一馬の両親は共働きで、仕事柄家を空けることも多かった。幼い一馬はよく隣の夫婦に預けられた。どういう関係なのか、母と学生時代からの知り合いだということしか一馬は知らない。
 一馬が高校生の頃に両親が別々に外国に行ってしまい、一人暮らし状態になると、朝食、夕食もお隣のお世話になるようになった。一年に1、2回帰ってくる両親も、空港から真っ直ぐお隣にやってくるのだから、飛野家にとって自宅はすでに寝室兼物置と化してきている。

 鈴が生まれたのは、一馬が小学生の時だ。第二の両親となっていたお隣夫婦に生まれたその子を、一馬はそれはもう可愛がった。自分はこの子の兄だと、この子は自分の妹だと、そう疑わなかった。膝に乗せて学校で習った歌を歌ってやった。散歩についていってベビーカーを押したがった。鈴が歩くようになると、出掛ける度に手をつないだ。

 ***

 小学生の頃は、昼間は誰もいない自宅ではなく、隣の奥さんが迎えてくれるお隣に真っ直ぐ帰ってランドセルも預けていた。中学生になれば、一人で家にいたって平気だし、どこへでも遊びの当てがある。それなのに一馬は、制服から着替えるためだけに自宅に寄り、お隣に向かった。
 チャイムを鳴らすと、内側から勢いよくドアが開いた。幼子がドアノブにぶら下がっている。伸びたクセ毛が今日は黄色いリボンでポニーテールにされていた。

「カズにぃっかえりーっ!」

 一馬はため息をつくと、鈴のほほを両側から捕まえてぐにっと引いた。柔らかくてよく伸びる。

「すーずー。誰か確かめないで開けちゃダメだろー?」

 鈴は不思議そうに目をぱちぱち瞬かせる。

「カズにぃだよ?」
「いやいや。」

 飼い主の帰りを察知する犬猫じゃあるまいし、足音や気配だけで相手が把握できる訳がない。

「とにかく、今度から俺だって分かるまでダメだ。分かったか?」
「うん?」
「俺の声が聞こえたら開けるんだ。分かったな?」
「うんっ。」

 念を押すと元気にうなずかれるが、通じている気がしない。一馬は鈴を抱き上げて家に上がる。

「スズねー、カズにぃわかるよ。ちがうひと、あけないよ。」

 マイペースな幼子は、脚をぷらぷら廊下を運搬されながらも、のんびりとおしゃべりを続ける。

「カズにぃ、だいすきなの。」

 一馬は鈴を抱き直して、リビングのドアを開ける。部屋の奥では鈴の母親が、掃除シートで床を磨いていた。ぺこりと頭を下げる一馬に、にこっと笑いかけてくれる。

「だからねー、カズにぃきたの、わかるよ。いちばん、おむかえするの!」

 ふふんっと、自慢気に胸を反らせて、鈴は一馬を見上げる。一馬は自分のほほが緩むのを感じた。

「一番にお出迎えできるのは、玄関でずっとカズ君待ってるからでしょう?」
「! いっちゃだめっ。」

 割り込んできた母の言葉に、鈴がぱっと顔を赤くした。掃除の手を止めて母親は「ごめんね。」と謝るが、その声も表情も楽し気だ。釣られて一馬も笑った。腕の中で鈴が暴れだした。危ないので降ろしてやると、駆けだしてソファの裏へと隠れた。
 宿題なんて、寝る前にやればいい。
 鈴が生まれる前と変わらず、友人と約束のない日はお隣にお邪魔した。むしろ、まだ一人では外遊びが出来ない鈴のために、毎日のように通った。

 ***

 中学二年生のある日、何となく席の近い男子数名で昼食を囲んだら、馬が合い、そのまま共に過ごすようになった。他の面子が遊びに出る中、妹分を優先するあまり、付き合いの悪い一馬を仲間外れにすることもなく、学校では小突き合って笑い合った。
 定期テストが近くなると、彼らはよく一馬の家に集まった。リビングのテーブルにそれぞれノートや教科書を広げるが、漫画やゲームを持ち込む者がいて、勉強は遅々として進まない。

 一馬はよくその場に鈴を呼んだ。どうせ皆グダグダしているのだから、幼子一人がおやつを食べていても問題あるまい。膝に乗っけた妹分の、チョコや砂糖に汚れた手とほほをかいがいしく拭いてやる一馬を、友人達は「シスコン」と呼んでからかった。
 皆、鈴に対して好意的だったが、一度だけ、帰り際に眉根を寄せてこう言われたことがある。

「お前って、何かいっつも子守りしてるよな。本当の兄貴でもねぇのに、お前に頼り過ぎじゃね。」

 一馬の親でもないのに、鈴の両親はいつも一馬の面倒を見てくれた。それに、そもそもの前提がおかしい。鈴の両親は、一度だって一馬に鈴を押しつけたことはない。勝手に兄貴だと気負って、一馬が鈴を構っているのだ。気負うという言い方も適切ではないだろう。ただ、「カズにぃ」とあの子に呼ばれるのが好きなのだ。
 カズにぃ、と自分の名が繰り返される。小さな手を伸ばして、一所懸命に駆けてくる。小さな体を迎えると、柔らかい熱がくっついてくる。まあるいほほを赤く染めて、きゃらきゃらと笑う。自分にたどり着けてうれしいと、抱き締められてうれしいと、全身で教えてくれる。

