「どうしたんですか……?」
「いえ、すみません……実は」

 ここ最近、娘の容態が良くないんです──明穂はそう続けて、鼻を啜った。
 どくん、と海殊の胸が跳ね上がった。嫌な跳ね上がり方で、何だか不安感がどんどん胸中を覆っていく。
 琴葉の具合が悪くなってきたのは、二週間前。もともと昏睡状態だったのだが、反応がなくなってこのまま目を醒まさないかもしれない、と担当医から説明を受けたのだと言う。

「それって……」
「はい……復帰の見込みがもうないかもしれない、と言われました」
「そん、な……」

 その言葉を聞いた瞬間、海殊の両腕から力がへにゃりと抜けていった。今日こうした絶望を味わうのは、何度目だろうか。もう勘弁してくれと言いたかった。
 これまでは話し掛けていれば何かしら反応を返してくれていたのだが、その反応が日に日に薄れていっているのだと言う。そして、その反応が全くなくなってしまったのが、二週間前……それは奇しくも、海殊と琴葉が出会った頃合いと一致していた。

「それで、考えて下さいって……お医者様からも言われて」
「考えるって……?」
「これ以上の延命治療は、と……」

 明穂は敢えて言葉を濁していた。これに関しては医師もかなり言葉を濁していたそうだ。
 延命治療と尊厳死の問題は、現代医療に於いてもかなり際どい問題だ。医師によっても死生観は異なる上に、宗教的な概念の問題も出てくる。
 だが、延命する以上は入院費もかかるし、ただ生きながらえるだけという問題でもない。生命を維持させるには最低限必要な水分や栄養補給も必要であるし、生命維持装置も必要だ。そこには保護者の負担というものがある。ただ生きながらえて欲しいという気持ちだけではどうにもならない事もあるのだ。

「あの子、高校に入ったらたくさん青春するんだって、言ってたんです。本だけじゃなくて、遊びも恋愛も、もっと色々経験したいって……それなのに、どうしてあの子がッ」

 明穂は両手で顔を覆って、静かにすすり泣いた。
 海殊はそれに対して、何の言葉も掛けてやれなかった。いや、彼は別の事を考えていたのだ。
 どうして琴葉はその状況になってから、海殊の前に現れたのだろうか、と。ただ、その説明も、今の明穂の言葉で説明がつく。
 未練や後悔──そして、それらを払拭する為の、最後の足掻き。琴葉があの日現れたのは、そういった目的があったのではないだろうか。もう自らの意思や自我がそう長く保てないと悟って、最後の抵抗を試みているのでないだろうか。
 無論、そんな確証はない。琴葉にその自覚があるのかさえわからなかった。
 ただ、もしそうなら、彼女の未練を拭い去ってやれるのは、自分だけなのではないか──海殊はその様にも考えていた。
 それから暫く、明穂は静かに泣いていた。きっと、この人はずっとこうして一人で泣いているのだろう。その姿を見ていれば、医師が提案するのもわからなくはない。きっと、もう自分の人生を生きた方が良い、とその医師は明穂に言いたかったのではないだろうか。
 海殊は何も言えず、ただテーブルの上にある紅茶を睨みつける事しかできなかった。どんな言葉を発しても慰めにならない事はわかっていたし、どんな言葉を用意しても自分の心を慰められないのがわかっていたからだ。

「滝川さん、って言いましたっけ……」

 暫く歔欷(きょき)していた明穂が落ち着いたかと思えば、唐突にそう話し出した。

「あなたの御蔭で……決心できました」
「え?」

 決心とは"どっちの"決心だろうか。どうして自分がその決心に関係するのか、さっぱりわからなかった。
 海殊は彼女の言葉の続きを待った。望まぬ方の決心を言われた場合、どう反応すれば良いのかわからなかった。止める権利が自分にあるのかなど、わかるはずもない。しかし、最悪の決断だけは辞めて欲しい。
 暫くの沈黙の後、明穂が言葉を紡いだ。

