その日の放課後は課題が残っていると適当に嘘を吐いて、琴葉には先に家に帰ってもらった。罪悪感がないと言えば嘘になるが、もし杞憂が晴れたならばちゃんと事情を話して、しっかりと謝ろうと思っていた。
琴葉が先に帰ったのを確認してから、海殊は職員室へと向かった。
どうやって下級生の情報を探ろうかと思ったのだが、休み時間や昼休みに一年の教室を一つずつ回って訊いていくのはあまりに目立つ。それこそ不審がられてしまうし、下手をすれば職員室呼び出し案件だ。推薦も視野に入れている海殊にとって、それは避けたい事だった。
では、もう最初から職員室に行ってしまえ、というのが海殊が辿り着いた結論だ。一年のクラス担任または副担任を見つけて、片っ端から『水谷琴葉』について訊いていけば良いと判断したのだ。
琴葉から直接訊けば良いのではないかとも考えたが、何だか上手くかわされる気がしたのである。実際、この二週間の間も彼女について尋ねようとすると、話題をすり替えられたり、誤魔化されていた事が多かった。仮に何組と彼女が答えたとしても、それが真実ではない可能性もあるだろう。
海殊とて琴葉を疑いたいわけではない。疑いたいわけではないのだが、不安だったのだ。その存在がまるでぽっかりと穴が空いている様で、気付けばいなくなっていそうな気がしてならないのである。
このバカバカしい杞憂を否定できたなら、それで良かった。むしろ否定して欲しかった。小説の読みすぎだよ、と琴葉から叱られて終わりたかったのである。
しかし──
『水谷琴葉? いや、うちのクラスにはいないな』
『うちのクラスじゃないな』
『んー? そんな子一年にいたかなぁ?』
教師達から出てくる言葉は、海殊の杞憂を肯定するものばかりだった。
彼らクラス担任教師は、受け持っているクラスは一クラスだけだが、授業では他のクラスも受け持っている。あれだけ目立つ容姿をしている琴葉について誰も憶えていないというのは、考え難い事だった。
「おお、滝川か! 久しぶりじゃないか。どうした?」
最後に海殊が訪れたのは、一年の頃にクラス担任だった鈴本紘一のところだった。数学の担当をしていて、生徒から人気もあって顔が広い教師でもある。
海殊にとっては、最後の砦だった。きっと、彼も知らなければ本当に琴葉について誰も知らない事になってしまう。
「あの……先生は今、一年のクラス担任をやってますよね?」
「ああ、やっているぞ。俺は基本的に一年の担任をやる事が多いからな」
何でか知らんが、と鈴本は豪快に笑って付け足した。
「先生のクラスに……その、水谷琴葉、という女生徒はいますか? 長くて綺麗な髪をしてて、細めな可愛らしい女の子なんですけど」
「んー? なんだ、滝川。真面目で堅物なお前が下級生の女の子を狙ってるのかぁ? 国公立の推薦を狙っていると聞いたが、女に現抜かしている余裕なんてないだろう」
「……いいから! いるのかいないのか、それだけ教えて下さい!」
自分でも予想しなかった程、大声で怒鳴ってしまった。
それには他の教師も驚いたのか、職員室が一瞬しんと静まり返る。他の教師達の視線が、海殊と鈴本の方へと一斉に向けられる。
「す、すみません……」
海殊は集まった視線に対して、すぐに頭を下げた。
彼のその反応を見て、教師達は「やれやれ」と言わんばかりに溜め息を吐いて自らの作業に戻っていた。
「あー、すまん。もしかして、からかったらまずかった案件か? えっと、水谷琴葉だったよな? そんな生徒いたかなぁ……」
鈴本は気まずそうにそう言ってから、クラス名簿をひとりひとりじっくりと指を差して見ていく。
海殊は固唾を飲んでその様子を見守っていたが、その指が止まる事はなかった。
「うーん、やっぱりうちのクラスにはいないぞ」
名簿をぱたんと閉じて、海殊にとって絶望的な言葉を述べた。
「そう……です、か……」
海殊は何とかそれだけ言葉を絞り出し、頭を下げてその場を去ろうとする。その時、鈴本が「待て待て」と呼び止めた。
海殊が力無く振り返ると、鈴本は腕を組んで大きく溜め息を吐いた。海殊の落胆ぶりが酷かったので、放っておけなかったのだろう。
