目の前に大きな病院が聳え立っていた。
鷹野病院は救急医療などには対応していない、療養型の病院だ。療養型の病院は長期的な治療を目的としており、何年も入院する人が多い。寝たきりの患者を受け入れる施設でもあるという。
海殊の知り合いには寝たきりの人などいないので、到底自分に関係がある場所とは思えなかった。
だが、本の中にここのメモ書きがあった。『記憶の片隅に』の本は新品のものを買った上、誰かに貸した記憶もないので、赤の他人のメモ書きが混ざっているとは考えにくい。おそらく自分に関する誰かが、この病院の中にいるのだ。
その記憶はない。だが、何故か胸の高鳴りが収まらなかった。緊張感と高揚感が同居していて不思議な気持ちだ。海殊自身が、ここに自分に関する誰かがいるのだと教えてくれている様にも思えた。
海殊は一度深呼吸をしてから、鷹野病院に足を踏み入れた。
看護師に場所を訊こうかとも思ったが、誰の面会に来たのかと尋ねられたら答える術がない。怪しまれて摘まみだされてしまう危険があったので、自分で探すしかないだろう。
院内案内の看板を見ている限り、建物は大きいが棟がいくつもあるわけではない。療養病棟へ行って、メモ書きにある病室に行くだけで済みそうだ。
(行って知らない人だったらどうする?)
今更ながら、躊躇する。さすがに誰がいるのかわからない病室に行くのは緊張が過ぎる。
だが、せっかくここまできたのだ。病室の前の名札だけでも見れば、知人かどうかくらいわかるだろう。
メモには五〇三号室と書かれていたので、エレベーターで五階に向かった。
エレベーターには、お婆さんとお見舞いにきたであろう親子と一緒に乗った。入院施設独特の色んなものが混ざった臭いがエレベーターの中に入ると一気に濃くなって、咽返りそうになる。
どうしてこんなに入院病棟は不健康な臭いがするのだろうか、と考えてみたが、健康な人なら入院なんてしないか、とすぐに思い至った。
五階に辿り着くと、親子のお父さんの方が『開く』のボタンを押してくれていたので、海殊はぺこりと頭を下げて先に降りた。
廊下では入院患者達が点滴を携えたまま歩いていたり、看護師さんが歩き回っていたりと忙しない。何より、思った以上にザ・病院という空間で、海殊は思わずたじろいでしまった。
病院にいるので当たり前なのだが、親族とも特に付き合いがない彼にとっては、これほど病院らしい空間にくる機会が人生に於いて殆どなかったのである。
(名札を見るだけ、見るだけ……)
そう自分に言い聞かせつつ、若干挙動不審ながらも病棟内を進んでいった。
五〇三号室は建物の端っこの方らしいので、その分緊張が長引く。すれ違うお婆さんがどういうわけか会釈をしてくれたり、ご丁寧に看護師さんも「こんにちは」と挨拶してくれたりするものだから、その度に不審人物と疑われるのではないかと冷や冷やした。
尤も、他の患者さんや看護師さんからすれば、海殊が誰のお見舞いにきたのかなど知る由もないのだが、それでも慣れていないのだから緊張はしてしまう。
そうして遂に五〇三号室の前に辿り着いた。ドアの横のネームプレートを恐る恐る見やると……その瞬間、ごくりと自分が固唾を飲んだのがわかった。
そこにあった名前は──柚木琴葉。女性の名前だった。
(女性、なのか……? でも、何でこの名前に既視感があるんだ? それに、何なんだ……この変な感じは)
柚木琴葉という女性に心当たりはなかった。初めて見た名前であるはずだ。
だが、それにも関わらず、何故かその名前を見ただけで海殊は泣きそうになってしまった。胸がぐわっと熱くなって、口元が震えている。
そのネームプレートを見たまま立ち尽くしていると、病室入口扉の曇りガラス窓に人影が近付いてきて、ガラガラと引き戸が開けられた。
病室から出てきたのは、春子と同じくらいの年齢の女性だった。綺麗な女性だ。だが、顔はやつれ、どこか疲れている感じがする。
おそらく病室の前で立ちすくんでしまっていたのが中からも見えて、不審に思って出てきたのだろう。
