冷慈が夜鹿本人より先に気づいた異変は、色のない毒霧のようにまもなく夜鹿の日常を覆いつくした。
夜に何度も起きる日が続いたかと思うと、どうしても朝起きることができず、鉛のように体が重くなった。かといえば夜は奇妙に体が冷えて、震えながら目を覚ましては、今日より良くなる保証のない朝を待った。
「精神的な不調だと思います。……情けない」
深夜のベッドの中、子どものように冷慈に背中をさすってもらいながら、夜鹿は顔を覆ってつぶやいた。
冷慈は夜鹿の頭を抱いて少し思案すると、化学者らしい冷静さで言葉を返した。
「違うとは言わない。体と心はつながっているからね。子どもは今の夜鹿には重いんだろう」
冷慈は夜鹿の体を横たえてその隣に添いながら、暗闇の中で夜鹿の髪をなでた。
「でも悪いものではないんだよ。もう一つ知っておいてほしい。夜鹿が悪いわけでもない」
冷慈は夜鹿の変調を軽く受け止めてはいないようだったが、無理に夜鹿の生活を変えさせようとはしなかった。前より頻度が高くなった夜鹿の通院に付き添い、夜鹿より事細かに夜鹿の体調を伝えて、医師の指示を受けた。
定期健診から二週間の後、夜鹿は冷慈の判断で休暇に入った。聞けば会社には妊婦の不調に応じて休暇を早める制度があって、同僚たちのまた戻って来てねという言葉を最後に、夜鹿はあっさりと職務から解放された。
あまり閉じこもっていても良くないと、次の休日に冷慈は夜鹿を街に連れ出した。
ゆっくりと時間をかけて、川沿いの遊歩道を冷慈と歩いた。空が澄んで緑も青く空に映えていたから、気持ちも少し晴れた。
「ここで待っておいで」
冷慈は川沿いの菓子屋に入ると、夜鹿を外の椅子に残してもなかを注文していた。
琥珀街ではこういう小さな店に事欠かない。娯楽施設といえるものは知らないが、ちょっと休憩をしたり、日用品を買うには何不自由ない。
他に客はなく、通りかかる人もいなかった。小さな街だが、夜鹿は職場の同僚と休日に出会ったことはなかった。みな、どこで何をしているだろうとふと思うこともある。
ただ同僚に訊かなくても、薄々と察しがつくことでもあった。たぶん多くの同僚は、休日は家で過ごして、近いところに少し散歩に出るくらいなのだろう。
目を閉じて風に吹かれていると、水底から水面を眺めているような気持ちで漂っていた。
たとえこの街に学校や保育園がなく……会社の植物園でしか子どもの姿を見かけたことがなくとも、街で過ごす自分の子どもを描こうとした。
「夜鹿、食べて」
声をかけられて目を開けると、冷慈がもなかを差し出していた。
生まれてくる子どもは、もなかを食べてくれるかしら。植物園でも許してくれるかしら。
……冷慈さんは子どもを、愛してくれるかしら。
夜鹿はそう心で思って冷慈を見上げただけだったのに、彼はまるで心を読んだように言った。
「お父さんはいつも君を愛してるよと伝えて」
夜鹿は顔を歪めると、もなかを受け取ってそれを一口含んだ。
喉を通っていく菓子は甘く甘く、夜鹿の体に浸っていった。
夜に何度も起きる日が続いたかと思うと、どうしても朝起きることができず、鉛のように体が重くなった。かといえば夜は奇妙に体が冷えて、震えながら目を覚ましては、今日より良くなる保証のない朝を待った。
「精神的な不調だと思います。……情けない」
深夜のベッドの中、子どものように冷慈に背中をさすってもらいながら、夜鹿は顔を覆ってつぶやいた。
冷慈は夜鹿の頭を抱いて少し思案すると、化学者らしい冷静さで言葉を返した。
「違うとは言わない。体と心はつながっているからね。子どもは今の夜鹿には重いんだろう」
冷慈は夜鹿の体を横たえてその隣に添いながら、暗闇の中で夜鹿の髪をなでた。
「でも悪いものではないんだよ。もう一つ知っておいてほしい。夜鹿が悪いわけでもない」
冷慈は夜鹿の変調を軽く受け止めてはいないようだったが、無理に夜鹿の生活を変えさせようとはしなかった。前より頻度が高くなった夜鹿の通院に付き添い、夜鹿より事細かに夜鹿の体調を伝えて、医師の指示を受けた。
定期健診から二週間の後、夜鹿は冷慈の判断で休暇に入った。聞けば会社には妊婦の不調に応じて休暇を早める制度があって、同僚たちのまた戻って来てねという言葉を最後に、夜鹿はあっさりと職務から解放された。
あまり閉じこもっていても良くないと、次の休日に冷慈は夜鹿を街に連れ出した。
ゆっくりと時間をかけて、川沿いの遊歩道を冷慈と歩いた。空が澄んで緑も青く空に映えていたから、気持ちも少し晴れた。
「ここで待っておいで」
冷慈は川沿いの菓子屋に入ると、夜鹿を外の椅子に残してもなかを注文していた。
琥珀街ではこういう小さな店に事欠かない。娯楽施設といえるものは知らないが、ちょっと休憩をしたり、日用品を買うには何不自由ない。
他に客はなく、通りかかる人もいなかった。小さな街だが、夜鹿は職場の同僚と休日に出会ったことはなかった。みな、どこで何をしているだろうとふと思うこともある。
ただ同僚に訊かなくても、薄々と察しがつくことでもあった。たぶん多くの同僚は、休日は家で過ごして、近いところに少し散歩に出るくらいなのだろう。
目を閉じて風に吹かれていると、水底から水面を眺めているような気持ちで漂っていた。
たとえこの街に学校や保育園がなく……会社の植物園でしか子どもの姿を見かけたことがなくとも、街で過ごす自分の子どもを描こうとした。
「夜鹿、食べて」
声をかけられて目を開けると、冷慈がもなかを差し出していた。
生まれてくる子どもは、もなかを食べてくれるかしら。植物園でも許してくれるかしら。
……冷慈さんは子どもを、愛してくれるかしら。
夜鹿はそう心で思って冷慈を見上げただけだったのに、彼はまるで心を読んだように言った。
「お父さんはいつも君を愛してるよと伝えて」
夜鹿は顔を歪めると、もなかを受け取ってそれを一口含んだ。
喉を通っていく菓子は甘く甘く、夜鹿の体に浸っていった。