私は黙って鳩司にくっついて移動した。藍一郎さまの部屋など知らない。

 彼は向かって左端の部屋、庭に面した部屋を選んだ。静かに襖を開け、中に入る。

 「お綺、」と寒菊さまの警戒した声を響かせるその部屋は、あまりに悪趣味だった。

 「鳩司君も。なにをしているのです、戻りなさい」

 私はその忌まわしい木枠に寄りながら、「ええ、寒菊さまと共に」と答える。

 「一助に聞いたのですか、」

 「ええ、鳩司が」と短く答え、私は「どうか御無礼をお許し下さい」と断ってから、ありたけの力を籠めた足を木枠に叩きつけた。

力の割に大した音もせず、木枠はびくともしなかった。構わずもう一度蹴る。もう一度、もう一度。

 「藍さんに気づかれます、」と微かに震えた声に、彼らへの怒りが再燃する。これほど怯えた寒菊さまに、奴らはなにも感じないのか。

 ——ぶっ壊してやる。

 「恐れることはありません」と私は答えた。

 「私には構わないで、戻って下さい」

 「私共が戻って、——寒菊さまはどうなりますか。救われますか」

 「私は貴方の傷つくことが怖いのです、お綺」

 しつこく木枠を蹴りながら、なにか、視界が重たく滲んだ。「では、共にここを離れるまでです」と答えた声が震えた。

 私は死んではならない。寒菊さまを救い、その喜びに酔わねばならない。この惨忍な地獄から美しき冬の菊を奪い、その花に祝福という言葉を添えねばならない。

 「お綺、その刀は、」と鳩司がいった。

 「ああ、普通のか、」と一人で納得している彼に「模造刀だ」と答える。「莫迦か!」と歎くので「問題ない」と返す。

 「寒菊さまを救うのだ、どんな悪霊も、帯でだって斬ってやる」

 父上が初めて愛してくれなくとも、己の情念で真剣にしてやる。私は、なんとしても寒菊さまを救わねばならない。今の私の命は、そのためにある。勝利を収めた無傷な体は、寒菊さまの願いのためにある。

 「綺」と鳩司の強い声に呼ばれ、瞬間、足をぶつけた木枠が派手な音を立てて破れた。直後、寒菊さまは私を抱きしめてくれた。「藍さんがくる」と鳩司が叫んだ。

 襖は乱暴に開いた。藍一郎さまが忌まわしげに苦い笑いを滲ませる。私はその鋭い眼を見つめながら寒菊さまに背を向けた。

 「くそ、親爺の奴、下らぬもんばかり拾ってきやがって」とその低い声が吐き捨てた。

 「なぜ邪魔をする!」と激しい憎悪が怒鳴った。「綺、手前、それの正体は知っているだろう」

 「我々の主です」

 彼は舌を打つと「藍」と足元を揺らすような声で彼女を刀にした。左手で鞘を受け取った直後、いやに慣れた手つきで刀を抜いた。

私はこの男の過去に何者かを切ったことがあるのを察した。正真正銘の悪霊だと、心底軽蔑する。感情に軽々しく全てを委ね、刀を抜き、力を振り翳す。愚か者だ。

 「今なら許す、その化け物を置いて失せろ」

 「やめて下さい」と寒菊さまの声が叫んだが、「黙れ」と遮られた。

 「綺、その化け物を置いて失せろ」

 「断ります」と答えた直後、左手に持っていた刀が重くなった。

 父上——!

 私は迷わず刀を抜いた。彼の足がこちらへ進んだのを認め、私は一気に間合いを詰める。とにかく少しでも寒菊さまから離れねばならない。

 振り下ろされた刀身を受けても、刀は欠けなかった。私はかつて感じたことのない喜びを知った。父と共に、戦っている。父と同じ戦場に立っている!

 「愚者が舐めた面しやがって」と厭わしげな声がいった。それさえ喜びに變わる。父の存在は私に余裕を与え、それが相手を威圧する。なんという快感か!

 私は舞でも踊っているような心地になった。

 ああ父上、もっと早くに私がこうして貴方に認められていたなら、私は今尚、貴方の掌のぬくもりを享受できていたでしょうか。

 父上、私は修正の利かぬこの人生で、貴方の役に立ったことがあったでしょうか。

 父上、私は貴方の娘にふさわしい女でしょうか。

 ああ父上、私の愚行をどうかお許し下さりませ。貴方と戦いたい一念で生きた愚かな十七年を、どうかお許し下さりませ。

 ああ父上、父上、——父上!

 私の手が振る父の輝きが、相手の藍色の柄を舞わせた。切先は畳に突き刺さった。私は咄嗟に刀身の向きを變え、彼の首に当てた。

 「死にますか」と問うと、相手は「それも悪くない」と微笑んだ。