「あの、どうかしま──あら!」
引き戸を開けて目が合った瞬間、海殊が言い訳を考えるより早くにその女性は顔を輝かせた。
疲れて薄まった顔色に、少し生気が戻った様にも思える。
「滝川さん、でしたよね? お見舞いに来て下さったんですね……!」
その女性は柔和に微笑むと、「どうぞ」と部屋へ入る様に促してくれた。
何かがおかしい、と海殊は感じた。海殊からすれば、この女性は初対面のはずだ。
しかし、この女性は海殊を知っていた。そして、ここの場所を知っていて当然という様に接している。病室の場所も、この中に誰がいるのかも海殊が知っていて当然と言わんばかりの接し方だった。
「あ、あの……」
「ああ、いいんですよ。気なんて遣わなくて。お見舞いに来てくれただけで嬉しいんですから。それにしても、去年の夏頃ですから、随分久しぶりですねー」
海殊の困惑を他所に、その女性は話し続けた。思ったより口数が多く親し気なので、戸惑いを隠せない。
しかし、これだけはわかった。海殊と彼女は、話した事があるのだ。それも、結構な親密具合で。
少なくとも、彼女は海殊がここに来た事を心から喜んでくれていた。それは間違いない。
「あ、もう卒業式は終わったんですよね? 娘も同じ日に高校を卒業できたら良かったのですが」
「むす、め……?」
その言葉に、どくんと心臓が大きく高鳴って、次の瞬間はっとする。
記憶の片隅に、嫣然とした笑みを浮かべている可愛らしい女の子が一瞬だけ映ったのだ。この女性と同じ青み掛かった瞳をしていて、黒髪の可愛らしい女の子。その子が自分の名を呼んでいる気がしたのである。
「是非顔も見てやって下さい。ちょうどさっき髪を洗って顔も拭き終わった後なので、男の子に見られても大丈夫だと思います。滝川さんが知っているこの子とは少し変わってしまっているかもしれませんが」
今も可愛らしい寝顔をしてるんですよ、とその女性は微笑んだ。
促される様にして病室に入ると、海殊はおそるおそる奥へと進んで行く。
そして、彼の視界に入ってきたのは──病床で横たわったままの少女だった。長い黒髪の少女は眠ったまま、胸を上下させてすーすーと小さく寝息を立てている。
「あっ……ああっ……」
声にならない声が、海殊の口から漏れていた。
初めて会うはずの少女なのに、初めてではないと彼の身体が覚えていたのだ。
昨年の夏から、何かが欠けている様な日々を送っていた。虚無に近い感情を抱いていた。その正体が彼女だったのだ。
自分の人生から彼女が欠けていて、だからこそ何をしても満ち足りなかった。彼女を見た瞬間に、それを確信してしまったのである。
ふらふらとした足取りで、海殊はベッドに近づいていく。そして、顔を覗き込んだ瞬間、頭の中で何かが弾けた。
『私の事は……もう忘れていいよ』
少女の涙声と共に最後の言葉が蘇って、失われていた記憶がフラッシュバックしていく。彼女との色々な想い出が、まるで映画の回想シーンの如く頭の中を駆け巡った。
雨の日の公園で少女が佇んでいた事、困っていたその少女を放っておけずに家に連れ帰った事、それから数週間だけ一緒に暮らしてデートもした事、一緒に台風の日の川に飛び込んで子猫を助けた事、二人きりで外泊をして星空の下でキスをした事、そして最後に二人で花火を見た事……その全てを想い出したのである。
どうして実家に彼の知らぬ小物が沢山あったのか、どうしてそれを見て悲しくなるのか、どうしてチャーハンに限って作るのが上手くなっていたのか、それはもはや明白だった。彼女との想い出がそこにあったからである。
この子とは確かに初めて会ったはずだ。だが、海殊はこの子を知っていた。知っていて当然なのだ。
彼が大好きで、人生で初めて誰かを愛していると実感できた人なのだから。
「琴葉……琴葉ぁッ!」
彼女の名を口にした瞬間、海殊は泣き崩れた。
「琴葉、ごめん……ごめん!」
眠っている彼女の手を取って、ただ彼女の名を呼んで謝る事しかできなかった。
