「やめて下さい」と寒菊さまの声が叫んだ。

 「藍一郎さん、貴方は久菊さま、日暮の家を継がねばなりません」

 「どの口がいう」という声は乾いた笑いだった。それにもはや闘志がないのを見て、私は刀を下ろした。

 「久菊さまは貴方を長男として認めておられました」

 「ではなぜ!」と叫んだ弾みで、彼の頬を雫が流れた。

 「日暮家というのは、寺を続けてきた家ではありませんでした」

 藍一郎さまは「なにをふざけたことを」と笑ったが、寒菊さまは構わず続けた。

 「あの医者に聞いたのです、」

 「あれは菊臣が体を悪くして現れた男だろう」

 「久菊さまは、以前より彼を必要としておられました」

 「なに、」と眉を顰め、彼は寒菊さまの方を向いた。

 「皆さんの前では健康でありたいと願い、あの医者は久菊さまの部屋に隠れるようにしていました。そこで、久菊さまの考えを聞いたのだそうです」

 「誠か、」

 「私はそう感じました」と寒菊さまが頷く。

 「あの医者、名をかじさわさすけといいます」私は勝手に、梶澤佐助、と字を当ててみる。

 藍一郎さまの背に漂う気配が變わった。

 「以前、私が畑で会った男です。彼はいいました、この畑は久菊さまの本職であったと。ええ、日暮家は農民の家系です。

久菊さまが寺を始めたのは、親御さんを自らの手で弔いたかったためだそうです。その頃、三つ眼の鬼でありながら悪事に関心のない一助と出会い、彼を交えて寺を建てたと。

しかし親御さんを弔ってしまえば、寺の役割はなくなってしまった。たくさんの協力のもとに建った寺を無駄にせぬようにと、久菊さまは祀られることも成仏することもできなかった魂を、ここで鎮めました。そのうち、この世に残りたいと願う者が増え、宿を始めたのだそうです」

 「……それがなんだという」

 「久菊さまにとって、寺も宿も本職ではありません。農業をやっていたのですから。そのために、久菊さまは息子に継がせてまでここを続けようとは考えていなかったのです。

特に、長男に継がせてまでは。久菊さまは長男である貴方に、農家としての日暮家を続けてほしかったのです。そのため、ここは二男の菊臣さんに任せようと考えた」

 「化け物の戯言を聞く趣味はない」と藍一郎さまは声を震わせた。それはあまりに複雑な感情を抱えていた。

 「しかし、久菊さまは私と出会いました。他人である私は、本職でもないここを任せるのにちょうどよかったのですよ」

 「ではなぜ、貴様はそれを受けた」

 「私は両親を探しております。

母はもとは人間でした。しかし、犬の霊に憑かれたのです。それはちょうど、私を身籠る前後だったのでしょう。

霊魂は胎児という逃げ場を持ち、大人しくしていました。しかし確実に力を強くしていましたので、母は私を産むと同時に霊魂に飲まれ、自我を失い姿を消しました。

父は社に祀られた魂を片親に持つ狐憑きでした。いえ、狐の霊魂は憑いていたというよりは、父に飼い慣らされていたようでした。それと戯れるようにして暮らしながら十五年、父は私を育てました。

そして、飼い慣らした狐の霊魂と、己の身に通う、いわゆる“神”の血を利用し、妻を探しに出ました。……私に、すぐに戻るといい置いて。

それから二年、私は久菊さまに拾って戴きました。両親のことを話したら、久菊さまはすぐにうちにくるといいと仰ったのです。うちにはあやかしがたくさんいるから、なんなら継いでもいいと」

 「……どういう意味だ」

 「ここでは、主とあやかしたちとの関係はかなり強固なものだそうです。私には薄いながらも妙な血が通っていますので皆さん親しくして下さいましたが、主になればより親密な関係になれる。久菊さまはそう仰いたかったのだろうと、あるときの一助の助言で感じました」

 「一助、」

 「彼は、犬と狐は使えるといいました。ええ、母は犬を、父は狐をくっ憑けていますから。私の妙な血のためか、お二人の優しさのおかげか、私は月さんときつさんと共に両親を探し始めました」

 ふらついた藍一郎さまの体を、畳に突き刺さったままの刀から抜け出してきた藍さんが支えた。

 「全く、碌なことをしない親爺だった」と藍一郎さんは笑う。「こんな寺だの宿だのをやっているから、おかしなものが紛れ込んだんだ」と。

 ふと、「寒菊」と声がして振り返れば、頭に二本のつのを生やした長身の男性がいた。

鬼というのは随分大きいな、と私は暢気に考えた。そしてなにより、あのつのに触ってみたい、と。

 「顔を見せてあげるといい」という短い報告に、私は思わず寒菊さまを振り返った。状況が飲み込めない、というような顔をしている。

 藍一郎さまは「しかし恵まれた野郎だ、憎らしい」と、おおよそ半分は本気らしく、もう半分は冗談ぽく、残りは寒菊さまに説明するようにいった。