「……似合ってる?」

 琴葉は自分の姿を全身鏡で見ながら、海殊に訊いた。
 そこには春子の浴衣を身に纏った琴葉の姿があった。淡い青色を基調とした、シャボン玉風の模様がある浴衣だ。
 シャボン玉が描かれているものの、決して子供っぽくなく大人仕様なデザイン。まだ高校生の琴葉には少し大人っぽ過ぎるのではないかと思ったが──髪を結ってうなじを出せば、恐ろしいほどの色気が出ていて、思わず固唾を飲んでしまった。

「もう。ぼーっとしてないで何か言ってよ」

 見惚れて言葉を失っていた海殊に、琴葉が呆れた様にして言った。

「ご、ごめん。あんまりにも可愛過ぎてさ……」
「ほんと?」
「この世界に誓って」
「うわあ。海殊くん、ちょっと気障(きざ)だよ」

 そうして茶化しているものの、琴葉は顔を少し赤らめて嬉しそうにはにかんでいた。どうやらその気障な言い回しが気に入っているらしい。

「じゃあ、行こうか。穴場スポットまで少し距離があるから、そろそろ出ないと」

 海殊は壁に掛けられた時計を見て言った。
 花火の打ち上げまでにはまだ時間があるが、穴場スポットまでは少し距離がある。先程調べた感じでは、軽く一時間弱程はかかりそうだ。

「忘れ物はないか?」
「うん」

 琴葉が元気に頷いて、手に持った巾着袋を見せた。
 この巾着袋も春子の浴衣セットの中に入っていたものだ。あとは、浴衣の色に合わせた草履を履けば問題ない。
 草履を履いてから家を出る前に、きゅーが玄関まで見送りにきた。心なしか、寂しそうにみゃーみゃー鳴いている。
 琴葉は一瞬泣きそうな顔になると、それを隠すようにきゅーを抱き上げて頬擦りした。

「元気でね……きゅーちゃん。ちゃんと海殊くんとも仲良くね?」

 そして、涙声でそう呟く。それはまるで永遠の別れの様な言葉だった。
 海殊はその言葉には気付いていたが、何も触れなかった。いや、触れたくなかった。二人の世界が終わる事など、信じたくなかったのだ。
 別れを済ませた琴葉はきゅーをゲージに入れると、そっと海殊の手を握ってきた。そのまま二人して、手を繋いだままスポットへと向かう。
 道中の会話は何もなかった。
 ただ迫りくる世界の終わりを覚悟する様に、ただ死を待つ様に、その時を待つ。
 こうして手を繋いでいられるのは、あと何時間くらいなのだろうか。それとも、もう一時間もないのだろうか。
 海殊にはわからなかったが、琴葉の方は自分の身体の事なので何となくわかるのだろう。先程よりも海殊を握る手に力が入っていた。
 穴場スポットは本当に穴場というべき場所で、少し行き難い場所だった。車も入れないし、少し山道を登らないといけないしで、浴衣の琴葉は少し大変そうだった。

「足、大丈夫か?」
「うん。草履だから助かっちゃった」

 琴葉の足場を気にしてやりながら、ゆっくりとその山道を登っていく。
 二〇分程その山道を登った頃だろうか。ようやくスマートフォンの地図マップが目的地の到着を告げた。
 その場所はまさしく穴場スポットというべき場所で、街を見渡せる高台にあって、山の中にある木々の隙間から花火の全景を見れる様になっていた。行き難い場所であるからかして、周囲にも人がいない。まさしく、二人きりの場所だ。

「着いたね」
「ああ。打ち上げ時間にギリギリ間に合ったってところかな」

 スマートフォンのデジタル時計を見ると、打ち上げ時刻の五分前だ。
 海殊がシャツで汗を拭っていると、琴葉が巾着袋からハンカチを出して、海殊の首元に当ててくれた。
 俺の事はいいから自分を、と言いかけてから、彼女を見てその言葉を押し留める。
 琴葉はもう、汗すらかいていなかったのだ。
 今は七月の下旬で夕方と言えども気温も高い。結構な山道を登ってきたので、汗をかいていない方がおかしいはずだ。それにも関わらず、彼女の表情は涼しげで、その涼しげな様子は彼女がこの世ならざる者である事を証明している様でもあった。

「お水、飲む?」

 巾着袋から小さなペットボトルを取り出して、訊いてくる。
 海殊は「ありがとう」と言ってそれを受け取って半分ほど飲んでから返すと、彼女もそのペットボトルに口をつけてこくこくと飲んでいた。
 その水を飲み終えると、巾着袋の中にペットボトルを仕舞ってから、もう一度海殊の手を握った。

「暑いね……」

 そう呟く彼女は、どこまでこの蒸し暑さを感じているのだろうか。
 その涼しげな横顔からは、もうそれさえもわからない。ただ、繋いでいる手からは熱が感じられた。
 まだ彼女はここにいる。それは間違いなかった。