「俺、絶対に忘れないって誓ってたのに……琴葉!」
忘れないと誓った筈だった。だが、『忘れていいよ』と言われた瞬間に全てを忘れていたのだ。
それはもしかすると、本来なかった事だからかもしれない。彼女はあの場にいるはずがなくて、彼女と過ごした日々も本来有り得ないものだったのだから。
だが、それでも忘れたくなかった。例えまやかしでも、幻でも、琴葉を好きだった事には変わりないのだから。
「え、滝川さん!? どうし──」
いきなり見舞いにきた娘の同級生が泣き崩れたので、琴葉の母・明穂も慌てたのだろう。しかし、海殊に駆け寄ったその時、その明穂は不自然に言葉を詰まらせた。
「嘘……⁉」
明穂が愕然として呟いたので、海殊も怪訝に思って顔を上げて彼女の方を見た。
「琴葉が、涙を……!」
明穂は信じられないという様な顔をして、手を震わせて琴葉を指差した。
その指先を追って琴葉の方を見ると、眠ったままのはずの彼女の頬に、涙が伝っていた。無論、まだ意識が戻っているわけではない。だが、海殊から何かが伝わって、彼女も彼と同じ気持ちでいてくれたのだ。
「ああっ、琴葉! 琴葉!」
明穂が縋りつく様にして、ベッドに横たわる娘に抱き着いて感泣した。
それはもはや大号泣に近いものだった。娘の回復を信じて疑わず、諦め様としなかった明穂の苦渋が報われた瞬間でもあったのだ。
そこからは三人で喜びの涙を流して……という状況にはならなかった。いきなり病室から大きな声と泣き声が聞こえてきたので、慌てて看護師が駆け込んできたのだ。そして、涙している琴葉を見るや否や看護師も大慌てで医師を呼んで、それからすぐに緊急検査の流れとなった。
てんやわんやのまま琴葉は検査室に連れて行かれてしまい、感動の再会はそう長くは味わえなかった。だが、それよりももっと良い事があった。誰もが未来を諦めていた少女に、回復の兆しが見えたのだ。
海殊は明穂と一緒に、検査の結果が終わるのを検査室の前で待っていた。その間、明穂が昨年にあった事を少しだけ話してくれた。
昨年の夏以降から一切琴葉の脳波に反応がなくなってしまって、もう回復の見込みは絶望的だと医師から告げられたそうだ。医療費の事もあるし、脳死認定をして延命治療を終わらせる事も勧められた。それは奇しくも、夏の花火大会があったあの日だった。
しかし、明穂は娘の回復を諦められなかった。夏に唐突に家を訪れた『娘に一目惚れをした』と告げた同級生の為にも諦めたくなかったし、不慮の事故のせいで娘の未来が完全に閉ざされてしまうなど、認めたくなかったのだ。
医師の言う通り医療費の事もあり、いつまでも入院を継続できるわけではない。だが、本当にどうにもならなくなるまで、最後のその瞬間まで娘の回復を信じて待ってみようと決意したそうだ。
「二人は……会った事があるんですね。ここじゃない、どこかで」
話終えた時、明穂がぽそっと呟いた。
それはまるで現実的ではない言葉だ。だが、彼女はそれを確信している様だった。
「……はい」
海殊は少しだけ躊躇したが、もう隠す必要はないかと思い、話す事にした。
きっと、他の誰かに話しても絶対に信じられないし、何なら海殊の頭の心配をされるだろう。だが、この奇跡を前にした明穂ならば、それを疑う様な真似はしないと思ったのだ。
「ほんの数週間だけでしたけど……あいつと一緒の時間を過ごしていました。一緒に学校に行ったり、デートをしたり、花火を見に行ったり……去年の夏は、たくさんあいつと想い出を作ったんです」
「そうだったんですね。納得です」
明穂は微笑んでから、小さく頷いた。
予想通り、彼女は海殊の言葉を何も疑わなかった。この奇跡を前にしては、それを信じざるを得なかったのだろう。いや、きっと二人のその時間があったからこそ生じた奇跡なのだと思っているのかもしれない。
「もしよかったら、聞かせてくれませんか? あなたの知る娘の事を。もちろん、話せる範囲の事で構いませんから」
「はい……是非!」
