ぐるりと季節は一巡し、中学生二年生の8月末、晃司からカフェのかき氷を食べようと誘われた。
果肉がふんだんに使われた桃のかき氷にソフトクリームも足してもらい、フルーツとミルクの甘みを夢中で味わう。食べ終わると内側から冷えた体に冷房の冷たさが染みるように感じたので、ミルクコーヒーを頼んだ。
中身が半分ほどになってもカップはまだあたたかった。それを両手に包みながら取り留めなく話していると、晃司が不意に声をあげた。危うく忘れるところだったとこぼし、横に置いたカバンの中からバレーボール大のグレーの包みを取り出す。
描かれているロゴは、人魚や海中をモチーフにした雑貨屋のものだ。友人達と行った時のことを以前晃司に話していた。
開けてみてと差し出され、慎重に外側のテープをはがす。包み紙をめくると、赤くて丸いものがふわころと転がり出てきた。ぴょこぴょこ飛び出した耳と、丸い婦人傘の様な形が特徴の、メンダコのぬいぐるみである。
「え。どうしたの、この子。」
「ロカの話聞いてたら気になってさ、見に行ってみたんだ。俺もかわいいなぁって思ったから、つい買っちゃった。もらってくれ。」
「えぇ……。」
イタズラっぽくほほ笑まれて、ぬいぐるみへ再度視線を落とす。つぶらな瞳がかわいい。
確かに、メンダコのぬいぐるみがかわいかった、と言った。しかし、あれはおねだりなどではなかったのだ。決して。信じて欲しい。
露華は包み紙ごとずいっと晃司の方へ押し出した。
「かわいいと思うなら、コージくんのお家に置いてあげたらいいじゃん。」
「それでもいいけど。ほら、ぬいぐるみだって、愛でられるならおっさんより女の子の方がうれしいと思うんだよ。」
「コージくんはまだおじさんじゃないと思うけど……。」
あと、優しい大人が大事にしてくれるなら、ぬいぐるみだって普通にうれしいと思う。
露華は眉を寄せてぬいぐるみと見つめ合った。
一度、欲しいと思った品である。しかも、人形は同じ商品でも個体によって顔が違うが、バッチリかわいい好みのお顔だ。くれると言われると抗いがたい。
と、晃司が手を伸ばしてぬいぐるみをそっとつかんだ。彼が手を揺らして、とことことメンダコが露華の方へ向かってくる。テーブルに投げ出していた左手にちょんっと触れた。つぶらな瞳が上向く。
数秒の間の後、露華はぎゅっとメンダコを抱きしめた。
「……今回はもらうけど。」
「うん。」
「もうダメだからね。コージくんにわがまま言うなって、お母さんに言われてるんだから。」
「別にわがまま言われてないけど。」
「もし、わたしが何か言っても、コージくん聞いちゃダメなんだからね。」
「無茶なこと言うなぁ。」
晃司は頬杖をついてクスクス笑った。露華はぬいぐるみを抱いたままジトッと彼をにらんだ。
これはもう、自分が気を引き締めねばならない。
露華はテーブル端に伏せてあったダークブラウンの細長いバインダーを引き寄せた。伝票だ。反対から晃司が手を伸ばす。
「俺が払うのに。」
「だめ。ホントに怒られちゃう。」
気がつくと、あれこれおごられているのはいつものことだが、今日は本当にまずい。ぬいぐるみを抱えて帰った上に、お茶まで晃司に金を出させたと知られれば、遊びに行くこと自体を禁止にされかねない。
自分の分の注文を確認し、財布の中身を数えて、そこで露華はうっと動きを止めた。ちらっと視線を上げれば、晃司は面白がるように笑っていた。
結局、露華が払ったのはかき氷代だけで、コーヒーの分は出してもらうことになった。
***
「コージくんって、わたしにお金使い過ぎなのでは?」
「今更どうしたの。」
二学期が始まって少し経った昼休みの教室、友人と向かい合って弁当を広げながら、露華はそう切り出した。友人のセイカは小さい頃からの仲良しで、晃司とも面識がある。セイカは冷たい声で返して、丸いおにぎりを一口かじった。梅干しがのぞく。
露華は意味もなく箸でプチトマトをつつく。
