川沿いの菓子屋に出かけた日、夜鹿は家に帰ることができなかった。
 行きは易かった遊歩道が帰りは歩き通せず、冷慈がタクシーを呼んで病院に連れていかれた。待合室で泥のような眠りに落ちて……目覚めたときには白い病室で、点滴と正体のわからない機械につながれていた。
 ベッドの脇に座る冷慈が、夜鹿の手をつかんでいた。いつも夜鹿の手を包むように彼は手をつなぐのに、今は縋るように堅く握りしめていた。
「赤ちゃんに、何か」
 悪い想像を口にしようとした夜鹿に、冷慈は無理に笑ったようだった。
「心配要らない。赤ちゃんは元気だよ。とてもね」
 夜鹿は少し笑い返して、それならよかったと胸を撫でおろした。
 けれど冷慈がまとう緊張は夜鹿にも伝わっていた。彼が「元気」という言葉を告げたときの陰を、肌で感じていた。
 繰り返す検査で、夜鹿は赤ちゃんの成長を見てきた。夜鹿の人体の知識は学校の教養程度だが、自分のお腹の中の存在が異様に早く成長しているのは気づいていた。
 冷慈は夜鹿の体を起こして背中に枕を入れると、ベッドに座って切り出した。
「……近く、帝王切開が必要だそうだ」
 夜鹿が迷って何も言わなかったのは、不安を形にしたくなかったからだった。
 夜鹿の体は自然分娩に耐えられない。……十月十日を待てば、赤ちゃんは育ちすぎてしまうから。医師から詳しく話を聞く前から、想像はついていた。
 近くとはどれくらいの時間なのだろう。医師を呼んで質問するべきだったのかもしれないが、穴の空いた風船のように力が入らなかった。
 冷慈に頼んで体を横たえてもらうと、夜鹿は冷慈を見上げた。
 いつも夜鹿を守り、あるいは支配している恋人は、予想していなかった事態に混乱しているようには見えなかった。戸惑うより、どこか罪悪感を宿した目をしていた。
 こうなることは夜鹿とつながったときから知っていて、けれど彼はそうしたいと決めたのだろう。
「冷慈さん。まだ伝えていませんでした。ずっと……愛しています」
 夜鹿がつぶやくように言うと、冷慈はつと息を呑んで、言葉を覆うように返した。
「言っただろう? 心配は要らない。ここは医師も設備も揃ってる」
 夜鹿は次第に混濁していく意識の中でうなずいた。
 冷慈は嘘を言っていない。きっとこの病院は優れた病院で、経験も設備も備えているのだろう。
 でも夜鹿はずっと見てきた。この街には子どもを育てた形跡がない。子どもが通うところ、子どもが遊ぶところ、他の街なら当たり前にあるはずのものがない。
 それはとてもシンプルな理由からなのだと思う。……この街は、子どもが生まれたことがないのだ。
「夜鹿、まだ……」
 まだ話していないことがたくさんあるんだ。彼が言ったとき、それは夢の中の声のように聞こえた。
 隠していたことがたくさんあると、知っています。それでもあなたが好きなんです。
 夜鹿は闇の中にぽっかりと空いた穴のような意識の濁りへ、さかさまに落ちていった。