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私のささやかな家出の後、屋敷に戻ると今度は三人で宴の続きをした。
いつの間にか眠ってしまっていて、お布団を用意しようとしたら、燿興様が起きていることに気付いた。
月光が降り注ぐ庭に、燿興様は立っていた。
「燿興様、お先に起きていらっしゃったのですね」
燿興様は、何をとぼけたことを言うんだ、とでも言いたげな顔をした。
「俺はずっと起きていた。潰れたのはおまえ達だけだ。俺は兄弟一酒が強いんでな」
「まぁ」
見かけによらずとはこのことだわ。
と感心していると、燿興様は少し口ごもりながら言った。
「その、わ、悪かったな、先ほどは」
「はい?」
「人間ごときとかなんだとか、いろいろ言ってすまなかったな、と言っているんだ!」
「え! そ、そんな……!」
突然の燿興様のお言葉にびっくりしてしまった。
私が家出騒ぎを起こしたのを気に病んでくださっていたのだろうか……。
「……久しぶりに、本当に久方ぶりに、笑った兄者を見た」
唐突に、ぽつりと、燿興様が不思議なことを言われて、私は返答に詰まった。
「笑った透冴様? ……透冴様はいつも笑われていますけれども?」
にっこり、ではないけれど、柔らかな微笑なら、透冴様はいつも浮かべている。
初めてお会いした頃は、綺麗だけれど、まるで生気のない美術品のように思えてちょっと怖かったけれど、しだいに穏やかな微笑を浮かべてくださるようになって……。
私は、透冴様のあの本当に微かな、それでいて優しい笑みが大好きだ。
「今日久しぶりに兄者に会った瞬間、変化があったのが分かったよ。あんな穏やかな顔をした兄者を見たのはいつぶりか、と驚いた。そうしたら、人間の女を伴侶に迎えたと言うじゃないか」
俺がどれほど驚いたか、おまえには想像つかないだろうな、と燿興様は少し恨めしげに私を睨んだ。
「おまえが勝手に勘違いして家出した直前の兄者が忘れられない。『鼓水といると胸が温かくなる。この気持ちを何と言うのだろうな。ああ、そばにきて、教えて欲しいものだ』そう言って兄者は笑ったんだ。数百年ぶりに、以前と同じように」
どういうことだろう。
燿興様の言うことが信じられなかった。
あの、いつも穏やかな微笑を浮かべている透冴様が、数百年の間、冷たい表情でい続けたと?
「兄者は元は穏やかな優しい神で、その微笑は皆から愛されていた。兄者もまた、神や人間垣根無く愛し、思いやりあふれた神だった。それがある時を境に変わってしまった。人間は愚か神をも厭い、湖底に籠るようになってしまった。笑顔もいつしか消えてしまった」
知らなかった。
透冴様の身に、いったい何が起きたのだろう。
言葉を失っている私に、燿興様は焚き付けるように口調を弾ませた。
「兄者を数百年ぶりに笑わせられたのはおまえが初めてだ。兄者にとっておまえが特別な存在なのは間違いない。だから俺は、おまえを認めることにした」
「……本当ですか? 燿興様」
「俺ごときに認められたとしても天界を説き伏せるのは至難の業だろうがな。まぁ味方はしてやる」
「うれしいです……! ありがとうございます!」
心の底からの感謝を込めて頭を下げた私に、燿興様は口端をにっと上げた。
「では俺は帰る。新婚の朝を邪魔するつもりはないのでな。兄者を頼むぞ、鼓水!」
そう言って燿興様はあっという間に飛び去って行った。
月を背に夜空を駆ける黒龍に、私は千切れんばかりに手を振り続けた。
つんつん、と頬に感覚を感じて目を開けた。
きらきら、と光が優しく流れている――それが風にそよぐ銀髪だと気付いて、私は慌てて飛び起きた。
「私ったら、こんなところで転寝を……!」
「すまぬ、起こしてしまったな。せっかく気持ちよさそうに眠っていたので、つい突っついてみたく……」
と、気遣ってくれる透冴様のお顔は何故だか少し赤い。
何を恥ずかしがっているのかしら――と気にする前に、自分の方が恥ずかしくなる。
お洗濯物を干そうと縁側に出たら日差しが気持ちよくて、つい横になってしまったのだ。
「も、申し訳ありません、透冴様。今日はお天気が良くてつい……」
「疲れているのではないか? そう頑張って家事などしなくていいのだぞ?」
「いいえ、私の悦びは透冴様に尽くすことなのです。誠心誠意をもって一生涯お仕えいたします」
胸を張って言う私に、透冴様は怪訝な顔をした。
「お仕え? 仕えるとは小間使いように始終働くと言うことか?」
「はぇ? そ、そういう意味にはなるでしょうか」
と言うと、透冴様は眉根を寄せた。
「わ、何か粗相をいたしましたか?」
「そのようだ」
「まぁ……!」
どうしよう、透冴様を怒らせてしまった……! とおろおろしていると、透冴様が私のほっぺをつまんできた。
私が取り乱すと、透冴様はたいてい頬をぷにっとしてくる――私の頬ってそんなに弄りたくなるものかしら?
「怒ってはいない。……だがおまえは少し、やりすぎのきらいがあるからな」
「やりすぎ? わ、私、張り切ってお節介をしすぎたでしょうか?」
「そうではない……そうではないが」
「では何がいけないのでしょう?」
またおろおろしていると、いよいよ透冴様の眉間にも皺が寄ってきて、私は泣きそうになってくる。
「その、なんと言えばいいのか……ああもどかしいな。おまえ、私が話下手で語彙力の低い男だと思っているだろう?」
「いえ! そんなことはけして」
「こう見えても私はな、聡明博識な神として天界でも名が通っているのだ。手間取っているのはだな、この胸のもやつきが上手く言葉に表現できぬからでな、ええと、その、つまり、だ」
突然、引き寄せられたかと思うと、ぎゅうと抱きしめられた。
「少しは私のそばでじっとしていろ、と言いたいのだ。いろいろ面倒を見てくれるのはありがたいが、こうしておまえを抱き締めている時が、私は一番満ち足りる」
そう囁いてきた声は、ほっとしたように低くしっとりとしていて、私まで甘く満ち足りた想い心が溶けていく。
「おまえは本当に罪深い。満ち足りたと思えば、飢えたように求めさせたり、耐えられない空虚に胸を圧し潰したり――私に色々な感情を芽生えさせ過ぎる」
透冴様は私の頬に手を添えた。
「総じてそれらが、おまえが教えてくれた『愛』というものなのだろうな。鼓水、私はおまえが愛しくて堪らないらしい」
「そ、そんな、もったいないお言葉……!」
透冴様からの不意打ちの愛の告白に、私は火が出るのではないかと言うくらい顔を赤面させた。
その頬を、透冴様がぷにぃとつまむ。
「そなたが、私だけの永遠の伴侶だ」
「はい、透冴様……」
涙が零れてしまわないように目を閉じて笑うと、
「……んっ」
唇が柔らかく啄まれた。
驚いて目を開けると、熱を宿した美しい青い瞳と見つめ合った。
「甘露だな、おまえの唇は。何度しても飽き足りぬ」
そうして再び口付けを落とし、透冴様はそっと囁いた。
「おまえに出会わなければ、こんな気持ちになることはなかった。この気持ちを、おまえ達は何と言うか、知っているぞ」
透冴様は、零れんばかりの笑顔を浮かべた。
「『幸せ』と言うのだろう」
私も笑って大きく頷いた。
「はい、さようでございます!」
美しき龍神様。
あなたが幸せなら、私は天が一の幸福者です。