「だって、昨日ふと気がついちゃったんだもん。部屋のぬいぐるみも、今使ってるヘアアクセも、ほとんどコージくんが買ってくれたものなんだよね。」
「ついでに言うなら、アンタのその腹のぜい肉も晃司さんが育てたもんよ。」
「ぜい肉になってない! ちゃんと運動してる!」
「あらー? ほんとかしらー?」
ほほほっと笑いながらセイカは次のおにぎりを取り出す。露華はキッとにらんだ。
確かに最近体重が増えた気はするが、身長だって伸びているし成長期として問題はないはずだ。それに筋肉、そう筋肉だってついてきているはずだ。
「って、そんなことはどうでもいいの! なんかわたし、コージくんにものもらってばっかりなんだけど!?」
「普通の神経してれば、タダ飯が続いた時点で遠慮を覚えそうなものだけど。アンタすっかり餌付けされちゃってたのねぇ。」
「餌付けされてない!」
「はいはい。で、さすがにマズいと思い始めたのね。」
「うん。だから、わたしからも何かあげたいなーって思ってるんだけど、大人の人って何がうれしいんだろう……?」
もう中学二年生なのだ。ビーズのストラップやキットで作ったテディベアなどという、実用性のない自己満足の塊からは卒業したい。
「うーん。無難なのだとネクタイとか?」
「あー……。就職祝いでね、お母さんから援助もあったから、渡したんだけど……。」
「喜んでもらえなかったの?」
「お父さんがむせび泣いてた。」
「父の日も何かしてあげなさいよ。」
露華はため息をつく。
「わたしのお小遣いで買えるものって、そもそもコージくん自分で買えちゃうんだもん。絶対うれしいものが何かあればいいんだけどなー。」
***
数日後の晩、露華は夕食が終わっても自室に戻らずにリビングでテレビを見ていた。クイズ番組が流れているが、正直内容は頭に入ってきていない。クッションを抱いてソファの座面に懐いたまま考えているのは、もうずっと悩み続けている晃司へのプレゼントだ。
手作りのものは今回はなしだ。露華自身の技術力が圧倒的に不足している。子どもの工作以上のものは作れない。日々のお礼として改めて渡すものとしては力不足だ。
しかし、予算は二千円と少しだ。露華のお小遣いが月に千円なので、月末にもらえる分とお年玉の残りを足してこのくらいだ。
これで買える、晃司が喜ぶものって何だ。もう一月貯めるべきだろうか。
ぬいぐるみのお礼なら、いっそぬいぐるみだろうか。
嫌いではないはずだ。昔露華が作った毛並みの悪いテディベアを今の家にも飾っているくらいだし。でも、晃司の好きな動物って何だろう。
イヌ? ネコ? ウサギ? やっぱりクマか?
知る限りのかわいい動物を思い浮かべる。せっかく一緒に動物園も行ったのに、自分がはしゃいでいたばかりで彼の気に入ったものは覚えていない。
ふと知った名前が聞こえて意識がテレビに向いた。クイズにかこつけて観光案内がされる中、今年の春に行った植物園が紹介されていた。
視界いっぱい花畑を作るコスモスに、八重咲きのシュウメイギクが見頃を迎えている。赤と白の混じる桃色の景色に、露華は目を輝かせた。もう少し待てば、マーガレットの様な黄色い花をスプレー状につける、ユーリオプステージーも咲き始めるという。思わず身を乗り出す。
「わあ、やっぱりいいなぁ。コージくんお仕事どうだろう。行けるかなぁ。」
聞いてみようとケータイを手に取り、メッセージを送る寸前でぽーんっとソファ端へ放った。
「って違ーう! わたしの好きなことしちゃだめじゃん!」
「うるさいわよ露華。今何時だと思ってるの?」
「ごめんなさーい!」
ダイニングにいる母に謝り、クッションごとソファに倒れ込む。露華が一人で暴れている間に、クイズの内容が秋の草花から絵画へ移っていた。隣の県の美術館で行われる特別展示が紹介されている。大写しになった油絵の花畑に、露華の目が再びきらめいた。
これは確か……!