「お前さっきから一年のクラス担任に同じこと聞いていたみたいだけど、その子ほんとに一年か?」
「青いリボンをつけてたので、一年だと思うんですけど……」
「うーん、水谷琴葉かぁ。髪が長くて細身なぁ……おまけに容姿がいい、と。それなら記憶に残るはずなんだけどなぁ」
鈴本は椅子に凭れかかって目を閉じる。やはり望みは薄そうだ。
「誰か思い当たる子いませんか? 細田先生」
もう諦めて教室を去ろうとした時だった。鈴本が隣の席の生物教師の細田に訊いた。
細田先生は一年のクラス担任ではないが、生物教師はこの学校に一人しかいない。全クラスを一人で担当しているので、記憶に残っているのではないかと考えたのだろう。
「いや……その子に記憶にありませんが……黒い髪で『琴葉』ちゃんですか。その名前、どこかで聞いた事がある気がするんですよねぇ」
「え!?」
ここで初めて希望が見い出せて、思わず海殊の顔が上がる。
細田は眉間を指で揉んで唸ってうんうん唸っていた。
もしかしたら、苗字が変わったという可能性もある。そういえば、琴葉の家庭環境は少し複雑そうだった。入学後に親が再婚したのかもしれない。
「鈴本先生、覚えてませんか? 一年で『琴葉』で黒髪で容姿がいいっていうと……二年前に、ほら」
「あー! そうだ、いたなぁ。そうか、もう二年も経ったか」
二人の教師がようやく合点がいったと様子で、頷き合う。
二年前──その単語に、どくんと胸が跳ね上がった。これまでにないくらい、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
「その……二年前に、何かあったんですか……?」
声が震えそうになるのを必死で堪えながら、海殊は訊いた。
「あー、滝川はもう覚えてないか。お前らが入学した時にいたんだよ。お前が言う特徴を持っている『琴葉』って子が」
「いい子でしたからねえ。そういえばあの子、苗字はなんていいましたっけ?」
「えっと……あ、そうだ。柚木だ。柚木琴葉。入試の成績も良くて四月の実力テストでも確か一位だったんじゃなかったでしたっけ。色々注目されてましたよねえ」
二人の教師が懐かしみ惜しむ様な会話を交わす。
柚木琴葉──それは、海殊の記憶にはない名前だった。だが、何故だかその会話からは嫌な予感が拭い去れない。何となく直感で真実に迫っている気がしたからだ。
海殊は背中から脂汗が流れているのを自覚しながらも、その会話の結末を待つ。
そして、その先に出てきた言葉は彼を再び絶望に落とし込むものだった。
「しかし、可哀想でしたなぁ。入学早々に、事故だなんて」
「え──!?」
事故という言葉で、海殊の記憶にもようやく引っかかった。
そういえば、二年前の四月末。ゴールデンウイークに入る前の話だった。入学早々に同じ学年の女の子が事故に遭ったという話を聞いた事がある。可愛い女の子が事故に遭った、と祐樹が騒いでいたのを何となく思い出した。
それと同時に、琴葉と初めて会った日の事を思い出す。彼女に名前を訊いた時だった。彼女は確か、こう言っていた。
『名前? えっと、柚──じゃなくて、えっと……』
そう、彼女は咄嗟に『柚』と言って、すぐに言い直したのだ。
不自然に名前を言い間違えたと言って、自分の名前を言い間違えないだろう、とツッコミを入れた記憶が海殊にもある。
そして、もう一つ。初めて琴葉が海殊の教室を訪れた時、同じクラスの女子が『あの子にお姉さんはいるのか』と訊いてきた。
知らないと答えると、その後彼女はこう言ったのである。
『一年生の頃にあの子とよく似た子がクラスにいたなって……そう思っただけだから』
これまで不自然に浮かび上がっていたピースが一気に当てはまっていく。琴葉がここ一~二年の情報についてえらく疎かったのも、制服の夏服を持っていないのも、家に帰れないのも、全てそれで説明がついてしまうのである。
「その子……その子、今どうなってるんですか? まさか、もう死んでる、とか」
海殊は絶望的な気持ちでそう言葉を絞り出した。
もしこれで肯定されてしまえば、一体どうすればいいのだろうか。そう思ったが、訊かざるを得なかった。
