食器を爨に返し、私はあの日、鳩司と共に歩いた長い長い廊下を進んだ。窓からは、雨水に濡れた冬の菊が夜闇に揺れる行燈の光に咲いているのが見える。冬菊——寒菊。

 派手な絵の描かれた戸を薄く開き、寺の方の廊下に出たところ、向かいにある襖が開き、寒菊さまが出てきた。

暗い鼠色の無地の服を着ている。天井を見上げる眼の奥には葛藤が揺れている。

 「寒菊さま、」と呼ぶと、彼は驚いた顔でこちらを見た。「綺さん、」という声はいつものように穏やかだけれども、やはり疲れが滲んでいる。

 寒菊さまの頬が燃えるように赤くなっているのに気づき、思わず息を吸い込むと、寒菊さまはさっと自らの脣の前に指を立てた。大股でこちらへくると、私の肩を押して宿の方の廊下へ出て戸を閉めた。

 「どうかしましたか」と訊かれても、旦那さまに会いたくてと答えるのは誠でありながらあまりに無作法で、「すみません」と頭を下げる。

 「お顔は、どうなされたのですか」近くで見てみれば、口元には血が滲んでいる。

 「不思議なことはありませんよ」という穏やかな声に、生意気に苛立ちを覚える。

 「誰ですか。菊臣さま、藍一郎さま?」

 「綺さんも御存知でしょう、私のこと」

 半妖(こんけつ)ということか、次期当主ということか。

 「私は半妖です。しかし、藍一郎は、菊臣は?」

 人間、という言葉が浮かんだとき、取り返しのつかないところまできてしまったと自覚した。三人兄弟のうち二人は人間、一人が半妖。その意味するところはわからない。ただ、色は、においは、わかる。

 「私は嫡子でなければ庶子というわけでもありません」

 では——。

 「紛い物です」と寒菊さまはいった。「本来、私はこちら側の者ではありません。旦那さまに拾って戴いたのなら、宿屋の方で働くべきなのです。それが家督を継ぐといっているのです、どこの嫡子が黙っていますか」

 「しかし、これはあんまりです。帖に診てもらいましょう」

 私は生意気に、寒菊さまの細くもしっかりした手首を、親指と中指を一寸近く離れたまま精一杯攫み、引いて歩いた。

 菊臣さまと藍一郎さまの姿が交互に脳裏に浮かぶ。どちらだ。いっそのこと家内で騒動でも起こせばいいのだといっていた菊臣さま。奪われる者が愚かなのだといっていた藍一郎さま。

どちらが、ここまでしている。確かに家は嫡男が継ぐものになっている。然ればとて乱暴な形で排除しようというのは違うだろう。

 ものの魂にさえ触れられるこの時代、刀を抜くのは、力をぶつけるのは、悪霊のようなもの。