***
知人から栗ようかんをもらったと晃司からお誘いがあった。確認したいことがあったので、願ったり叶ったりである。
晃司の現在の住まいはアパート2階の1Kだ。玄関に面したキッチンに入って直ぐ、露華は手提げからプラスチック容器を二つ取り出した。
「これ、お母さんから。金平とね、からあげを何か漬けたやつ。金平はね、コンニャクも入ってるやつだよ!」
「いつもありがとうって伝えといて。」
「うん。あ、前のやつ預かるよー。」
「よろしく。」
いつものやり取りを終え、露華は奥へ進んだ。カーペットを踏みしめ、二段ほどの小さな本棚へ近づく。お茶を入れてくれるのだろう、かたんっとマグが調理台に置かれる音がした。
「コージくん。本、見してもらっていーい?」
「いいぞー。」
目当ての本に手を伸ばしながら、チラリと後ろを盗み見る。晃司は電気ケトルを傾けてお湯をポットに注いでいた。よしよしよし。さっと本を引き抜く。
ぺたんとカーペットに座り込んで、膝の上にその大きな画集を広げた。自然そのままを写し取ったような透明で鮮やかな色彩を追いながら、ページをめくっていく。テレビで見たそれが両開きになる。
黒っぽい緑の茂みが左右に割れて、中空の青と咲き乱れる桃色黄色橙が広がっている。暗い森をようやく抜けて、春の日差しと花畑にたどり着いた、そんな絵だ。
露華は絵画に詳しくない。ただ、名前のおかげか名付けた両親の影響か、草花は好きだ。花の絵も好きだ。だから、晃司の膝の上で見せてもらったこの絵も、よく覚えていた。
みつけた。晃司の好きなもの。
「ロカ? 何見てるんだ?」
「えへへー。ちょっとねー。」
白と黒、色違いのマグを両手に持って来た晃司へはにかんで応えながら、本を閉じる。元の通り本棚に差し込んで、いそいそと座卓の前のクッションに座った。
***
朝から、というか昨日から上機嫌だった露華は、教室に入るなり駆けるようにセイカの下へ向かった。体を傾いで友の顔をのぞき込む。
「コージくんにね、美術館のチケットあげることにした。特別展示も見るのだと追加料金で1800円になるんだけど、今月で足りるからバッチリ!」
「おバカ。」
「おぅっ。」
ぽすんっと頭をたたかれる。痛くはないけれどびっくりした。じとりっと半目でにらまれる。
「それ、晃司さん一人分よね?」
「うん? うん。」
「チケットのプレゼントでお一人様とか、プレミアムなやつじゃないと許されなくない? 好きな人をぼっちの旅に送り出すとか論外でしょ。」
「え? え? でも美術館だよ? ゆっくり見たいものじゃないの?」
「断言するけど、晃司さんならロカも一緒がいいって言うわよ。その分は自分が払うからって。」
困惑に染まっていた露華の顔が更に曇る。
「じゃあこれ、ダメ、かな?」
「うーん。もう一枚は用意できないの? 中学生の分ならそんなに高くないんじゃない?」
「中学生は、特別展示と合わせて900円、だったと思う。予算オーバーです。」
月千円にとってはあまりに大きい壁である。
「次まで待つと、特別展示終わっちゃう……。」
「ならお小遣いの前借りは?」
「前借り? したことないけど、できるかも……?」
***
「だめ。」
皿洗いや風呂掃除や、お手伝いをいつもより頑張ってから切り出してみたが、バッサリと切り返された。お金が必要な時は要相談、と言われているのでワンチャンスあるかと思ったがなかった。
母がため息をつく。
「だってねぇ、露華。もう10月になるのよ。」
「それがどうしたの?」
「あなた、中間試験の勉強はどうしたの?」
「あ。」
晃司のことで悩んでいて、というのは言い訳にもならないが、完全に意識の外だった。
「だからだめよ。遊びに行くこと自体だめ。」
「び、美術館は学びの場だと思うなぁ。」
「中間試験に美術関係ないでしょ。でも、試験が終わった後なら良いわよ。」
「ホント!?」
それならギリギリ間に合う。がっくりと気落ちしていた露華はぱっと元気を取り戻す。ただし、と母は声を強めた。
「5教科全部、前回より点数が上がったらね。そうしたら、二人分の入館料を出してあげる。」
身を乗り出したままのポーズで露華は凍りついた。
***
次の日、学校に着くなり露華は友人へ泣きついた。
「ムリだよぉ。」
「結構破格の条件だけど、アンタおバカだもんねぇ。」
「一学期末の英語。」
「やめなさい。人には得意不得意があるのよ。」
露華よりずっと成績の良いセイカだが、英語だけはどっこいどっこいである。特に、前回は本当にひどかった。持ち出してやると意地悪な笑みが直ぐさま渋面に変わる。
「まあ、ロカはものとか人の名前覚えるのが苦手なわけだし、とにかく頭にたたき込むしかないと思うわよ。」
「そうだね……。でもね、理科は今回結構自信あるんだ! 生き物のことばっかだもん。」
「アンタ動物も好きだもんね」
「うんっ。もう改めて復習しなくても良い線行くんじゃないかな。」
「ところがどっこい。はい、心臓を4つに分けて、向かって右上は何と呼ぶ?」
「は!? え、右、じゃなくて、向かってだから、さ、左心室?」
「ブー。左心房でした。」
「あー……。」
「理科といい、社会といい、アンタよくセットのものがごっちゃになりやすいんだから、ちゃんと確認しないとだめよ。放課後少しなら付き合ってあげるから。」
「はぁーい……。」
***
「肺循環が右心室、肺、左心房。体循環が左心室、体、右心房。」
アパートの駐輪場に自転車を止める。今日復習したことをつぶやきながら玄関ホールに入る。エレベーターの前に細身の女性が一人立っていて、ちらっとこちらを振り返った。あらっと声を上げる。晃司の母親だ。柔和な笑みを向けられて、露華はなぜかぎくりとした。
「久しぶりね、露華ちゃん。大きくなって。」
合う度に言われている。もう目に見えて背が伸びる年頃ではないはずなのに。
……やっぱり太ってる!?