しかし、鈴本は海殊の質問に吹き出して「おいおい、失礼な奴だな、お前」と言うと、細田がその後の言葉を続けた。
「ご存命だよ。ただし、事故からずっと昏睡状態みたいだけどね」
琴葉が先に帰ったのを確認してから、海殊は職員室へと向かった。
どうやって下級生の情報を探ろうかと思ったのだが、休み時間や昼休みに一年の教室を一つずつ回って訊いていくのはあまりに目立つ。それこそ不審がられてしまうし、下手をすれば職員室呼び出し案件だ。推薦も視野に入れている海殊にとって、それは避けたい事だった。
では、もう最初から職員室に行ってしまえ、というのが海殊が辿り着いた結論だ。一年のクラス担任または副担任を見つけて、片っ端から『水谷琴葉』について訊いていけば良いと判断したのだ。
琴葉から直接訊けば良いのではないかとも考えたが、何だか上手くかわされる気がしたのである。実際、この二週間の間も彼女について尋ねようとすると、話題をすり替えられたり、誤魔化されていた事が多かった。仮に何組と彼女が答えたとしても、それが真実ではない可能性もあるだろう。
海殊とて琴葉を疑いたいわけではない。疑いたいわけではないのだが、不安だったのだ。その存在がまるでぽっかりと穴が空いている様で、気付けばいなくなっていそうな気がしてならないのである。
このバカバカしい杞憂を否定できたなら、それで良かった。むしろ否定して欲しかった。小説の読みすぎだよ、と琴葉から叱られて終わりたかったのである。
しかし──
『水谷琴葉? いや、うちのクラスにはいないな』
『うちのクラスじゃないな』
『んー? そんな子一年にいたかなぁ?』
教師達から出てくる言葉は、海殊の杞憂を肯定するものばかりだった。
彼らクラス担任教師は、受け持っているクラスは一クラスだけだが、授業では他のクラスも受け持っている。あれだけ目立つ容姿をしている琴葉について誰も憶えていないというのは、考え難い事だった。
「おお、滝川か! 久しぶりじゃないか。どうした?」
最後に海殊が訪れたのは、一年の頃にクラス担任だった鈴本紘一のところだった。数学の担当をしていて、生徒から人気もあって顔が広い教師でもある。
海殊にとっては、最後の砦だった。きっと、彼も知らなければ本当に琴葉について誰も知らない事になってしまう。
「あの……先生は今、一年のクラス担任をやってますよね?」
「ああ、やっているぞ。俺は基本的に一年の担任をやる事が多いからな」
何でか知らんが、と鈴本は豪快に笑って付け足した。
「先生のクラスに……その、水谷琴葉、という女生徒はいますか? 長くて綺麗な髪をしてて、細めな可愛らしい女の子なんですけど」
「んー? なんだ、滝川。真面目で堅物なお前が下級生の女の子を狙ってるのかぁ? 国公立の推薦を狙っていると聞いたが、女に現抜かしている余裕なんてないだろう」
「……いいから! いるのかいないのか、それだけ教えて下さい!」
自分でも予想しなかった程、大声で怒鳴ってしまった。
それには他の教師も驚いたのか、職員室が一瞬しんと静まり返る。他の教師達の視線が、海殊と鈴本の方へと一斉に向けられる。
「す、すみません……」
海殊は集まった視線に対して、すぐに頭を下げた。
彼のその反応を見て、教師達は「やれやれ」と言わんばかりに溜め息を吐いて自らの作業に戻っていた。
「あー、すまん。もしかして、からかったらまずかった案件か? えっと、水谷琴葉だったよな? そんな生徒いたかなぁ……」
鈴本は気まずそうにそう言ってから、クラス名簿をひとりひとりじっくりと指を差して見ていく。
海殊は固唾を飲んでその様子を見守っていたが、その指が止まる事はなかった。
「うーん、やっぱりうちのクラスにはいないぞ」
名簿をぱたんと閉じて、海殊にとって絶望的な言葉を述べた。
「そう……です、か……」
海殊は何とかそれだけ言葉を絞り出し、頭を下げてその場を去ろうとする。その時、鈴本が「待て待て」と呼び止めた。
海殊が力無く振り返ると、鈴本は腕を組んで大きく溜め息を吐いた。海殊の落胆ぶりが酷かったので、放っておけなかったのだろう。
「お前さっきから一年のクラス担任に同じこと聞いていたみたいだけど、その子ほんとに一年か?」