それから海殊は検査が終わるまでの間、琴葉との想い出について話した。
明穂はその話を真剣に聞いてくれていた。相槌を打ちつつ時折驚き、時折笑い、そして涙ぐみながら。
海殊の知る琴葉は、明穂の知る琴葉よりも積極的で驚いた様だ。自分に残されていた時間が少ない事を何となく察していた琴葉は、後悔がない様に生きようと思ったのだろう。いや、最後の最期まで、彼女は『生きる』という事を諦めなかったのかもしれない。だからこそ、記憶からは消えても海殊の中で琴葉は生き続け、今日という奇跡を起こしたのだ。
それから数時間を経て、検査結果が出た。
検査結果は『植物状態からの回復の見込みあり』。それを聞いた瞬間、海殊と明穂がもう一度泣き崩れたのは言うまでもない。
「本当にこれは奇跡です……いやはや、人間の脳というのは全く以て我々の想像を超えています。まだまだ勉強不足ですね」
担当医はそう苦笑いを浮かべながらも、素直にその回復を喜んでくれていた。それと同時に延命治療の終了を促した事を悔いていて、何度も明穂に謝っていた。
検査室から戻ってきた琴葉は既に涙も収まり、またすやすやと安らかな寝息を立てながら眠りについていた。眠っているのは同じだが、いつもより顔色が良いと明穂が言っていたので、本当に回復の兆しが見えてきたのだろう。その確信が海殊にも持てた。
「あの……俺、これからも見舞いに来ていいですか? こいつが目覚めるまで、できるだけ毎日来たいんです。俺にできる事があれば、何でも手伝います」
「滝川さん……ええ、もちろんです。宜しくお願いしますね」
明穂は迷わず海殊のその願いを聞き入れた。
きっと彼女も、自分と同じ願いを持つ者に出会えた事が嬉しかったのだろう。暗く疲れ切っていた表情に、輝きが戻った様に思う。
こうして、この日を境に海殊の新しい生活は、予想もつかない形で開幕した。
消えてしまった女の子との日々を想い出し、その女の子との想い出を作り直す日々が始まろうとしている。
琴葉がいつ目覚めるのか、それは誰にもわからない。半年後なのか、一年後なのか、それとも三年後なのか、五年後なのか。それはきっと、途方もない時間だろう。
それでも海殊は、ずっと琴葉が目覚めるまで待ち続けようと思っていた。そうでなければ、彼女と過ごした日々を思い出した意味がないからだ。
明穂が渡してくれたメモを見つけて、吸い寄せられる様にしてこの病院に辿り着いた。それはまるで、琴葉に誘れている様でもあった。
いや、違う。
記憶にないどこかで、海殊自身がそれを望んでいたのだ。
それは『この世界が琴葉を拒絶したとしても、お前と過ごした夏は絶対に忘れない』という強い想いと誓い。その想いと誓いが、こうした奇跡を生んだのである。
思い返してみれば、奇跡は過去に何度も起きていた。そもそも、琴葉と過ごしていたあの夏そのものが奇跡に他ならない。
ここまで来れたら、もう何だってできる気がした。
そして、彼女が目覚めるという確信も持っていた。眠ったままの琴葉の手を握っていると、彼女の手のひらからその未来を感じ取れたのだ。
海殊が少し手のひらを握ってやると、それに応える様にして指がほんの少しだけ動く。海殊の決意に、彼女が応えようとしてくれている様に思えて、それだけで嬉しかった。
「なあ、琴葉。俺、待ってるからさ。目覚めて元気になったら……また楽しい想い出たくさん作ろうな」
琴葉の寝顔に、そう語り掛ける。
その時の彼女の寝顔は、ほんの少しだけ微笑んでいるかの様だった。
これまでは、奇跡に頼り切っていた。
この奇跡は琴葉が起こしたのか、或いは人ならざるものが起こした奇跡なのかはわからない。
だが、こうして再び再会できて、記憶も戻ったのならば……後はもう、海殊と琴葉の問題だ。
少ないながらにできる事をやって、海殊は琴葉の回復を信じて待つしかないし、彼女もきっとそれに応えようと頑張ってくれるに違いない。
その日が訪れるまで、何日でも何か月でも何年でも待とう。
海殊はその安らかな寝顔に、そう誓ったのだった──。