 その様子が可愛かった。真っ直ぐにぶつけられる「好き」が一馬の胸をくすぐった。

 ***

 一馬が高校に上がる頃には、鈴にも友達が出来ていて、母親に連れられて友達の家に行くことが増えた。公園で遊ぶ時なら、一馬が付き添うこともあった。
 一馬は園児の兄としては歳が離れている方だが、父親や先生よりは若い。ある日、友達の中で好奇心の強い子が、なじみのない年頃の一馬に興味を示して抱っこや肩車をねだった。すると、砂遊びしていたはずの鈴がスコップを放り出してすっ飛んで来た。

「カズにぃダメ! スズのカズにぃなの!」

 鈴と遊ぶことが減っていて少し寂しかったが、こうした鈴のヤキモチを見られるのは楽しかった。
 鈴が小学校に上がると、制限はあるものの一人で遊びに出られるようになって、一馬の子守りは完全に必要なくなってしまった。帰り道に一馬が公園を通り掛かると、イロオニやカクレンボの最中でも鈴が手を振ってくれるのはうれしいけれども。

「やっと自由になったんじゃん。なんでそんなに弱ってんだよ。」

 別々の高校に入った後も、友人達との付き合いは途切れず、体の空いた一馬は遊びの誘いに応じることが多くなった。妹分の近況を聞かれて、ため息混じりに話す一馬を友人達は不思議がる。
 自由って何だ。胸に穴が空いて、風通しが良くなることか。

 ***

 高校三年生の秋。クラスメイトの話を聞きながらコロッケパンをかじっていると、ケータイが鳴った。そういえば電源を切っておくのを忘れていた。続く音が鬱陶しい。今からでも切ろうと思ったら、内容だけでも確認したらどうだ、と話していた当人が勧めるので画面を見た。
 友人の一人から、週末にある地元の祭りの誘いだった。受験のストレスがたまっているのだろう、次々と参加表明されていく画面を見ながら、手早くメッセージを打つ。

――スズと行くから、パス。

 すかさず、人数分「シスコン」の四文字が送られてくる。うるさいケータイを今度こそ切って、一馬はそれをバッグの中に放り込んだ。
 去年は、鈴とその両親と一馬の四人で祭りに出掛けた。鈴の父親は一馬が小さい頃から射的が得意で、変わらぬ腕前に鈴は手をたたいてはしゃいでいた。しかし、今年は鈴と二人で行くことになっている。新しい浴衣を買ってもらったという鈴が、「デート」だと宣言していたからだ。

 当日の五時過ぎ、一馬が鈴を迎えに行くと、玄関で出迎えてくれた鈴の母は、心配そうに表情を曇らせていた。

「カズ君、ホントに良いの? やっぱり私も行こうか?」
「大丈夫っすよ。はぐれないよう、しっかり手をつなぎますから。」
「そうじゃなくてね、鈴と二人っきりじゃ、せっかくお友達に会っても一緒に遊べないでしょう?」

 思ってもみなかったことに、一馬は一瞬だけ目を見張った。思い返してみると、去年友人達とすれ違った時も、あっちに合流しても良いと言われたような。一馬はすぐに笑みを取り戻した。

「あいつらとはしゃぐより、俺はスズとゆっくり回る方が好きですから。」
「そう?」

 心配を上手く拭うことは出来なかった。鈴の母の顔は晴れない。それでも、これ以上言葉を重ねることは難しいと思ったのだろう、握りしめていた小さな財布を手渡してくれた。

「これ、好きに使ってくれて良いからね。」
「ありがとうございます。」

 落とさないように、鍵を付けているチェーンとつなぐ。

「ところで、スズは?」
「なんか、もじもじしちゃって。鈴ーっ。そろそろ出て来ないと置いてかれちゃうわよーっ。」

 置いて行く訳がない。口にせず、苦笑するに留める。
 慌てた足音をパタパタと響かせて、鈴がリビングから駆けて来る。白地に赤い丸が散った浴衣に、赤いふわふわした帯を締めている。帯は去年と同じもので、淡く色の抜けた端が鈴の跳ねるのに合わせて柔らかく揺れるのが、金魚のひれのようだった。

「もう。そんなに走ったら崩れちゃうでしょう?」

 そのまま土間に降りて下駄を履こうとした鈴を捕まえると、母親は浴衣を直し始める。
 一馬は、赤い丸に柄があるのを認めて、最初は水風船なのだと思った。しかし、それは白い梅の花が描かれた緋色の”鈴”だと一拍空けて気がついた。
 探したのか、たまたま見つけたのか、彼女の名前に合わせた柄。派手さはないけれど、赤が鮮やかに染めぬかれて美しい。大きな鈴がコロコロと転がって、周りにピンクやブルーの小さな花が散っている。
 妹分が元気に走り回っている姿が連想されて、一馬は笑みをこぼした。母親から解放された鈴が、きょとんと目を瞬かせて一馬を見上げている。

「よく似合ってる。」
「ほんとっ?」

 大きな目がぱぁっと光を散らす。うなずいてやると、まあるいほほを上気させて、きゃーっと声をあげた。花の形の髪飾りを避けて、頭をなでる。

「さ、行こう。」

 差し出した一馬の手を、小さな手がきゅっと握った。

 ***