「まだ娘をそうして覚えてくれている人がいるなら……一縷の望みがあるのなら、最後の最後まであの子を信じてみようって……そう、思いました」
「……そうですか」

 海殊は大きく息を吐いた。無論、安堵の息だ。
 正解に辿り着いた途端それを終わらされてしまうのでは、堪ったものではない。
 まだ、琴葉の自我や意識は残っている。それが完全に消えたわけではない事を、彼だけが知っていた。
 ならば、できる事がまだあるはずなのだ。せめてそれをやり尽くして、海殊も琴葉と同じく足掻きたい。

「あ、滝川さん。失礼な事をお伺いしてもよろしいですか?」
「はい、何でしょう?」
「滝川さんは、娘……琴葉に好意を持っていたり、しますか?」

 その言葉に海殊は一瞬息を詰まらせた。この質問の答え次第で、未来が大きく変わる気がしたからだ。
 だが、彼の答えなど、決まっている。決まっているからきっと、彼は今この場に辿り着いたのだ。
 海殊は大きく深呼吸してから、明穂の顔をしっかりと見据えた。

「はい……俺は、琴葉さんの事が好きです。一目惚れでした」

 自分で自分を鼓舞する為に、そして覚悟する為に、はっきりと答えた。明穂はそれに対して「まあっ」と嬉しそうに笑っていた。
 そう、きっと一目惚れだ。夜の公園で独りで雨に打たれている、どこか浮世離れしていた彼女を公園で見掛けた瞬間に、海殊は恋に落ちていたのだ。
 あの儚く消えてしまいそうな少女を守ってあげたい──きっと、そう思っていたのだと思う。だから彼はあの晩、彼女を放っておけなかったのだ。
 それに、自ら決意する以外に、きっとこの言葉は明穂にとっても支えになると思うのだ。自分と同じく娘の帰りを待つ者がいると解れば、彼女も踏ん張れるのではないか。いや、踏ん張ってもらわなければ困るのである。まだ諦めていない琴葉の為にも。
 それからほんの少しだけ会話を交わして、海殊は柚木家を出た。手には、病院名と病室番号が書かれた紙が握られている。

『これから病院にいくつもりなんですけど、一緒にお見舞いにいきますか?』

 あの後、明穂からそう尋ねられた。
 海殊は迷った。会って見たい気持ちは確かにある。だが同時に、何か嫌な予感がしたのだ。
 ここで実体(ホンモノ)に会ってしまったら、今家にいる琴葉はどうなってしまうのだろうか。もしかすると、自分も祐樹達の様に琴葉を忘れてしまうのではないだろうか。そんな危惧を抱いたのだ。
 少しだけ悩んで、結局海殊は断った。
 今海殊が知っている琴葉は、"その琴葉"ではない。ならば、まずは"彼の知る琴葉"を幸せにしよう。そう思ったのである。
 結果、海殊は「まだ心の準備ができていないから」と答えた。これも無論、嘘偽りない本音だ。まだ実体(ホンモノ)に会う心の準備はできていなかったのである。
 明穂はその答えを聞くと、このメモ書きを書いて彼に渡した。

『気が向いたら来てやって下さいね。あの子も喜ぶと思いますから』

 それに対して、海殊は『いつか、必ず』と返した。
 それから柚木家を少し離れたところで、彼は鞄の中から一冊の新しい本を取り出した。
 本のタイトルは『記憶の片隅に』で、以前琴葉と見に行った映画の原作だ。以前は図書館で読んだものだったので、もう一度読み直そうと新しいものを買い直したのである。
 その本の真ん中に、明穂から貰ったメモをしっかりと挟み込む。
 
(ここに入れておけば、まあ無くさないだろ)

 本をパタンと閉じて、もう一度鞄に仕舞う。
 いつか覚悟ができた時、もう一度この本を開こう。その時こそ、本物の琴葉と会う時だ。