部屋に戻ると、美傘が「遅かったね」といった。「そうかな」ととぼけて蒲団に入った。

 まだ起床には早いという頃、浅い眠りを繰り返していた私は蒲団を出た。提燈に火を入れると「大丈夫?」と声がして、「外の空気を吸ってくる」と答える。

 玄関を出てしばらく歩くと、仄青い静寂の中に灯火が揺れているのが見えた。近寄ってみると、その火のそばにしゃがんでいた人物がこちらを振り返った。反射的に頭を下げる。

 「お綺さんですね」と、紫菊を追いかけていた声がした。

 「菊臣さま」

 彼はぼんやり照らされた顔いっぱいを驚きの色に塗り潰し、立ち上がってこちらに寄ってきた。

 「顔が腫れています」と、打たれたところに手が触れる。いわれてみれば、まだ熱を持っているような、感覚がおかしいような気もする。

 「冷やさないと」という慌てた声に、その手を掴む。「大したものではありません」というと、「そんなはずはない」と彼はいう。

 「この暗がりでもわかる、真っ赤になっている」

 「いいのです」としつこく止めると「なにがあったのです」と菊臣さまはいった。

 うまいいい訳が見つからず「大したことではないのです」と答える。

 「誰かとうまくいっていないのですか。それなら、僕にだってなにか、」

 「いいのです。へたに転んでしまったのです。……恥ずかしくて、いえなかったのです」

 私は「菊臣さまはなにをなさっていたのですか」といってみる。

 彼はなにかいいたそうにしてから、「なんだか寝つけなくてね」といった。

 「ここでの菊とは、なんなのだろうと思って」と、背後に広がる菊を見る。

 「父も僕も、菊の名を持っている。庭にはこんなにも多くの菊が咲いている。これではまるで……」

 ゆるゆると振られた首に「まるで」と訊いてみると「詛いのようだ」と菊臣さまは静かにいった。

 「逃れることのできない使命のようだよ」

 「旦那さまはどのようなお方なのですか」

 「優しい人、だと思っています。家族への愛が強い人だと。ただ、直接話すことをあまりしない人なので、ちょっと拗れているところがあるのです」

 不躾だとわかりながら、「たとえば」と尋ねる。

 「寒菊のこと、とかね」

 「寒菊さま」

 「僕はどうすべきかわからない。父が、寒菊が——みんながなにを望んでいるのか、わからないんだ」

 どこか湿った沈黙が漂い、「藍さんは」といってみる。

 「寒菊さまのことがお嫌いなのでしょうか」

 菊臣さまがはっと息を吸い込むのが聞こえた。沈んだ沈黙を「僕のせいなんだ」と小さな声が揺らす。

 「この家の詛いは、全部僕のせいなんだ」

 「そんなことは」

 「いっそ、家内で騒動でも起こせばいいんだ。でもそうした先で着くそこに、その自分がふさわしいと思えない」

 なにがなんだかわからないが、菊臣さまはかなり悩んでいるらしい。

旦那さまと寒菊さまといえば、それぞれ大旦那さま、若旦那さまと呼ばれているのを聞いたし、なにより藍一郎さまが寒菊さまを次期当主だといったので、当主と次期当主だ。

旦那さまと寒菊さまの関係が縺れているのだろうか。家内での騒動というのは、そういうことか。ただ出しゃばって爭って当主になっても、菊臣さまはそんな自分を認められないと、そういうことだろうか。

 ただ、今は藍さんの話をしていたはずだ。藍さんは藍一郎さまに仕えている様子で、その彼女が寒菊さまを好ましく思っていない。

ではまさか、家族全員で家督の座を争っているというのか。

皆それぞれ腹の中に黒い感情を飼っているだけの今、いっそのこと、自分が騒動の種に火をつけてしまえば、皆で力を出し切り勝って負けて、文句をいう者もいなくなる、菊臣さまはそう考えているのだろうか。