夜、廁へ入ろうとしたとき、体がぐらりとしてどこかに叩きつけられた。肩が痛い。倒れるほど寝呆けてはいなかったはずだと思いながら瞼を開くと、満月の薄明かりの中に見憶えのある鋭い光があった。

 「藍さん」なるほど、私は藍さんに押さえつけられたらしい。足はべったりと地についている。壁に押しつけられているのだ。

 「御機嫌、如何ですか」

 「あまりよくないです」と素直に答える。いかんせん肩が痛い。

 「どうしたんです、こんなところまで」

 「調子に乗るんじゃないよ。手前と藍一郎さまの間にはなにもない、身の程を弁えよ」

 「なんのことですか」

 いや、わかっている。藍一郎さまに私はふさわしくない。第一、私には人を愛するゆとりがない。藍さんは、私の穢れた算段を見抜いているのだろう。

 「藍一郎さまのそばにあることを認められたのはこの私だ。ゆえに藍一郎さまのお名前から一字取って、藍と名づけられた。手前にはなにがある。藍一郎さまは手前になにを差し出した」

 肩を押さえつける手にさらに重みが加わる。これまでしなくとも逃げはしない。それは藍さんもわかっているだろうに、これは彼女の感情の重みなのだろう。

 私は「なにも」と短く答える。私が藍一郎さまに差し出されたものは、なにもない。

 「当然ね。藍一郎さまは手前に差し出せるような粗悪なものなぞ持っておられない」

 「そうでしょう」

 「ではなぜ、藍一郎さまに近づく。見苦しいと思わないか」

 「近づいているつもりはありません」

 藍さんはかっと見開いた瞼の中にありたけの嫌悪を宿し、私の頬を打った。父の背を追い、覚悟といいながら求めていた痛みに比べれば大したものではない。

それなのに、その衝撃に対する感情は今までで最も強い。痛みというのはこういうものだったと思い出すような心地でさえある。

いつしか、私は痛みを痛みと感じなくなっていた。それを父に近づいている証しとして、喜んだ。まめができるたび、潰れるたび、その痛みが成長を告げているものだと思ったのだ。

父に近づいている、私も父と共に戦える、その一歩を、今踏んだ。そのように思った。痛みはある種の幸福だった。

それが、今回は違う。この痛みはなにも生まない。父はいない。追いかけるものはない。戦場に立ったとして、そこに父はいない。痛みに強くなったところで、刀を握ることはできない。

武家の娘という立場は、秋風に溶け、飲まれ、過去へ過去へと連れ去られた。未來へ向かっているのは私の中でのみ、それを思い出させるだけだった。

 「藍一郎さまから手前に近づいているというのか」

 「気を配って下さっているのです」

 「藍一郎さまの御心労を増やすな。手前がきてから、藍一郎さまは變わってしまわれた。手前が變えてしまったのだ」

 この疫病神、と藍さんは叫んだ。

 私は脣を嚙む。痛みが、どうしようもなくつらい。虚しさに響く痛みは、こんなにも哀しみを伴うものなのか。

 父上——。

 一度でいいから、共に戦いたかった。世のための痛みを味わいたかった。父上と同じ痛みを、味わいたかった。

 疫病神、紛い物、紛い物——。

 下等な存在として押しつけられ、疑うことも理解することもないまま貪る痛みではなく、対等な存在として張り合い、押しつけ押しつけられ、味わい、まみれ、溺れる、果てしない喜びと共存する痛みを、一度でいいから味わいたかった。