後日、菊臣の部屋を訪ねた。菊臣は無邪気に迎えた。
「今日は散歩はないのか」と尋ねると、一瞬、菊臣の表情が強張った。「ええ、」と答える声も心持ちかたい。
「なあ菊臣」と、努めて冷静に呼びかけた。「父上と、この頃どんな話をした」
弟の眼にはわかりやすく警戒の色が宿った。俺の声にもまた、あちらには感じ取れるなにかが含まれていたのだろう。
「兄上は気にしなくていいのですよ」といわれ、細い精神は昂った。「どんな話をした」と促した声は脅迫めいていた。
「兄上は、母上の件で變わってしまわれました。……父上はそれを憂えて、僕にここを渡すと仰ったのです」
それを合図に起こした行動はあまりに愚かだった。自分の感じた絶望を最愛の弟へ押しつけようとした。菊臣を絶望させることが、その魂を暗闇の中に放り出すことが、その瞬間、俺の義務だった。
なんとしても、菊臣からここを継ぐ気力を奪わねばならなかった。精神力の全てをかけて、偽りを吐いた。小さな体に刻み込んだ。
菊臣の怯えた姿を見て、感情の火の穂が消えそうになった。どうか今だけは耐えてくれと願った。もう二度と、お前を危険に曝したりしない。眼の奥に化け物の姿が蘇る。
「兄上がそんなだから、父上は僕に家を托したのです」と菊臣は声を上げた。
「藍」の名を叫んで切りつけたのは、弟の気力か、化け物の幻像か。
ただ一つ確かなのは、なにより愛おしい実弟が、腹から血を流していることだった。
押しつけたはずの絶望は少しもここを離れてはいなかった。それは恐怖と、全てを差し出してでも叶えたい願いを呼んだ。足を縺れさせながら、幾度も足元へ手をつきながら走った。一助、一助、一助——!
寺の正面まではまだ遠いところから彼の名前を叫んだ。空気は、吸えば出ていき、吐けば必要以上に飛び込んでくるようだった。喉が焼けるようだった。肌がべったりしていた。
一助、といっているはずなのに、ただ喚くような声が聞こえた。震える脚は力を失い、見っともなくへたれ込んだ。
視界の隅に一助の、足だったか服の裾だったかを認め、「菊臣を」と叫んだ。
「菊臣が、」どうしたのだ、とでもいおうとしたのだろうが、一助の声は続かなかった。体の強張るまま握りしめてきた刀が、鮮血に濡れて転がっていたからだ。
「菊臣を助けて」と叫んだ声のほとんどは独り言になった。俺がいうより先に、一助が菊臣の元へ走ってくれたからだ。
菊臣を絶望させようと考えた理由など、もはや念頭になかった。自分が菊臣を切りつけたという事実だけが、体の内も外も支配していた。弟の血に塗れた刀身を、自分の腹にでも突き立てようと思った。
絶望に震える手で、刀を寄せた。優しいものがその動きを封じた。「放せ」と喚いた俺に、一助の声は「菊臣は無事だよ」といった。
「痕は残ってしまうかもしれないけれどもね、問題ないよ」
途端に、なにもいらなくなった。菊臣さえ無事であればなにもいらない。化け物を飼うだけのこんな家なら、絶やしてしまえばいい。
そうでなければ、俺が形だけ継いで、世に蔓延る化け物を一掃する。菊臣の安全だけは、なんとしても確保する。
化け物に捧ぐ贄なんぞ、俺の憎しみくらいだ。喰らいたければ喰らえばいい。醜く愚かしく、穢らわしく喰らえばいい。
あれらに対する憎しみならば尽きることもない。醜い貪慾な化け物共の腹も満たされることだろう。いや、満ちるまで付き合ってやるさ。満ちて破裂するまで、付き合ってやる。
最期の餌だ、絶品を喰わせてやる。人間さまに感謝して、醜く醜く、くたばれ。
「今日は散歩はないのか」と尋ねると、一瞬、菊臣の表情が強張った。「ええ、」と答える声も心持ちかたい。
「なあ菊臣」と、努めて冷静に呼びかけた。「父上と、この頃どんな話をした」
弟の眼にはわかりやすく警戒の色が宿った。俺の声にもまた、あちらには感じ取れるなにかが含まれていたのだろう。
「兄上は気にしなくていいのですよ」といわれ、細い精神は昂った。「どんな話をした」と促した声は脅迫めいていた。
「兄上は、母上の件で變わってしまわれました。……父上はそれを憂えて、僕にここを渡すと仰ったのです」
それを合図に起こした行動はあまりに愚かだった。自分の感じた絶望を最愛の弟へ押しつけようとした。菊臣を絶望させることが、その魂を暗闇の中に放り出すことが、その瞬間、俺の義務だった。
なんとしても、菊臣からここを継ぐ気力を奪わねばならなかった。精神力の全てをかけて、偽りを吐いた。小さな体に刻み込んだ。
菊臣の怯えた姿を見て、感情の火の穂が消えそうになった。どうか今だけは耐えてくれと願った。もう二度と、お前を危険に曝したりしない。眼の奥に化け物の姿が蘇る。
「兄上がそんなだから、父上は僕に家を托したのです」と菊臣は声を上げた。
「藍」の名を叫んで切りつけたのは、弟の気力か、化け物の幻像か。
ただ一つ確かなのは、なにより愛おしい実弟が、腹から血を流していることだった。
押しつけたはずの絶望は少しもここを離れてはいなかった。それは恐怖と、全てを差し出してでも叶えたい願いを呼んだ。足を縺れさせながら、幾度も足元へ手をつきながら走った。一助、一助、一助——!
寺の正面まではまだ遠いところから彼の名前を叫んだ。空気は、吸えば出ていき、吐けば必要以上に飛び込んでくるようだった。喉が焼けるようだった。肌がべったりしていた。
一助、といっているはずなのに、ただ喚くような声が聞こえた。震える脚は力を失い、見っともなくへたれ込んだ。
視界の隅に一助の、足だったか服の裾だったかを認め、「菊臣を」と叫んだ。
「菊臣が、」どうしたのだ、とでもいおうとしたのだろうが、一助の声は続かなかった。体の強張るまま握りしめてきた刀が、鮮血に濡れて転がっていたからだ。
「菊臣を助けて」と叫んだ声のほとんどは独り言になった。俺がいうより先に、一助が菊臣の元へ走ってくれたからだ。
菊臣を絶望させようと考えた理由など、もはや念頭になかった。自分が菊臣を切りつけたという事実だけが、体の内も外も支配していた。弟の血に塗れた刀身を、自分の腹にでも突き立てようと思った。
絶望に震える手で、刀を寄せた。優しいものがその動きを封じた。「放せ」と喚いた俺に、一助の声は「菊臣は無事だよ」といった。
「痕は残ってしまうかもしれないけれどもね、問題ないよ」
途端に、なにもいらなくなった。菊臣さえ無事であればなにもいらない。化け物を飼うだけのこんな家なら、絶やしてしまえばいい。
そうでなければ、俺が形だけ継いで、世に蔓延る化け物を一掃する。菊臣の安全だけは、なんとしても確保する。
化け物に捧ぐ贄なんぞ、俺の憎しみくらいだ。喰らいたければ喰らえばいい。醜く愚かしく、穢らわしく喰らえばいい。
あれらに対する憎しみならば尽きることもない。醜い貪慾な化け物共の腹も満たされることだろう。いや、満ちるまで付き合ってやるさ。満ちて破裂するまで、付き合ってやる。
最期の餌だ、絶品を喰わせてやる。人間さまに感謝して、醜く醜く、くたばれ。