夜鹿が冷慈に付き添われて訪れた病院は、高台の上で緑に囲まれて佇む建物だった。
 周囲はおそらく夜になれば真っ暗になるほど孤立したところで、商業施設も住宅街もない。病院に用事のある車とバスしか通行できず、ふもとからは距離があるので徒歩で来るのは難しいところにあった。
 夜鹿が病院前のバス停で降りたとき、かぐわしい花の匂いがしていた。季節はもう冬に近づいているのに色鮮やかに緑は茂り、風さえ柔らかいように思えた。
 設備は小さな街にあるとは思えないほど充実していて、丁寧なカウンセリングと事細かな検査を受けることができた。これだけ手厚いのであれば遠方から訪れる患者も多いのではと思ったが、夜鹿が何度か部屋を転々として検査を受けても、彼女以外の患者とすれ違うことはなかった。
 二時間ほどかけて体と心の診察を受けた後、書斎のような部屋に通された。薄暗い部屋で青白いレントゲン写真を見ることになると思っていた夜鹿は、温かみのある部屋の様子に少し体を楽にした。
「長時間お疲れさまでした。診察結果をお伝えしますね」
 向き合った壮年の医師の表情も穏やかで、深刻な病状にも思えなかった。夜鹿がうなずいて先を促すと、医師はその答えを告げた。
「あなたは妊娠されています。まだ極めて初期の状態です」
 その答えは、ある程度予想していた。妊娠の兆候は基礎知識ではあったものの、ひととおり学んでいた。
 けれど夜鹿に走った恐れは、知識とは別に彼女を強く打った。どうしたら、喉からは言葉こそ出なかったものの、たぶん一人だったら泣き出していた。
 隣に座る冷慈の顔を見ることができなかった。半分は彼の血を引く存在を、もし彼に否定されたらと思うと怖かった。
 不意に冷慈の両手が夜鹿の手を包んだ。いつになく強い力に夜鹿が息を呑むと、彼は照れたように笑っていた。
「私が夫です。入院が必要ならすぐに手続きを」
 冷慈は彼にしては性急に、医師に言葉を投げかける。
「まだ日常生活を変える必要はありません。通院しながら体調を整えていかれるといいでしょう」
 わかりましたと冷慈はうなずいて、忙しなく膝をさすった。少し震えているようにも見えた。
 診察室を出ると、夜鹿はいきなり冷慈に抱きしめられた。息が詰まるくらいで、夜鹿は彼の興奮に反射的に身を固くしたほどだった。
「はは……昨日まで自分が言ったことを全部笑いたい。急がないなんて嘘ばかりだ。夢じゃないだろうな」
「冷慈さん、は」
 夜鹿はまだ追いつかない実感の中で、探すように言葉を口にする。
「喜んでくれる……?」
 夜鹿と彼は夜を過ごすこともあったが、まだ確かな未来を約束したわけではない。
 今が「極めて初期」と耳にしたとき、夜鹿は引き返すことさえも考えたのだから。
 冷慈は体を離して夜鹿の目を見返すと、昔話のように夜鹿の手を取ったまま膝をついた。
「君を誰より愛すると誓う」
 夜鹿を見上げて、冷慈は彼女の両手を包んだ。
「結婚してくれ」
 夜鹿の中の不安がとろりと溶けて、お腹の中に宿った命に初めて愛おしさを感じた瞬間だった。