

「うそつき!」

 口を突いて出て来た四文字に、湧いて来る文句を全て込めてたたきつける。
 滑り台を駆け降りる。砂地を蹴って、地面を蹴って、公園を飛び出す。その背を、慌てた声が追いかけてきた。

「待って! ねえ!」

 アスファルトを蹴って、凍雨は走り続ける。遠く遠く。速く速く。あの優しい声を振り切って。

 凍雨が重い足取りで公園にやって来たのは、二日後のことだった。
 沙穂の姿はない。滑り台の終点に腰かけて、膝を抱いた。
 あの日言っていた通り、沙穂は来なかった。

 ***