切っ掛けは、部屋を間違えたことだった。
藤森露華は、6階建てアパートの403号室に両親と3人で住んでいる。
小学一年生の夏、とある水曜日の帰り道、暑い中階段を上るのが嫌になって露華はエレベーターに乗った。一人で乗るのは初めてだった。
奥へと足を運びながら、左手の壁に横並びでついたボタンを数える。4番目を押した。その間におじいさんが乗ってきて、ドア横の縦に並んだボタンへ手を伸ばした。ゆっくりとドアが閉まる。ぐいーんと上へ持ち上げられる感覚がして、やがて止まった。
ドアが開いて、おじいさんが降りる。それに続いて露華も降りると、おじいさんは不思議そうな顔で振り返ったが、何も言わずに左手へ曲がって外廊下の奥に行ってしまった。辺りを見た露華も何か違和感を覚えたが、それが何かは分からなかった。
ベランダ状に張り出した外廊下を進む。一列に並んだドアを数えて、声を上げる。
「いーち! にぃー! さーんっ!」
くるんと体を翻して三つ目のドアに向き直ると、左耳の上で括った髪が星形の飾りごと揺れた。伸びをして呼び鈴のボタンを押す。ピンポーンと軽やかな音が鳴るが、いくら待っても応える声もフローリングを駆けるスリッパの音も聞こえない。
露華はきゅっと目尻の上がった大きな目を瞬かせた。小首を傾げる。
「おかーさん、おでかけ……?」
でも大丈夫! と露華はランドセルを足下に下ろした。ファスナーのついた小ポケットをごそごそと探り、ネコのマスコットをつかんでそれについた鍵ごと引っ張り出す。きちんと鍵を持ち直して、鍵穴に差し込むと……。
ガチッガチッ。
「んん?」
何度やっても上手くいかない。春にこの鍵をもらって、父に教わりながらやった時はちゃんと開いたのに。
鍵を引き抜いてしげしげと眺める。鍵に異常はない。穴をのぞき込んだが暗くてよく分からない。
頭上から声が降った。
「こらこら。人ん家の前で何してんだおチビさん。」
振り仰ぐと、男が横に立ってこちらをのぞき込んでいた。
紺色のブレザーの左胸に描かれているのは、二駅向こうの高校の校章だが、露華には鳥のマークだとしか分からない。少年の歳も分からず、とにかく大きいお兄さんだと思った。
露華は彼の甘く垂れた目を見つめた。
「かぎ、あかないの。」
「開いたら困る。ここ俺ん家だぞ。」
「……なんで?」
「ええ? 何でって言われてもなぁ。」
少年は自身の額にかかる柔らかな髪をかきあげて、んーっとうなった。一つうなずき、よいしょっと父親が子どもにするように露華を縦抱きにする。呼び鈴の上の表札に近づく。
「ほら、名前違うだろ。……もしかして読めないか。”かでら”って書いてあるんだけど。」
黙り込んだままじっと表札を見つめる露華を心配して、少年が言葉を続ける。読めないけれど”藤森”と”鹿寺”の形が違うことは露華にもちゃんと分かった。しかし、彼女が注視していたのは違う部分だ。
303。403と左側の形が違う。いち、に、さんのさんの形だ。よんじゃない。
「かずがちがう! なんで!?」
「いやぁ、何でだろうなぁ。」
少年は苦笑しながら露華を下ろした。
少年、鹿寺晃司は露華を一階上の藤森家まで送ってくれた。
もういいだろう、と帰ろうとする彼のズボンを捕まえて引き留める。呼び鈴を鳴らすとパタパタとスリッパの音が近づいてきた。内側からドアが開いて露華の母が顔を出した。
「おかえりなさー……い?」
見慣れぬ少年を見つけて目を瞬かせる。露華はぐいぐいと彼のズボンを引っ張った。
「ろか、おうちまちがえた。」
「え、あ、それで。ごめんなさい、うちの娘が。」
「いえ、すぐ下なんで、気にしないでください。」
「あれ? あなた、学校は? もしかして早退!? 具合悪い!?」
母がさっと青ざめると晃司は苦笑した。
「違いますよ。今試験期間なんで、午後がないんです。」
「ああああ……。重ね重ねごめんね。お勉強の邪魔して……。」
「いいえ。丁度帰って来たところだったんで。そのまま追い返した方が気になっちゃって集中できませんし。」
二人の話を聞いていた露華が首を傾げる。
「しけん?」
「テストのことよ。露華もこの前、数のテストで花丸もらったでしょう?」
「はなまる!」
