「はあ……今日からここが俺の家になるのか」

 海殊はがらんとした部屋を眺めて、そう独り言ちた。
 先程引っ越し業者に荷物を運んでもらい、新たな住処に荷運びを終えたところだ。
 新たな住処といっても、それほど大層なものではない。どこにでもある、六畳一間でロフト付きのワンルームアパートだ。
 駅から徒歩一〇分と少し離れているが、近くにコンビニもあって、閑静な住宅街にある事から、喧噪さもない。快適な暮らしが待っている事に間違いなさそうだ。
 海殊は高校を卒業し、大学進学を期に一人暮らしを始める事にしたのだ。念願の国立大に受かり、来月からはキャンパスライフが始まる。
 大学は家からそれほど離れていなかったので、実家から通う事も可能だった。だが、春子には無理を言って、二年でいいから一人暮らしをさせて欲しいと頼み込んだのである。
 人生経験として一人暮らしをしておきたい、大学の一年と二年は必修科目が一限に集中している事から大学の近くに住みたい、などと色々なそれらしい理由を述べると、春子は意外にも簡単に承諾してくれた。条件は一つだけで『週に一度は家に帰ってくる事』だった。

(ほんとは……もうちょっと帰る頻度を減らしたいんだけどな)

 そう心の中で漏らすも、我儘を通してもらっている手前、条件を飲むしかない。
 海殊が一人暮らしをしたかった理由は、朝の早起きが不安な事でもなければ、人生経験の為でもなかった。
 ただ、家から少し離れたかったのだ。生まれてから十八年暮らしてきたあの家にいるのが、急に辛くなってしまったのである。
 理由はよくわからない。家が嫌いなわけでも、母親が鬱陶しいわけでもなかった。強いて言うなら、家のところどころにある"身に覚えのないもの"、が原因と言えるかもしれない。
 親子諸共いつ買ったのか記憶にない可愛らしい小物の数々や、ファンシーな洗面台のグッズ、それにいつからか飼い始めていた猫のきゅー……それらを見ていると、何故か寂しさと悲しさを感じてしまう様になっていたのだ。
 不思議な事に、それらの小物を捨てようとは思わなかったし、猫のきゅーもいつしか懐く様になっていたので、可愛らしく思っていた。
 ただ、何故かそれらを見ていると、時折とてつもなく悲しくなって、泣きたくなってしまうのだ。そう思ってしまう原因については全く心当たりがないにも関わらず。
 ただ、あの家を辛く思う明確な原因があるわけではない。少しの間家から離れればそれらの感情を抱かなくなるかと思い、一人暮らしを申し出たのである。無論、そんな理由までは春子には言えやしないのだけれど。

「さて、と……んじゃ、さっさと荷解きしますか」

 積み上がった段ボールを見て、もう一度溜め息を吐く。
 それほど荷物は多くないにせよ、この荷解きというものは面倒だ。どこに何を置くか、という事を考えながら出していかないといけない為、ただ段ボールに詰めれば良いだけの荷造りよりも遥かに面倒臭い。

「祐樹達に手伝いに来てもらえばよかったな。どうせ春休み暇してるんだろうし」

 段ボールのガムテープを剝がしながら、まずは物を出していく。荷造りの時に面倒になって適当に詰め込み過ぎて、どこに何が入っているのかさっぱりわからなかったのだ。
 ちなみに祐樹達友人もそれぞれ別々の大学に受かり、それぞれがそれぞれの進路へと進んでいた。今はまだ大学が始まっていないのでやり取りを頻繁にしているが、来月になればきっとそれも殆どなくなるのだろう。

「えーっと? これはここで、フライパンは……」

 段ボールから調理器具を出していって、ふとフライパンを見て手が留まった。

「……今日、チャーハンでも作るか」

 そして、何故かそんな事を思ってしまう。
 これも自分の中で不思議な事だった。海殊はあまり料理が得意な方ではないのだが、ことチャーハン作りにかけては何故か上手くなっていたのだ。
 いつどこでチャーハン作りを学んだのかさえ、記憶にない。だが、春子も絶賛する程の腕を自分でも知らない間に身につけていたのである。海殊自身も、外で食べるチャーハンよりも自分のものの方が美味しいとさえ思っている。

