「おまえが勝手に勘違いして家出した直前の兄者が忘れられない。『鼓水といると胸が温かくなる。この気持ちを何と言うのだろうな。ああ、そばにきて、教えて欲しいものだ』そう言って兄者は笑ったんだ。数百年ぶりに、以前と同じように」

どういうことだろう。
燿興様の言うことが信じられなかった。
あの、いつも穏やかな微笑を浮かべている透冴様が、数百年の間、冷たい表情でい続けたと?

「兄者は元は穏やかな優しい神で、その微笑は皆から愛されていた。兄者もまた、神や人間垣根無く愛し、思いやりあふれた神だった。それがある時を境に変わってしまった。人間は愚か神をも厭い、湖底に籠るようになってしまった。笑顔もいつしか消えてしまった」

知らなかった。
透冴様の身に、いったい何が起きたのだろう。

言葉を失っている私に、燿興様は焚き付けるように口調を弾ませた。

「兄者を数百年ぶりに笑わせられたのはおまえが初めてだ。兄者にとっておまえが特別な存在なのは間違いない。だから俺は、おまえを認めることにした」
「……本当ですか? 燿興様」
「俺ごときに認められたとしても天界を説き伏せるのは至難の業だろうがな。まぁ味方はしてやる」
「うれしいです……! ありがとうございます!」

心の底からの感謝を込めて頭を下げた私に、燿興様は口端をにっと上げた。

「では俺は帰る。新婚の朝を邪魔するつもりはないのでな。兄者を頼むぞ、鼓水!」

そう言って燿興様はあっという間に飛び去って行った。

月を背に夜空を駆ける黒龍に、私は千切れんばかりに手を振り続けた。