廊下の掃除を済ませて玄関の前へ移ると、寒菊さまが狐の尾を揺らした女性と、真っ白な大きな犬と共に歩いてきた。

彼の顔を見て、今朝の菊臣さまの気持ちがわかった。私も、「寒菊さま」と呼んで玄関へ駆け込んでしまった。藍さんに打たれた頬の感覚が蘇る。

 「お疲れ様」というのんびりとした声に、頭を下げる。

 「寒菊さま、お顔が……」

 「ああ、代償だよ」と彼は穏やかにいう。

 「いつまでも過去に縋っている、皆に迷惑をかけている代償」

 「……今、(じょう)を」

 鳩司と同室といっていたなと思い出しながら足へ籠めた力が「いいんだ」という声に抜けた。

 「僕は深い傷を負わせた」

 「はい?」

 「今は二人を探すことが先決なんだよ。礼も償いも、そのあとだ」

 「二人、」

 寒菊さまが探している家族というのは、二人もいるのか。

 「あら、寒菊さま」と声がして、見れば廊下に藍さんがいた。

「今日もお出かけですか」と穏やかに含みのある笑みを浮かべる。

 白い犬が唸るように喉を鳴らす。「止しなさい」と寒菊さまの微かな声が聞こえ、静かになった。

 「それなら早めに出られた方がいいですよ。陽が高く昇ってしまってからでは、日没が早いですから」

 「ええ、そうします」と寒菊さまは穏やかに答える。

 「皆、いつも悪いね」という声に、気のせいといってしまえばそれまでのような、微かな棘があった。

 「では綺さん、なにかあれば菊臣にでも話して下さいね」と、どこへ向けられた冷たさか、穏やかな声がひんやりと響いた。私はただ頷くように頭を下げることしかできない。

 玄関を出た寒菊さまを、藍さんは「お気をつけて」と見送る。

 三人が門を出たあと、藍さんは玄関を飛び出してきた。私の髪を鷲攫みにして、壁へ押しつける。

 「手前、藍一郎さまの次は寒菊か。身の程を知りなさい、手前に似合う者なぞここにはおらぬ」

 「たまたまお会いしたので御挨拶をと」

 「手前に返す声も言葉もありはしない。手前は人間でありながら居場所を失ったのだ、それがどれほど惨めなことか」

 頭の皮の引き張られる痛みを感じつつ、気になったことを投げかけてみる。

 「なぜ、寒菊さまを呼び捨てにするのです」

 髪を攫む力が強くなる。私は情けない声を飲み込んだ。

 「あれはこの屋敷の毒だ。この屋敷を破滅に導く悪霊よ」

 「……人間では、ないから、ですか」

 藍さんは瞼をこれでもかと開いた。「化け物!」と昂奮した叫びが鼓膜を叩くように響く。

 「寒菊さまは、寒菊さまです」

 「手前はなにも知らぬから然様な暢気なことがいえるのだ」

 「確かに私は、なにも知りません。ここのことも、寒菊さまのことも。ただ、寒菊さまは化け物ではありません」

 「手前もこれには気づいているのだろう、彼奴は人間ではない。だがあやかしでもない。ではなんだ、然様な存在を俗に化け物という」

 「どうして、人間かあやかしでないといけないのですか。あやかしは人の姿を得て、それを活かして生活します。人間はそんなあやかしの力を借りて生活することがあります。人間、あやかし、その間に在る魂は、なぜ、蔑まれるのですか」

 「あれらは出生から、さらにはその以前から異様な存在なのだ。人があやかしと? なんて悍ましい」

 「なぜ、そんなに自身を否定なさるのです」

 藍さんの眼の光に鋭さが増す。その光だけで負傷しそうだ。

 「藍さんは藍一郎さまを愛しておられるのでしょう。藍さんは寺の方に奉納された刀と聞きました。刀の魂が人間の藍一郎さまを想う、藍さんは、それを否定したいのではないですか」

 「全ては手前のせいだ。手前さえここにこなければ、藍一郎さまの御心が掻き乱されることもなかった。手前は寒菊と共に、この屋敷を滅ぼすであろう」

 「私は、藍さんの幸福を願っております」

 左頬に衝撃があった。痛みに気づいたときには、藍さんの姿は見えず、足音だけが聞こえていた。