(なんか、夏ぐらいから不思議な事があるよな)

 家の至る所で身に覚えのない小物の数々が増えたのも、きゅーが飼われていたのも、チャーハン作りが上手くなったのも、全て夏休みが始まるかどうかといった時期の出来事だ。
 そして、不思議と言えば、海殊自身にも不思議な事があった。なんと彼は花火大会の穴場スポットに一人で行っていて、一人で泣いていたのである。春子によると、その前日にも海殊は一人でキャンプ場のコテージに行っていたのだという。
 確かにそのコテージにひとりで行った記憶はあるのだが、どうして終業式をサボってまで行こうと思ったのか、動機が全くの不明だった。振り返ってみれば、昨年の七月の自分の行動はあまりにも謎だった。

(受験前で追い詰められていたのかな)

 その時期にあまり追い詰められていた記憶はないのだが、そうとしか思えなかった。
 実際は追い詰められていたというよりは虚無感に襲われていたのだけれど、それの理由もよくわからなかった。その虚無感から逃れる為に勉強をしていたといっても過言ではない。
 その御蔭で大学には難なく受かったのだが(ちなみに推薦はダメだった)、高校最後の一年はあまり良い想い出がなかった。

(あー……これは本か。また本棚に本並べ直すの面倒だよなぁ)

 海殊は大きく溜め息を吐いて、本がぎっしりと入った段ボール箱を見下ろした。
 本棚に関してはそのまま実家から持ってきているので、中身を詰め込むだけだ。ただ、順番などや読み直す本、そして大学に入ってから使うであろうスペースなどを考えながら詰めるとなると、これまた面倒な作業だった。

(引っ越し、もうしたくねえなぁ)

 自分から言い出したくせに、早速後悔している海殊である。
 段ボールの中の本を一冊一冊、作者名や作品名を見ながら並べていく。その際、ふと一冊の本が目に留まって、海殊は「あっ」と声をあげた。
 それは『記憶の片隅に』という映画原作になった小説だ。昨年の夏に映画も公開され、映画館にわざわざ見に行ったのである。

(あれ……? 一人で見に行った、んだよな?)

 ふとその時の記憶を探っていると、隣に誰かがいた気がしなくもない。それと同時に、ドキドキしていた心地よい鼓動を少し思い出す。

「いやいや、こんな恋愛映画を一緒に見に行く友達いないし……って、あれ?」

 そう自分にツッコミを入れて、その本を本棚に入れようとした時である。一切れのメモ用紙が本の隙間からはらりと落ちた。
 その紙を手に取ってみると、そこには病院名と病室が書いてある。誰かの手書きだが、誰の文字かはわからない。少なくとも海殊や春子の字ではなかった。

「鷹野病院って、ここの近くじゃないか」

 メモに書かれていた病院は、海殊が住むアパートから歩いて二〇分もしないところにある大きな病院だ。大きさから鑑みて、病床数も多そうだ。
 ただ、そんな事はどうでもよかった。自分の人生には関係ないはずの病院だ。
 だが、このメモを見てから、海殊は妙な胸のざわつきを覚えていた。うなじのあたりの毛穴が広がって妙にぴりぴりして、不自然にそわそわしてくる。
 それと同時に、何か大切な事を忘れている感覚が襲ってきた。昨年の夏によく陥っていた感覚だ。
 気付けば海殊は、そのメモを財布に入れて部屋を飛び出していた。
 何を忘れているのか、そしてこの病室に誰がいるのかはわからない。ただ、居ても立っても居られなくなってしまったのだ。
 それはまるで、身体の全ての細胞がここへ行けと自分に命じている様でもあった。