「私ね、夏ってほんとはあんまり好きじゃなかったの」

 遠くから花火開始のアナウンスが聞こえてくると、琴葉が話し出した。

「え、何で? 水泳得意なんだろ?」
「水泳が得意だからって夏が好きとは限らないよ」

 琴葉は呆れた様な顔をして、眉を下げた。

「それに、泳ぐのが得意だったってだけで、競技としての水泳が好きかっていうとそうじゃなかった気もするし」

 だから高校は水泳部がないところに入ったんだと思う、と彼女は付け足した。
 海殊達が通う高校にはプールがないので、水泳部どころか水泳の授業もない。高校では水泳を続ける気がなかったのだろう。

「で? 何で夏があんまり好きじゃなかったんだ?」
「だって、暑いんだもん」

 そのままの理由過ぎて海殊がぷっと吹き出すと、琴葉もくすくす笑っていた。

「でも……今は夏が好き。こんな風に暑さを感じられるのも、暑いって思えるのも……それは意識があるからなわけで。本当の私は、もう暑さも寒さも感じられないから」

 海殊が彼女の名を呼ぼうとした時に、花火が上がり始めた。
 夏の夜空に火の華が打ち上がって、「わあ、始まったよ」と感嘆の声を上げて海殊の方を向いた。その瞳は輝いていて、本当に夏が好きになったというのが伝わってくる。

「それに……好きな人と過ごせた夏は、凄く素敵だったから。これで暑いのがやだって言ってたら……罰当たりだよ」

 琴葉は穏やかに微笑んでから顔を伏せると、海殊の腕に自分のそれを絡ませた。

「海殊くんはね……私にとって救世主だったよ」
「大袈裟だな。俺はただの高校生だぞ」

 琴葉は小さく首を振ると、「そんなことない」と花火をその瞳に映しながら言った。

「何の説明もなくこの世界に放り出されて途方に暮れてたところに、手を差し伸べてくれたんだもん。それからも親切にしてくれるし、困ってたら助けてくれるし……好きになるなっていう方が、無理だよ」
「俺だって……何の下心もなしに、手を差し伸べたわけじゃないよ」

 海殊がそう返すと、「そうなの?」と琴葉は少し驚いてから「それは……ちょっと嬉しいかも」とはにかんだ。

「初めておうちに行った時……本当は凄く緊張してたんだよ? 男の子の家なんて初めてだったし、おばさんにどう説明するんだろうとか、私は他の人に見えるのかなっていう不安とかもあったし……でも、おばさんも優しくて、あったかくて……」

 一瞬だけ言葉が途切れて、彼女が小さく鼻を鳴らした。

「それから毎日一緒に登校したのもね、ほんとは全然慣れなくて。毎日毎日、ドキドキしてた。もし海殊くんと出会ってたら、こうして海殊くんと高校生活送って、好きな本について語り合ってたのかなって思うと、それだけで嬉しくなったし、同時にもうその未来はないんだって思うと……すっごく寂しかった」

 花火は今も夜空に華を咲かせていた。
 どんどん、と低音が大気を震わせて、心臓までその振動が伝わってくる。
 海殊は言葉を返さなかった。いや、返せなかった。何か言葉を発すると、それだけで泣いてしまいそうだったからだ。
 琴葉が我慢しているのに、自分が泣くのはあんまりだ。それはカッコ悪い。海殊は何とかそう自分に言い聞かせて、彼女の言葉に耳を傾ける。

「毎日一緒の家から出て、帰って、一緒に買い物に行って献立考えて……何だか、同棲カップルみたいだなって思って毎日私がドキドキしてたの、どうせ海殊くんは気付いてなかったんでしょ?」
「まあ……うん」
「鈍いもんね、海殊くん」
「ごめん」

 本音を言うと、それは海殊も同じだった。
 唐突に現れた下級生の女の子と毎日一緒に暮らす事になるなど、誰が予想しようか。だが、その生活はドキドキと同時に満ち足りた何かを海殊に(もたら)していたのも事実だった。生まれてからずっと春子と二人だけの生活をしてきたが、そこに初めて彩りが訪れたのである。

「海殊くんとの初デートも……すっごく楽しかった。ちゃんとプラン考えてくれてて、下見までしてくれて……一生懸命考えてくれてるのが伝わってきて、初めて手繋いだ時なんてほんとに幸せだったんだから」

 後半になると、もう涙声になっていた。
 鼻もぐずぐず言っていて、きっともう落涙しているのだろう。それを見ると海殊も我慢できなくなってしまうので、何とか花火を見てやり過ごす。
 だが、いつしかその花火もぼやけはじめていて、夜空を彩る華を楽しむのも難しそうだった。

「きゅーちゃんを助ける為に川に飛び込んでくれたのも、本当の私の事を知ってからも気付いてないふりしてくれてたのも、嬉しかったよ? 海殊くんと出会ってから毎日が幸せで……幸せだから、終わって欲しくなくて。もっと海殊くんと一緒に過ごしたくなっちゃって……」

