鶯が愛を求める声の響く中、「ああ、どちらに、」と寒菊さんの弱々しい声が上がる。

歳月の流れるのは早いもので、私は二十歳、寒菊さんは二十五歳になっていた。

 廻廊で「兄上、全く気にされていませんね」と菊臣さんが振り返る。

 あの日木枠を蹴ってもすぐに藍さんが駆けつけなかったのは、彼のお陰なのではないかと私は思っている。

弟が寝込んだとなれば藍一郎さんは傍についていただろうし、藍さんもそんな彼の傍にいただろう。

藍さんが木枠への攻撃に気がつかなかったとは思えない。

それを菊臣さんがどうにかしてくれていたなら、藍一郎さんはそこを離れられず、そうなれば藍さんも動けなかっただろうと。

 あるいは、ただ眠っているだけの菊臣さんの傍で、佐助さんがなにかしていたか。

寒菊さんにここについて話したくらいの人だし、あのあとに会ったときには「御無事でなによりです」といってくれた。

 私は菊臣さんの隣で、長女を抱いたまま寒菊さんの方を窺った。

娘と同じ日に生まれた長男は、寺の中を自由に這っている。寒菊さんは落ち着かない様子で、正座の前に手をついては長男を追う。

 「頑張って下さい、神さま」と菊臣さんが囃すが、寒菊さんは「薄いのです!」と歎く。神の血が、ということなのだろう。

 とりわけじょうずな鳴き声が響いた。

 庭に向き直り、ふと見れば、菊臣さんの脚に冊子が載っているのに気づいた。

 「なんです、それ」

 「ああ、兄上の……藍一郎兄さんの置いていったものです」

 「なんですって?」と尋ねてみると、彼はそっとそれを差し出した。「菊花と藍色に囚われた愚かな男の滑稽本です」と困ったように笑う。

 私は娘を抱き直し、冊子を受け取った。

 それは『願わくはわれにも菊花の加護のあらんことを』という言葉から始まった。なるほど、酷いものだ。

 進んでみれば、喪った一人への思慕、そのきっかけへの激しい憎悪、三輪の菊への劣等感と、

悠久の一輪への憎しみ、尽くす一輪への底知れぬ情愛、寒空の一輪への後悔と葛藤、それを掻き乱す情愛、

一刀への依存にも似た執着、それが延々とかた苦しい言葉で綴られている。

ところどころはこういう意味なのだろうなという調子で進むほどだ。

 ただ、これを書いた者は、清い魂を持っている。とりわけすぐ近くにある二輪への真っ直ぐな感情は、私の理解の想像の追いつかないところに到達していた。

 「結局、日暮を継ぐのは僕になるのでしょうね」と菊臣さんは苦笑した。私はそれを、かた苦しい言葉の連なりを自分なりに訳して読みながら聞いた。

 「藍一郎兄さんの結婚したところなんて、まるで想像できませんから」

 どうにも疲れる文章なので、私は冊子の後ろの方を開いた。

 寒菊にはあの美しい娘を幸せにしろと伝えておいた。あの娘を不幸にすることがあれば、肩の花が彼奴を殺すだろう、おおよそそんな言葉で閉じられていた。

 「藍一郎兄さんの結婚したところなんて、まるで想像できませんから」と菊臣さんは改めていった。その笑い顔は、自分と同い年とは思えぬ無邪気なものだった。

 ふと、まだ冊子に続きがあるのに気づき、頁を進めてみた。それまでの気取った言葉はどうしたものか、あまりに真っ直ぐな言葉が真ん中にあった。



 『あゝ如何か 清らけき我がきやうだいに 菊花の祝福 加護のあらんことを』