鷹野病院は救急医療などには対応していない、療養型の病院だ。療養型の病院は長期的な治療を目的としており、何年も入院する人が多い。寝たきりの患者を受け入れる施設でもあるという。
海殊の知り合いには寝たきりの人などいないので、到底自分に関係がある場所とは思えなかった。
だが、本の中にここのメモ書きがあった。『記憶の片隅に』の本は新品のものを買った上、誰かに貸した記憶もないので、赤の他人のメモ書きが混ざっているとは考えにくい。おそらく自分に関する誰かが、この病院の中にいるのだ。
その記憶はない。だが、何故か胸の高鳴りが収まらなかった。緊張感と高揚感が同居していて不思議な気持ちだ。海殊自身が、ここに自分に関する誰かがいるのだと教えてくれている様にも思えた。
海殊は一度深呼吸をしてから、鷹野病院に足を踏み入れた。
看護師に場所を訊こうかとも思ったが、誰の面会に来たのかと尋ねられたら答える術がない。怪しまれて摘まみだされてしまう危険があったので、自分で探すしかないだろう。
院内案内の看板を見ている限り、建物は大きいが棟がいくつもあるわけではない。療養病棟へ行って、メモ書きにある病室に行くだけで済みそうだ。
(行って知らない人だったらどうする?)
今更ながら、躊躇する。さすがに誰がいるのかわからない病室に行くのは緊張が過ぎる。
だが、せっかくここまできたのだ。病室の前の名札だけでも見れば、知人かどうかくらいわかるだろう。
メモには五〇三号室と書かれていたので、エレベーターで五階に向かった。
エレベーターには、お婆さんとお見舞いにきたであろう親子と一緒に乗った。入院施設独特の色んなものが混ざった臭いがエレベーターの中に入ると一気に濃くなって、咽返りそうになる。
どうしてこんなに入院病棟は不健康な臭いがするのだろうか、と考えてみたが、健康な人なら入院なんてしないか、とすぐに思い至った。
五階に辿り着くと、親子のお父さんの方が『開く』のボタンを押してくれていたので、海殊はぺこりと頭を下げて先に降りた。
廊下では入院患者達が点滴を携えたまま歩いていたり、看護師さんが歩き回っていたりと忙しない。何より、思った以上にザ・病院という空間で、海殊は思わずたじろいでしまった。
病院にいるので当たり前なのだが、親族とも特に付き合いがない彼にとっては、これほど病院らしい空間にくる機会が人生に於いて殆どなかったのである。
(名札を見るだけ、見るだけ……)
そう自分に言い聞かせつつ、若干挙動不審ながらも病棟内を進んでいった。
五〇三号室は建物の端っこの方らしいので、その分緊張が長引く。すれ違うお婆さんがどういうわけか会釈をしてくれたり、ご丁寧に看護師さんも「こんにちは」と挨拶してくれたりするものだから、その度に不審人物と疑われるのではないかと冷や冷やした。
尤も、他の患者さんや看護師さんからすれば、海殊が誰のお見舞いにきたのかなど知る由もないのだが、それでも慣れていないのだから緊張はしてしまう。
そうして遂に五〇三号室の前に辿り着いた。ドアの横のネームプレートを恐る恐る見やると……その瞬間、ごくりと自分が固唾を飲んだのがわかった。
そこにあった名前は──柚木琴葉。女性の名前だった。
(女性、なのか……? でも、何でこの名前に既視感があるんだ? それに、何なんだ……この変な感じは)
柚木琴葉という女性に心当たりはなかった。初めて見た名前であるはずだ。
だが、それにも関わらず、何故かその名前を見ただけで海殊は泣きそうになってしまった。胸がぐわっと熱くなって、口元が震えている。
そのネームプレートを見たまま立ち尽くしていると、病室入口扉の曇りガラス窓に人影が近付いてきて、ガラガラと引き戸が開けられた。
病室から出てきたのは、春子と同じくらいの年齢の女性だった。綺麗な女性だ。だが、顔はやつれ、どこか疲れている感じがする。
おそらく病室の前で立ちすくんでしまっていたのが中からも見えて、不審に思って出てきたのだろう。