「どうしたの?」
「あ、何でもないです。」
思わず自身の両ほほを触って確かめていると、晃司の母親は不思議そうな顔をした。
「晃司には最近会った? 元気にやってるかしら?」
エレベーターが着いた。小さい頃の失敗以来、露華は極力階段を使っているのだが、相手が言葉を続けるので、一緒に乗るしかなくなってしまう。細い指がボタンの3と4を押す。
「はい。元気でした。お仕事、大変みたいですけど。」
「あらぁそう。ご飯はちゃんと食べてるのかしらねぇ。何か困ってないかって聞いても、大丈夫としか言わないのよ、あの子。」
「コージくん、何でもできちゃいますから。」
「でも、せっかく戻って来たんだから、もっと頼ってくれてもいいのにね。」
エレベーターが3階に着く。露華が小さく手を振るとまたねっとほほ笑んで去って行った。ドアが閉まり、箱が動き出す。
露華は詰めていた息をほっと吐き出した。
大好きな晃司の、その母親なのに、なぜかいつも緊張してしまう。じっと観察されているような、そんな心地がするからだろうか。
***
夜、夕食も入浴も済ませて自室に戻ると、ケータイがメッセージの着信を伝えていた。晃司からだ。
――今年もリンゴパフェが始まったぞ。食べに行こう!
チェーン店のファミレスのことだ。彼の最寄り駅の近くにあるので、季節メニューののぼりがあがる度にこうしてお誘いがある。
ぐるり、と去年のことを思い返す。黄金色に透き通ってなお、くし形のフォルムとシャキシャキした歯ごたえを保つリンゴのコンポート。家では再現できないあれがもう一度食べたい。しかし。
露華はため息をついて返信を打つ。
――もうすぐ定期テストだから。遊びに行っちゃダメだって、お母さんが。
ケータイを手にしたままベッドにあがると、クッションにのしかかるようにうつ伏せになった。ぽこんっとケータイが鳴って、汗を飛ばすメンダコのイラストが送られてくる。
――そっかそっか。そういや去年もテストの頃だったな。うっかりしてた。
――ごめんね。
――こっちこそごめん。終わったら食べに行こう。それより、俺が勉強見るよ。遊ぶんじゃないから、大丈夫だろ?
リンゴパフェを思い出してしょんぼりしていた露華は、ぱっと表情を輝かせた。勉強を見てもらえるのはもちろんありがたいが、今週は会えないと思っていた晃司に会えるのが何よりうれしい。使用履歴から、カラフルな”OK”を背負うメンダコを押そうとして、はた、と指を止める。
晃司へのプレゼントを得るのに、晃司の力を借りてもいいのだろうか?
良いか悪いかはともかく、自分は嫌だ。
――ありがとう。でも、友達と勉強会するの。
まだ約束してないけど、今決めた。
直ぐに返信が来る。
――友達って、セイカちゃん?
――そうだよ。
一番に声をかけるならセイカだ。
――他の子も来るの?
――まだ分かんない。
――セイカちゃんは絶対いるんだよね?
露華はんーっとうなる。
セイカは優しいので絶対付き合ってくれるはずだ。
――うん。
――分かった。勉強がんばって。
――ありがとー。
意味もなく踊っているメンダコを送ってやり取りを終える。
顔を横向けて片ほほをクッションに押しつけた。画面をスクロールしながらやり取りを読み返す。はぁーっとため息が押し出された。
晃司に会いたかった。
「あ。忘れないうちに済ませとかないと、うそつきになっちゃう。」
メッセージを打つ。相手はセイカだ。
――というわけで、勉強会が決まりました。
返信にしかめっ面をしたネコのイラストが送られてきた。
***