母の説明にぱっと顔を輝かせて、露華は家の中へ駆け込んだ。ぽぽーんっと靴を脱ぎ捨てると母の小言が飛んでくる。そのままの勢いで、廊下右手にある自室へ飛び込む。ドアを閉める前に顔を出して、まだ玄関に立っている晃司に「待ってて!」と念を押す。
露華はランドセルを椅子に置き、道具箱に飛びついてらくがき帳とクレヨンを出した。らくがき帳を一枚めくり、赤いクレヨンを押しつけるように線を引く。ぐるぐると何周も渦巻きを描く。
クレヨンを放り出し、ビッと用紙を破り取る。
廊下へ戻ると、玄関は閉まっていて晃司と母の姿はなかった。代わりに奥にあるリビングから話し声がした。中に入ると二人はテーブルを囲んでソファに座っていた。グラスで緑茶が出されていて、露華の分だろう、手つかずの三つ目があった。
露華は彼へ駆け寄った。手にした用紙を掲げて見せる。
何重にもなった赤い渦巻きの外側を、紙からはみ出しながら山なりの花弁が囲んでいる。
「はなまる!」
「おおー、でっかいな。」
「はい! あげる!」
「俺に?」
「うん! おにいちゃんは、やさしい いいこだから! いいこには はなまる!」
晃司がぱちりと目を丸くした。視界の端で母が慌てているが露華は気がつかない。喜んでもらえるものと信じ切って、大きな目をきらきら輝かせ、丸いほほを紅潮させている。
やがて晃司がふはっとためていた息を吐いた。怒っても笑ってもどこか凪いでいた、大人びた仮面がはがれ落ちる。大きく口を開けて、からからと笑った。
「ははっ。そっかそっか、ありがと。お前もいい子だよ。」
晃司は用紙を受け取ると、笑顔で藤森家を出た。
***
露華が再び晃司に会ったのは、夏休み前の朝のことである。
ランドセルを背負った露華がアパートの玄関ホールを出ると、丁度晃司が駐輪場で自転車の鍵を開けていた。彼は前籠にカバンを入れたまま、軽く手を振って露華の下へ寄って来た。
露華の小さな頭をくしゃくしゃとかきなぜる。
「あの後、テストばっちりだったぜ。お前の花丸のおかげかもな。」
それはある種のお世辞だったのだろう。それでも幼い露華は恩人の助けになったことがうれしかった。
頭の上のあたたかい手と、少年のイタズラっぽい笑顔が、露華の胸に強く残った。
二学期になると、晃司に会えることを期待して露華は早起きになった。
初対面の一件から分かるように彼は面倒見がよく、会えた日は通学路が分かれる交差点まで並んで登校してくれた。
夕方、外で遊んで帰って来て同じく帰宅する晃司に会った時も、彼に飛びつく露華の頭をなでてくれる。
そうして懐いて回る露華をたまたま見かけた級友が、晃司を”ロカちゃんのお兄ちゃん”と呼ぶようになった。彼はそれを否定しなかった。
***
露華と晃司がご近所さんだったのは、二人が出会ってから晃司が高校を卒業するまでの一年半の間だ。彼は遠くの大学に進学し、一人暮らしを始めてそちらへ引っ越してしまった。
露華の手には小さなメモが残された。それは電話番号で、母のケータイに登録したのでもう用は済んでいるのだが、筆箱の内ポケットにしまってある。
いつでもかけていいよ、と晃司が渡してくれたものだ。
しかし、一緒に登校していた時みたいに、昨日今日あったことをただ話すなんてことはためらわれて、なかなかかけることができなかった。
晃司の誕生日にどうしても「おめでとう」が言いたくてかけた時、「俺ももっと話したいんだけどな。」と苦笑された。なら晃司がかけてくれればいいのに、と思った。しかし、そもそも露華が使っているのは母のケータイなので、かけてもらっても露華が必ず出られるとは限らないのだった。
***
大みそかの夜、リビングには両親と露華の三人が集まっていた。露華はケータイを握りしめてドキドキしながら、テレビの特別番組を見守っている。
露華の誕生日と元日には、いつも晃司から電話をかけてくれる。
元日の電話は夜更かしした露華が寝坊するのを見越して、昼少し前にかかってくる。だから、日付が変わって直ぐに電話をすれば、晃司より先に年賀のあいさつができるはずだ。今回はどうしても、そうしなくてはいけない理由があった。
テレビの中、人々が大きく声をそろえてカウントダウンを始める。大きく太鼓が鳴って紅白の紙吹雪が舞うと、わーわーと人々は思い思いに喜びの声を上げた。