「あの、どうかしま──あら!」
引き戸を開けて目が合った瞬間、海殊が言い訳を考えるより早くにその女性は顔を輝かせた。
疲れて薄まった顔色に、少し生気が戻った様にも思える。
「滝川さん、でしたよね? お見舞いに来て下さったんですね……!」
その女性は柔和に微笑むと、「どうぞ」と部屋へ入る様に促してくれた。
何かがおかしい、と海殊は感じた。海殊からすれば、この女性は初対面のはずだ。
しかし、この女性は海殊を知っていた。そして、ここの場所を知っていて当然という様に接している。病室の場所も、この中に誰がいるのかも海殊が知っていて当然と言わんばかりの接し方だった。
「あ、あの……」
「ああ、いいんですよ。気なんて遣わなくて。お見舞いに来てくれただけで嬉しいんですから。それにしても、去年の夏頃ですから、随分久しぶりですねー」
海殊の困惑を他所に、その女性は話し続けた。思ったより口数が多く親し気なので、戸惑いを隠せない。
しかし、これだけはわかった。海殊と彼女は、話した事があるのだ。それも、結構な親密具合で。
少なくとも、彼女は海殊がここに来た事を心から喜んでくれていた。それは間違いない。
「あ、もう卒業式は終わったんですよね? 娘も同じ日に高校を卒業できたら良かったのですが」
「むす、め……?」
その言葉に、どくんと心臓が大きく高鳴って、次の瞬間はっとする。
記憶の片隅に、嫣然とした笑みを浮かべている可愛らしい女の子が一瞬だけ映ったのだ。この女性と同じ青み掛かった瞳をしていて、黒髪の可愛らしい女の子。その子が自分の名を呼んでいる気がしたのである。
「是非顔も見てやって下さい。ちょうどさっき髪を洗って顔も拭き終わった後なので、男の子に見られても大丈夫だと思います。滝川さんが知っているこの子とは少し変わってしまっているかもしれませんが」
今も可愛らしい寝顔をしてるんですよ、とその女性は微笑んだ。
促される様にして病室に入ると、海殊はおそるおそる奥へと進んで行く。
そして、彼の視界に入ってきたのは──病床で横たわったままの少女だった。長い黒髪の少女は眠ったまま、胸を上下させてすーすーと小さく寝息を立てている。
「あっ……ああっ……」
声にならない声が、海殊の口から漏れていた。
初めて会うはずの少女なのに、初めてではないと彼の身体が覚えていたのだ。
昨年の夏から、何かが欠けている様な日々を送っていた。虚無に近い感情を抱いていた。その正体が彼女だったのだ。
自分の人生から彼女が欠けていて、だからこそ何をしても満ち足りなかった。彼女を見た瞬間に、それを確信してしまったのである。
ふらふらとした足取りで、海殊はベッドに近づいていく。そして、顔を覗き込んだ瞬間、頭の中で何かが弾けた。
『私の事は……もう忘れていいよ』
少女の涙声と共に最後の言葉が蘇って、失われていた記憶がフラッシュバックしていく。彼女との色々な想い出が、まるで映画の回想シーンの如く頭の中を駆け巡った。
雨の日の公園で少女が佇んでいた事、困っていたその少女を放っておけずに家に連れ帰った事、それから数週間だけ一緒に暮らしてデートもした事、一緒に台風の日の川に飛び込んで子猫を助けた事、二人きりで外泊をして星空の下でキスをした事、そして最後に二人で花火を見た事……その全てを想い出したのである。
どうして実家に彼の知らぬ小物が沢山あったのか、どうしてそれを見て悲しくなるのか、どうしてチャーハンに限って作るのが上手くなっていたのか、それはもはや明白だった。彼女との想い出がそこにあったからである。
この子とは確かに初めて会ったはずだ。だが、海殊はこの子を知っていた。知っていて当然なのだ。
彼が大好きで、人生で初めて誰かを愛していると実感できた人なのだから。
「琴葉……琴葉ぁッ!」
彼女の名を口にした瞬間、海殊は泣き崩れた。
「琴葉、ごめん……ごめん!」
眠っている彼女の手を取って、ただ彼女の名を呼んで謝る事しかできなかった。
