紅さまと暮らし始めて、三日目の夜。
 私は、いけないとわかっていたのに……不安になってしまって……不安を、言い出してしまった。
 地面についた肘で頬杖をつくように横になり、毎晩私が寝つくまで話をしてくれて、見守ってくれる紅さまに。

「紅さま。いつまで、ご滞在されるのですか。……私は怖いのです」
「何が怖い。話せるならば、話してみてくれ」

 紅さまはこういうとき、とても優しい顔をしてくれる。
 だから……耐えなくては、ならないのに……私の声は、震えてしまう。

「この幸せがなくなってしまうことが。また、ひとりぼっちに戻ってしまうことが」
「硯……」
「いずれは、ゆかねばならないのであれば、早く……行っていただいたほうが……」

 ぼろりと涙が出てきたことに、私は驚いた。

 私の涙なんて、とっくに涸れたと思っていた。
 だって清にどれだけ罵られても、土下座を強要されても、笑われても。
 生みの両親が私の存在を否定して、私を子どもと認めないと公言していても。
 村人たちにどれだけ軽蔑されても、唾を吐かれても、折檻をされても。

 涙など、とうのむかしに出なくなっていたのだから。

「長くいっしょにいればいるほど、別れがつらくなりそうです。……だから」
「……すまない。俺は意気地なしだな。……想いを伝えるのがこんなに大変だとは」

 紅さまは、身体を起こして座る。
 そして、ぎこちなく――私の頭に、手を載せた。

「俺の真名を教えよう」
「真名……ですか?」
「そうだ。真名だ。俺たちあやかしは、真名を非常に大事にする。あやかしの真名を知る者は、そのあやかしを支配できるから」
「支配……」
「たとえば戦っているときに真名を呼ばれれば、力が相手に支配されてしまう。だから、俺たちは真名を本当に信頼できる相手にしか教えない。……害することはこれまでこれからも決してないと、誓える相手にしか教えない。……俺が真名をみずから伝えるのは、弟の他には初めてだ」
「そんな大事なもの、私なんかに……」
「硯だからだ。――俺の真名は紅瞳(べにひとみ)という」
「紅瞳、さま……」

 美しい響きの名前だと思った。美しい彼に、ぴったり。

「俺は硯とずっといっしょにいるつもりだ」
「……でも、そんなことは、無理です」
「無理ではない。……明日の夜には、伝えよう」

 紅さまは、美しく微笑む。

「願いがある。……これからは、紅、と呼んでくれないか」
「でも……」

 失礼だ……そう思ってしまう恐怖から、逃れられなくて。

「失礼です……私などが、やはり」
「硯の立場はこの村の者たちが決めたもの。俺はこの村の者ではない。だから、失礼ではない。まったく失礼などではない。……このまま、さま付けをされてしまうほうが俺は悲しい」
「そうなのですか?」
「……硯と少しでも近づきたい。どうか、紅と呼んでみてくれ。硯」
「……べ、べに……」

 さま、とどうしても言いそうになってしまう。
 でも、私がこのひとを呼び捨てにしただけで、このひとは、本当に本当に嬉しそうだから……。

「……紅、と、お呼びしますよ、本当に。よいのですか……」
「もちろん」

 私は、ついに折れてしまった。……なんだか、このひとにはかなわない。

 座敷牢には月光もほとんど入らず暗いのだけれど、わずかには月明かりが入ってきていることに、私は気がついた。
 月明かりは、今宵は私に優しい。
 だれかがそばにいてくれる夜は、こんなにも生きていたくなる……。