のんびりと年始のあいさつを交わす両親へ軽く返事をして、露華はくるりと背を向けた。自室へ戻る暇さえ惜しく、続き間のダイニングへ移動しながら既に表示していた番号へ発信する。
『……どちらさまですか?』
聞こえてきた青年の声が低く不機嫌で、露華はびくりと肩を揺らした。
彼はいつも優しくて、柔らかな声でしゃべるのに。
「あ、あの、藤森と言います。こちらはコージくんのケータイで合ってますか?」
『ん!? ロカ!?』
相手の声が慌てだす。名前を呼ばれたことでようやく晃司だと確信できた。一瞬ほっとするが、直ぐに別の不安が湧いて出る。
「ごめんなさい。寝てた?」
大みそかだから起きているものと思い込んでいたが、考えてみれば真夜中だ、寝ている人だっているだろう。こんな時間にたたき起こされれば不愉快に決まっている。しかし、晃司は怒るでもなく責めるでもなく、なぜかまだ慌てている。
『いや、うん、うとうとしてただけだけど、ちょっと寝ぼけたみたい。びっくりさせてごめんな。日付変わってたのか。明けましておめでとう、ロカ。』
あ。せっかくかけたのに、先に言われてしまった。
「明けましておめでとう、コージくん。今年もよろしくね。」
『うん、よろしく。で、番号違うけどどうしたの? それおじさんの?』
露華はぱっと目をきらめかせた。よくぞ聞いてくれました。
「ううん。これ、わたしのケータイなの。中学生になるからって、買ってもらったんだ。」
せっかくだから、一番初めは晃司にかけたかった。
『おおー。そっかそっか、中学生かー。何かお祝いしないとなー。』
「いいよー、そういうのは。あ、でも……。」
ふと思い至ったことが、言っていいことなのか分からなくて口をつぐむ。晃司がクスクスと笑った。
『どーした? 言ってみ。』
「……コージくんに会えたら、うれしいなぁ。」
こうして電話で話してはいるけれど、この4年近く晃司に全然会っていない。彼の両親は今もこのアパートに住んでいるのに、彼は盆も正月も顔を出していないようだった。それだけ忙しいのだろう。だから、今言ったことはわがままだと、ちゃんと知っていた。
なのに、返ってくる声はからりと明るい。
『なーんだ、そんなこと。春になったら会えるよ。俺そっちで就職決まったから。』
「え!?」
露華は思わず大きな声を上げた。はっとして声量を落とす。
「ホント? 帰ってくるの?」
『うん。家も決まってる。割と近いとこ。』
「え? お家? 鹿寺のお家に帰ってくるんじゃないの?」
『んー、まあ、俺ももう大人だしね。一人暮らしも慣れたし。そうそう、そっちに戻ること、他の人には内緒にしてくれる?』
「うん! 分かった! ……あ。」
『どした?』
露華はゆっくりとリビングを振り返った。ソファの背から顔を出して両親がこちらを見ている。
「ごめん。お母さん達いる。」
『……箝口令敷いといて。』
***
晃司の新しい家は二駅向こうのアパートだ。彼が通っていた高校とは反対方向だが、自転車で行こうと思えば行ける距離。中学への通学に必要だからと自転車を買ってもらえたことに露華は感謝した。
露華は舞い上がった。彼へとつながる手段がいつでも手の中にあり、しかも相手は行ったこともない遠くではなく同じ市内にいる。
電話番号の書かれたメモを、お守りのように握りしめている必要はなくなったのだ。
それでも、中学生にベタベタとまとわりつかれては、社会人一年生にとってたまったものではないことくらい分かっている。小さい頃にはずっとずっと大人に見えていた晃司が、当時はまだ子どもだったことも。あの頃より大きくなった今、全力で露華に飛びつかれては受け止めきれないことも。ちゃんと分かっている。
だから露華は我慢した。彼の家に押しかけたりせず、一日の終わりに少しだけ、友人とのやり取りや近況をメッセージで送るだけで我慢した。返ってくる彼の言葉をかみ締めて、眠りについた。
しかし、夏の終わり頃、晃司の方から頻繁に露華に会いに来るようになった。友人からどこぞのパウンドケーキをもらっただの、駅前のカフェの期間限定モンブランを買っただのと、お菓子の箱を携えてやって来る。
繰り返される内に露華の遠慮もはがれ落ち、週末に遊びに行く約束をすることが増えた。ケーキを食べに行き、映画を見に行って、動物園にも出かけた。
***