「俺、絶対に忘れないって誓ってたのに……琴葉!」
忘れないと誓った筈だった。だが、『忘れていいよ』と言われた瞬間に全てを忘れていたのだ。
それはもしかすると、本来なかった事だからかもしれない。彼女はあの場にいるはずがなくて、彼女と過ごした日々も本来有り得ないものだったのだから。
だが、それでも忘れたくなかった。例えまやかしでも、幻でも、琴葉を好きだった事には変わりないのだから。
「え、滝川さん!? どうし──」
いきなり見舞いにきた娘の同級生が泣き崩れたので、琴葉の母・明穂も慌てたのだろう。しかし、海殊に駆け寄ったその時、その明穂は不自然に言葉を詰まらせた。
「嘘……⁉」
明穂が愕然として呟いたので、海殊も怪訝に思って顔を上げて彼女の方を見た。
「琴葉が、涙を……!」
明穂は信じられないという様な顔をして、手を震わせて琴葉を指差した。
その指先を追って琴葉の方を見ると、眠ったままのはずの彼女の頬に、涙が伝っていた。無論、まだ意識が戻っているわけではない。だが、海殊から何かが伝わって、彼女も彼と同じ気持ちでいてくれたのだ。
「ああっ、琴葉! 琴葉!」
明穂が縋りつく様にして、ベッドに横たわる娘に抱き着いて感泣した。
それはもはや大号泣に近いものだった。娘の回復を信じて疑わず、諦め様としなかった明穂の苦渋が報われた瞬間でもあったのだ。
そこからは三人で喜びの涙を流して……という状況にはならなかった。いきなり病室から大きな声と泣き声が聞こえてきたので、慌てて看護師が駆け込んできたのだ。そして、涙している琴葉を見るや否や看護師も大慌てで医師を呼んで、それからすぐに緊急検査の流れとなった。
てんやわんやのまま琴葉は検査室に連れて行かれてしまい、感動の再会はそう長くは味わえなかった。だが、それよりももっと良い事があった。誰もが未来を諦めていた少女に、回復の兆しが見えたのだ。
海殊は明穂と一緒に、検査の結果が終わるのを検査室の前で待っていた。その間、明穂が昨年にあった事を少しだけ話してくれた。
昨年の夏以降から一切琴葉の脳波に反応がなくなってしまって、もう回復の見込みは絶望的だと医師から告げられたそうだ。医療費の事もあるし、脳死認定をして延命治療を終わらせる事も勧められた。それは奇しくも、夏の花火大会があったあの日だった。
しかし、明穂は娘の回復を諦められなかった。夏に唐突に家を訪れた『娘に一目惚れをした』と告げた同級生の為にも諦めたくなかったし、不慮の事故のせいで娘の未来が完全に閉ざされてしまうなど、認めたくなかったのだ。
医師の言う通り医療費の事もあり、いつまでも入院を継続できるわけではない。だが、本当にどうにもならなくなるまで、最後のその瞬間まで娘の回復を信じて待ってみようと決意したそうだ。
「二人は……会った事があるんですね。ここじゃない、どこかで」
話終えた時、明穂がぽそっと呟いた。
それはまるで現実的ではない言葉だ。だが、彼女はそれを確信している様だった。
「……はい」
海殊は少しだけ躊躇したが、もう隠す必要はないかと思い、話す事にした。
きっと、他の誰かに話しても絶対に信じられないし、何なら海殊の頭の心配をされるだろう。だが、この奇跡を前にした明穂ならば、それを疑う様な真似はしないと思ったのだ。
「ほんの数週間だけでしたけど……あいつと一緒の時間を過ごしていました。一緒に学校に行ったり、デートをしたり、花火を見に行ったり……去年の夏は、たくさんあいつと想い出を作ったんです」
「そうだったんですね。納得です」
明穂は微笑んでから、小さく頷いた。
予想通り、彼女は海殊の言葉を何も疑わなかった。この奇跡を前にしては、それを信じざるを得なかったのだろう。いや、きっと二人のその時間があったからこそ生じた奇跡なのだと思っているのかもしれない。
「もしよかったら、聞かせてくれませんか? あなたの知る娘の事を。もちろん、話せる範囲の事で構いませんから」
「はい……是非!」