「青いリボンをつけてたので、一年だと思うんですけど……」
「うーん、水谷琴葉かぁ。髪が長くて細身なぁ……おまけに容姿がいい、と。それなら記憶に残るはずなんだけどなぁ」
鈴本は椅子に凭れかかって目を閉じる。やはり望みは薄そうだ。
「誰か思い当たる子いませんか? 細田先生」
もう諦めて教室を去ろうとした時だった。鈴本が隣の席の生物教師の細田に訊いた。
細田先生は一年のクラス担任ではないが、生物教師はこの学校に一人しかいない。全クラスを一人で担当しているので、記憶に残っているのではないかと考えたのだろう。
「いや……その子に記憶にありませんが……黒い髪で『琴葉』ちゃんですか。その名前、どこかで聞いた事がある気がするんですよねぇ」
「え!?」
ここで初めて希望が見い出せて、思わず海殊の顔が上がる。
細田は眉間を指で揉んで唸ってうんうん唸っていた。
もしかしたら、苗字が変わったという可能性もある。そういえば、琴葉の家庭環境は少し複雑そうだった。入学後に親が再婚したのかもしれない。
「鈴本先生、覚えてませんか? 一年で『琴葉』で黒髪で容姿がいいっていうと……二年前に、ほら」
「あー! そうだ、いたなぁ。そうか、もう二年も経ったか」
二人の教師がようやく合点がいったと様子で、頷き合う。
二年前──その単語に、どくんと胸が跳ね上がった。これまでにないくらい、とてつもなく嫌な予感がしたのだ。
「その……二年前に、何かあったんですか……?」
声が震えそうになるのを必死で堪えながら、海殊は訊いた。
「あー、滝川はもう覚えてないか。お前らが入学した時にいたんだよ。お前が言う特徴を持っている『琴葉』って子が」
「いい子でしたからねえ。そういえばあの子、苗字はなんていいましたっけ?」
「えっと……あ、そうだ。柚木だ。柚木琴葉。入試の成績も良くて四月の実力テストでも確か一位だったんじゃなかったでしたっけ。色々注目されてましたよねえ」
二人の教師が懐かしみ惜しむ様な会話を交わす。
柚木琴葉──それは、海殊の記憶にはない名前だった。だが、何故だかその会話からは嫌な予感が拭い去れない。何となく直感で真実に迫っている気がしたからだ。
海殊は背中から脂汗が流れているのを自覚しながらも、その会話の結末を待つ。
そして、その先に出てきた言葉は彼を再び絶望に落とし込むものだった。
「しかし、可哀想でしたなぁ。入学早々に、事故だなんて」
「え──!?」
事故という言葉で、海殊の記憶にもようやく引っかかった。
そういえば、二年前の四月末。ゴールデンウイークに入る前の話だった。入学早々に同じ学年の女の子が事故に遭ったという話を聞いた事がある。可愛い女の子が事故に遭った、と祐樹が騒いでいたのを何となく思い出した。
それと同時に、琴葉と初めて会った日の事を思い出す。彼女に名前を訊いた時だった。彼女は確か、こう言っていた。
『名前? えっと、柚──じゃなくて、えっと……』
そう、彼女は咄嗟に『柚』と言って、すぐに言い直したのだ。
不自然に名前を言い間違えたと言って、自分の名前を言い間違えないだろう、とツッコミを入れた記憶が海殊にもある。
そして、もう一つ。初めて琴葉が海殊の教室を訪れた時、同じクラスの女子が『あの子にお姉さんはいるのか』と訊いてきた。
知らないと答えると、その後彼女はこう言ったのである。
『一年生の頃にあの子とよく似た子がクラスにいたなって……そう思っただけだから』
これまで不自然に浮かび上がっていたピースが一気に当てはまっていく。琴葉がここ一~二年の情報についてえらく疎かったのも、制服の夏服を持っていないのも、家に帰れないのも、全てそれで説明がついてしまうのである。
「その子……その子、今どうなってるんですか? まさか、もう死んでる、とか」
海殊は絶望的な気持ちでそう言葉を絞り出した。
もしこれで肯定されてしまえば、一体どうすればいいのだろうか。そう思ったが、訊かざるを得なかった。
しかし、鈴本は海殊の質問に吹き出して「おいおい、失礼な奴だな、お前」と言うと、細田がその後の言葉を続けた。
「ご存命だよ。ただし、事故からずっと昏睡状態みたいだけどね」