一学期の終業式──それは、海殊が高校生活に於いて二度と『一学期』というものを迎える事がない事を意味していた。高校生で、いや、人生で『一学期』と呼べるものは、二度と味わう事がないのである。
 そんな事も相まって、終業式はもう少し感慨深いものでもあるのかなと思っていたが……実際には特にいつもと変わらなかった。それよりももっと大切なものが、今の彼にはあったからだ。
 幸い、春子は夜勤が長引いているのか、朝になっても帰ってきていなかった。朝方、海殊のスマートフォンに『まだ帰れない』と動物が泣いているスタンプが届いていたところを見ると、帰るのはもう少し後だろう。
 春子は職業柄何かトラブルが舞い込んでいると、それの対応で帰れない事が屡々ある。その度にこうしてスタンプを送ってくるのだ。可哀想だなとは思うが、そういった職を選んでしまったのだから仕方がない。
 そして、春子がそうした職についてくれているからこそ、海殊は何不自由なく暮らせているのだ。海殊は寝起きに『頑張って』とだけ返して、スマートフォンの画面を消した。
 激励の言葉とは裏腹に、今日ばかりは少し春子の不幸に助けられたな、と思ってしまっていた。弱りつつある琴葉を見られた時の言い訳をまだ何も考え付いていなかったのだ。
 そして、今のこの海殊と琴葉の光景の言い訳も。

「手を繋いで登校だなんて……なんだかリア充カップルみたいだね?」

 琴葉は繋がれた手を見てそう言った。恥ずかしそうではあるが、同時に嬉しそうでもある。

「……そうしないと、お前転ぶだろ。昨日もよく躓いてたし」
「うん……ごめんね」

 彼女は顔を伏せて、ぽそりとそう謝った。
 その「ごめん」は一体どこに掛かっているのだろうか。一緒に手を繋いで登校せざるを得ない事を言っているのか、いつもよりペースを落として、琴葉が転ばない様に気遣いながら歩いている事なのか、それともそれを想定して、いつもより十分程家を早く出ている事だろうか。或いは、その全てなのかもしれない。

「別に……俺は、ずっとお前とこうして手を繋ぎたかったから。お前の体調が悪いのを利用してるだけだよ」

 海殊は敢えて、一番最初の理由にだけ触れた。これは彼の本音でもあった。
 恋愛経験のなかった彼は、こうして何か理由がないと手を繋ごうとも言い出せなかったのだ。

「そうなんだ……じゃあ、ラッキーかも」
「は? 何が?」
「私も、ずっと繋ぎたかったから」

 彼女ははにかんで、隣の海殊を見上げた。

「……なら、もっと早く言い出せばよかったな」
「うん。ほんとだよ」

 それから二人の会話はなかった。ただ黙って、この数週間二人で歩いた道のりを歩く。
 祐樹達にこの光景を見られると、なんと言われるだろうか?
 手を繋いで登校している事を突っ込まれるのか──とは言え、彼らは二人が付き合っていると思っているのだけれど──琴葉の身体の調子が良くなさそうな事を心配されるのか、どちらだろう?
 本当の事を言うと、琴葉も無理に学校に行く必要はないのだと思う。彼女とそれについて話したわけではないが、おそらく彼女は海殊が授業を受けている間、一人で過ごしている。
 それも当然だ。彼女は一年生ではないし、彼女が過ごしていたクラスなどないのだから、学校で授業を受ける事などできるはずがないのである。きっと、昼休みや放課後までどこかで本を読むなりして時間を潰しているのだろう。身体の具合が悪いならば、無理に登校する必要はない。
 だが、もしその間に消えてしまっていたら──?
 その可能性を鑑みると、恐ろしくなってつい学校へと連れ出したいと思ってしまうのだ。それに、彼女自身も休むという発想はないらしく、海殊が朝声を掛ける前に制服に着替えていた。おそらく彼女も同じ気持ちなのだ。
 全て判っているのだから、いい加減もう話し合ってみればいいのではないか、とも考えた。
 だが、もしそれを言葉にした瞬間に彼女が消えてしまったらどうしよう、と不安になって、海殊からは話し出せずにいた。こればっかりは、琴葉から話し出してもらわないと、海殊にはどうにもならない。
 ちらりと隣の琴葉を見ると、彼女は何とか遅れない様にと必死に歩いている。握られている手は弱々しく、海殊が力を緩めるとするりと抜け落ちてしまいそうだ。

(こんな状況で、何ができるって言うんだよ)

 海殊は内心で舌打ちをして、こんな過酷な状況を生み出した者を強く憎んだ。
 彼女がここにいるのは、まさしく奇跡だ。だが、そうした奇跡の先にあるのに、あまりに過酷ではないか。誰が引き起こしたのかまではわからないが、何とも腹立たしく思うのだ。

(花火大会は、明日だっけか……)

 琴葉が行きたいと言った花火大会。それは、明日の夜に開催される。浴衣もクリーニングされて綺麗になったものが届くだろう。

(それまで、()ってくれ……)

 彼女が望んだ景色を、見せてやる──こうして弱っていっている彼女を見ていると、もうそれしか海殊にはできる事がないように思えた。