それから海殊は検査が終わるまでの間、琴葉との想い出について話した。
明穂はその話を真剣に聞いてくれていた。相槌を打ちつつ時折驚き、時折笑い、そして涙ぐみながら。
海殊の知る琴葉は、明穂の知る琴葉よりも積極的で驚いた様だ。自分に残されていた時間が少ない事を何となく察していた琴葉は、後悔がない様に生きようと思ったのだろう。いや、最後の最期まで、彼女は『生きる』という事を諦めなかったのかもしれない。だからこそ、記憶からは消えても海殊の中で琴葉は生き続け、今日という奇跡を起こしたのだ。
それから数時間を経て、検査結果が出た。
検査結果は『植物状態からの回復の見込みあり』。それを聞いた瞬間、海殊と明穂がもう一度泣き崩れたのは言うまでもない。
「本当にこれは奇跡です……いやはや、人間の脳というのは全く以て我々の想像を超えています。まだまだ勉強不足ですね」
担当医はそう苦笑いを浮かべながらも、素直にその回復を喜んでくれていた。それと同時に延命治療の終了を促した事を悔いていて、何度も明穂に謝っていた。
検査室から戻ってきた琴葉は既に涙も収まり、またすやすやと安らかな寝息を立てながら眠りについていた。眠っているのは同じだが、いつもより顔色が良いと明穂が言っていたので、本当に回復の兆しが見えてきたのだろう。その確信が海殊にも持てた。
「あの……俺、これからも見舞いに来ていいですか? こいつが目覚めるまで、できるだけ毎日来たいんです。俺にできる事があれば、何でも手伝います」
「滝川さん……ええ、もちろんです。宜しくお願いしますね」
明穂は迷わず海殊のその願いを聞き入れた。
きっと彼女も、自分と同じ願いを持つ者に出会えた事が嬉しかったのだろう。暗く疲れ切っていた表情に、輝きが戻った様に思う。
こうして、この日を境に海殊の新しい生活は、予想もつかない形で開幕した。
消えてしまった女の子との日々を想い出し、その女の子との想い出を作り直す日々が始まろうとしている。
琴葉がいつ目覚めるのか、それは誰にもわからない。半年後なのか、一年後なのか、それとも三年後なのか、五年後なのか。それはきっと、途方もない時間だろう。
それでも海殊は、ずっと琴葉が目覚めるまで待ち続けようと思っていた。そうでなければ、彼女と過ごした日々を思い出した意味がないからだ。
明穂が渡してくれたメモを見つけて、吸い寄せられる様にしてこの病院に辿り着いた。それはまるで、琴葉に誘れている様でもあった。
いや、違う。
記憶にないどこかで、海殊自身がそれを望んでいたのだ。
それは『この世界が琴葉を拒絶したとしても、お前と過ごした夏は絶対に忘れない』という強い想いと誓い。その想いと誓いが、こうした奇跡を生んだのである。
思い返してみれば、奇跡は過去に何度も起きていた。そもそも、琴葉と過ごしていたあの夏そのものが奇跡に他ならない。
ここまで来れたら、もう何だってできる気がした。
そして、彼女が目覚めるという確信も持っていた。眠ったままの琴葉の手を握っていると、彼女の手のひらからその未来を感じ取れたのだ。
海殊が少し手のひらを握ってやると、それに応える様にして指がほんの少しだけ動く。海殊の決意に、彼女が応えようとしてくれている様に思えて、それだけで嬉しかった。
「なあ、琴葉。俺、待ってるからさ。目覚めて元気になったら……また楽しい想い出たくさん作ろうな」
琴葉の寝顔に、そう語り掛ける。
その時の彼女の寝顔は、ほんの少しだけ微笑んでいるかの様だった。
これまでは、奇跡に頼り切っていた。
この奇跡は琴葉が起こしたのか、或いは人ならざるものが起こした奇跡なのかはわからない。
だが、こうして再び再会できて、記憶も戻ったのならば……後はもう、海殊と琴葉の問題だ。
少ないながらにできる事をやって、海殊は琴葉の回復を信じて待つしかないし、彼女もきっとそれに応えようと頑張ってくれるに違いない。
その日が訪れるまで、何日でも何か月でも何年でも待とう。
海殊はその安らかな寝顔に、そう誓ったのだった──。