夜鹿の勤める会社は、小さな街にあるものにしては、進んだ仕組みの組織のように思う。
 限りなく分業が進んで個々の仕事を見ると何をしているのかよくわからないが、誰かが行き詰まれば別の誰かに仕事が再分配されていく。
 まるで誰かが、いつもすべてを見ているみたい。夜鹿は休憩室でいつ淹れても同じ味がするコーヒーを飲みながら、自分もどうしてか知っていることがあると思った。
 たとえば壁を隔てた部屋で検討している案件、階下の一室で繰り返し議論されている話題、その場にいるわけでもないのに会社がどういう方向に進んでいるかは知っている。
 けれど「誰が」の部分になると途端に霞がかったようになる。社長も役員も、実をいえば廊下ですれ違ってもわからないと思う。
 だって私が仕えているのは業務であって、王ではないから。夜鹿が現代の条理を思い描いたとき、淡い感情に背を押された。
 仕切りの向こう、夜鹿の隣のブースで、壁に寄りかかって目を閉じている冷慈をみつけたから。
 冷慈は仕事用の白衣を机に投げ出して、無防備に襟を緩めてうたたねをしていた。しょうがない人ねと夜鹿は苦笑して、白衣をかけようと手を伸ばす。
 陶器のような白い肌に細くしなやかな眉、男性としては華奢な体。冷慈は夜鹿より一回り年上とは思えないような、柔い雰囲気をまとう人だ。
 ふと起こすのをためらってその面差しをみつめていると、まぶたが開く。
 薄い唇が夜鹿と動いて笑みを作ったのを見て、夜鹿は慌てて言う。
「こんなところで眠ってはだめですよ、冷慈さん。ここの空調は夏でも最適な温度だそうですから」
「うん。ごめん」
 こくんと少年のようにうなずいて、冷慈は手を伸ばす。夜鹿は反射的にその手を取ってしまったが、気恥ずかしさにぱっと手を離した。
「夢を見ていた」
「夢?」
「夜鹿が職場見学に来たときだよ。まだ小学生だったね」
 首を傾けて冷慈がうれしそうに語るのは、夜鹿の中ではよく思い出せない子どもの頃の話だ。
「僕の袖をつかむと、宝物みたいに笑った」
 冷慈はふいに夜鹿の袖を引いた。思っていたより強い力に、夜鹿は冷慈の方に身を傾ける格好になる。
「大きくなったね、夜鹿」
 耳元でささやかれた言葉に奇妙な熱を感じて、夜鹿の芯の部分がざわめいた。
 なんでもない子どもの頃のことを話しただけだ。そう思いなおして、夜鹿は体を離す。
 ほほえんだ冷慈は、同僚、先輩、それよりも大きなものとして夜鹿の中に君臨している。
 綺麗、まるで魔物みたいに。幼い日にそう思ったことだけは、今まで覚えている。
「支度をしよう。仕事をしないと」
 こんな気持ちのまま仕事をしていて、いいのかしら。まさかそう冷慈に問いかけるわけにもいかない。
「子どもたちが僕らを待っているしね」
 彼が瞳で夜鹿をなだめた気配を感じながら、夜鹿は下を向いてうなずいた。