 琴葉の肩が震えて、俯いたまま繋いでいない方の手の甲で目元を覆った。
 その様子を横目で見た時、海殊の瞳からも堪えていたものが零れ落ちた。
 きっと、もう時間がないのだ。それは身体の持ち主である彼女が一番自覚しているのだろう。それが彼女の手のひらを通して伝わってくるのが、何よりも切なかった。

「海殊くんと一緒に海に行ってみたかった。二人で花火もしたかった。体育祭で海殊くんの応援したかった。文化祭も一緒に回りたかった。紅葉も見に行きたかったし、ハロウィンで一緒に仮装もしてみたかった。雪が降ったら一緒に遊んで、クリスマスは一緒にプレゼント選び合いっこしてケーキを食べて……他にも、バレンタインとかお花見とか……たくさん、したかった事あるのに! もっともっと一緒に色んな事したいのに!」
「琴葉!」

 海殊は正面から向き合うと、彼女を力一杯抱き締めてその名を叫んだ。
 もう我慢などできなかった。感泣しながら彼女を抱き締めて、ただその存在を感じてやる事しか彼にはできなかったのだ。

「俺も同じだよ……! 俺だって、同じ気持ちなんだ。お前としたい事を並べれば、キリがない」

 泣きじゃくる琴葉を抱き締めながら、海殊はそう彼女の耳元で言った。
 何も特別な事などなくてよかった。ただこれまでの様に毎日を琴葉と過ごしたかった。毎日顔を合わせて、一緒に登校して、一緒にお昼や放課後を過ごして、どこかに出掛けたい。それだけだ。それ以上の事など何も望んでいない。
 だが、もうそれすら叶わなくなる。

「海殊くん……好き、大好き……! 離れたく、ないよぉ……」

 琴葉も海殊を抱き締め、必死に気持ちを伝えてくれていた。
 どうにもならない願い。離れないどころか、ただ好きでいる事さえ許されない関係、いや、いつ両者から互いの存在が消えてしまうのかわからない関係……それが海殊と琴葉の関係だった。
 二人共それがわかっていた。だからこそ抱き合いながら、涙を流す事しかできなかったのだ。
 夜空には今もたくさんの華が上がっていた。その低音とパチパチと火花を散らす音が、二人の歔欷(きょき)の声を掻き消していく。
 それから三〇分ぐらい経過した頃、花火会場からは最後の大玉のアナウンスがなされていた。

「次、最後だから……最後の花火くらい、一緒に見よ?」

 琴葉は少しだけ身体を離して言った。
 相変わらず涙声だが、少しは落ち着いている様子だった。

「そうだな……ってか、全然花火見てなかったな」
「ほんとだよ。花火見る為にこんなところまで来てるのに」

 二人は泣きはらした顔で笑みを交わすと、花火が打ち上がる方角へと身体を向けた。
 手はしっかりと繋がれたまま、夜空へと視線を送る。

「昨日の言葉、撤回するね」

 その姿勢のまま、琴葉が唐突にそう言い出した。
 何を、と訊き返そうとして彼女の方を向いた時──海殊は言葉を失った。
 そこにあったのは、あまりに綺麗な笑顔だったのだ。
 きっと、どんなに凄い花火よりも綺麗で儚くて、この世界の『美しい』をどれだけ集めてもこの笑顔には劣るだろうと思えてしまう程の、笑顔。それはきっと、花火の様に散る寸前だからそう見えてしまうのだろう。それを本能的に感じ取ってしまって、再び海殊の瞳からじわりと涙が込み上げてくる。

「私の事は……もう忘れていいよ」

 彼女は瞳から涙を零しながら、こう続けた。

「大好きだよ、海殊くん。幸せになってね」

 彼女がそう言った時に、最後の花火が上がった。そして、その花火が夜空に今夜一番の華を散らした瞬間──先程まで手の中に握られていたものがなくなって、ぽとりと何かが落ちる音がした。

「え……?」

 咄嗟に隣を見ると、そこには"誰か"が持っていたであろう巾着袋だけが、地面に寂しげに取り残されていた。
 周囲を見渡しても、人の姿はどこにもいなかった。海殊は山の中で一人で花火を見ていたのだ。

「あ、ああっ……」

 それを認識した時、海殊はわけもわからず泣き崩れてその巾着袋を抱き寄せた。
 自分の隣に誰かがいた事だけは、何となく覚えていた。その人の事がとても大好きで、とても大切で、きっとずっと一緒にいたいと思っていたはずだ。
 だが、海殊の頭からはその人の事だけがすっぽりと抜け落ちていて、もう顔も思い出せなかった。
 ただただ、悲しい。寂しい。その感情だけが海殊を襲い続けて、泣いている間に何が悲しいのかもわからなくなっていた。
 夏休みの始まりの日は、"何かが終わった日"だった。
 何が終わったのかはわからない。だが、海殊はその夜その場所に留まったまま、声が枯れるまで泣き続けた。