翌日から琴葉の風邪は良くなって、普通に登校していた。祐樹達三バカも昨日忘れていた事など何一つ記憶にない様子で、琴葉とはいつも通り話していたし、何もいつもと変わらなかった。
だが、奇妙な事はそれだけでは終わらなかった。いや、徐々に増え始めたと言っても過言ではない。
学校帰りに、きゅーちゃんのおもちゃを買いたそうという話になってペットショップに寄ったまではよかった。その後に二人で喫茶店に入った時だ。
「おひとり様ですか?」
店員が海殊の顔を見るや否や、そう訊いた。
同じ学校の制服を着ているのだし、一緒に入店すれば普通は連れだと思うはずだが、余程身分違いだと思われたのだろうか。
「いや、二人だけど?」
ちらりと海殊が後ろの琴葉を見てそう返すと、店員ははっとして「失礼致しました!」と慌てて頭を下げて、対面席へと案内された。
これだけなら、ただ海殊と琴葉が釣り合っておらず、二人が一緒にお茶するとは思わなかった、で済んだ話だ。感じの悪い店、という印象だけで終わっていただろう。
しかし──別の店員が水を運んできた際、別の異変が起きる。なんと、その店員は海殊の前にだけ水を置いて、そのまま「ご注文の際はこちらのボタンでお呼び下さい」と言って立ち去ろうとしたのだ。
「おい、待てよ。この店、一体何なんだ? さっきから」
「え?」
喫茶店の店員が怪訝そうにして振り返って、首を傾げる。
「目の前にもう一人いるだろ、何で俺のだけしか水置かないんだよ。一体何の嫌がらせだ? これがこの店のルールか?」
さすがに海殊も腹が立ってきて、つい言葉が荒くなってしまっていた。
琴葉からは「いいから、気にしないで」と諭されるが、黙っていられなかった。一度だけならまだしも、二度連続はさすがに我慢がならなかったのだ。これではまるで、琴葉を無視している様ではないか。
「え? あっ……! し、失礼しました!」
そこで、まるで初めて琴葉に気付いたと言う様にハッとして頭を下げると、慌ててもう一つの水を持ってきた。琴葉がぺこりと頭を下げると、「本当に申し訳ございません」と店員は何度も謝っていた。
そこにはまるで悪気も悪戯心もなさそうで、それが余計に海殊を苛立たせた。いや、その苛立ちは昨日の祐樹達との不安も相まっていたのかもしれない。
「もう、海殊くんもこんなのでいちいち怒らないでよ。私も申し訳なくなっちゃうから」
そうして海殊を嗜める琴葉の笑みはどこか引き攣っていて、まるで不安と戦っている様な、何かの恐怖と向き合っているかの様な表情だった。
そこで「どうして店員に無視されるんだろう」と突っ込める勇気はなく、海殊はただ「ごめん、気をつけるよ」と言うしかなかった。
だが、奇妙な事はそれからも続いた。
道を歩いていても、前から歩いてきた人が海殊だけ避けて琴葉にぶつかるといった事案は特に多く起こった。不思議とそれらの人々はぶつかってから気付く事が多く、すぐに「え!? あ、すみません!」と謝っていた。意図的に人にぶつかって嫌がらせをする様な人々ではなかったのである。
そして、それからもそういった奇妙な事は続いていった。
中では学校の中でも起こる事も稀にあって、得体の知れない不安がどんどん海殊の中に募っていく。
琴葉はそれに関していつも困った様に笑って「私、存在感薄いから」と言うだけだった。
そんなわけがない、と海殊は思った。ほんの少し前まで、彼女は通行人や学校生徒の視線を一身に集めていたのだ。「あの子何組だ?」「三年の真昼ちゃんより可愛いんじゃないか」と学校でも話題になっていた一年生なのである。そんな彼女が、存在感が薄いわけがないのだ。
だが、そこで海殊の中にもいくつかの不可思議に思っていた事が、くっきりと浮かび上がってくる。
今まで当たり前の様に、琴葉とは過ごしてきた。しかし、それは本当に当たり前だったのか、と引っかかりを感じ始めたのだ。
二週間以上一緒にいるのに、未だに海殊は琴葉が一年の何組であるかもしらない。加えて、これまでの間一度も彼女が一年生と一緒に過ごしているのを見た事がなかった。
それに、紛うことなき美少女で目立つ容姿をしているにも関わらず、誰も琴葉について知らなかった。女の子情報をいち早く収集している祐樹達でさえ、である。
それだけではない。琴葉はテスト前でも教科書を家に持って帰ってくる事などしなかったし、試験期間でもお構いなしに小説を読んでいた。
そして、その小説だ。彼女の小説の情報は、少し遅れていたのである。本好きの割に新刊の情報に疎かったり、同じ本を読んでいたのに結末を知らなかったりした。まるでその間の情報が抜け落ちているかの様に、ここ一~二年の間に発売した本についてだけ知らないのだ。
それは、映画でも同じだった。国民的大ヒットと言っても過言ではない作品でさえも彼女は「え、この作品が映画化したんだ?」と驚いていたのである。学校に行っていれば、いや、学校に行ってなくてもスマートフォンを見ていれば絶対に目に入ってくる情報であるにも関わらず、だ。
それに、疑問点は他にもある。
そもそもの話、これほど愛らしい容姿をしている高校生の娘が二週間も家に帰っていないにも関わらず、彼女の両親からは何も音沙汰がない。普通は親から学校に連絡が入ったり、心配したりするものではないのか。最悪は捜索願が出る可能性だってあるのだ。春子が琴葉の親とコンタクトを取ったという可能性もあるが、もしそうなら息子の海殊にも事情を話すだろう。これでは本当に完全なネグレクトだ。
いや、ネグレクトならばまだ良い。真夏にも関わらず制服の夏服を自宅に取りに帰らないし、制服どころか現在の高校生にとって必要不可欠なスマートフォンでさえも取りに帰らない。そこまで家に帰るのが嫌だという可能性もあるが、どこか変だった。
『……帰れないんだと思う』
そこで、琴葉の言葉が脳裏に蘇ってきた。
それは、初めてデートをした日の帰りの事だった。彼らは家に帰る前に二人が出会った公園に赴いたのだ。その際、家に帰らなくていいのかと訊いた時、彼女はそう答えた。
そして、こう続けたのである。
『帰れないから、私はきっと……ここにいるんだよ』
ぞくりとした。
あの時は心理的に帰りたくないだけなのだと思っていた。
だが、それが心理的ではなく物理的なものだとしたら? 物理的に帰れないとしたら、これらの現象にも説明がつくのではないだろうか。
(そんなわけない……あるはずが、ない)
海殊は自分の考え付いた事を、否定した。
そんな非現実な事を信じられるはずがなかった。SFやファンタジー小説が好きだとしても、それはあくまでもフィクションの中だけの話だ。現実に起こっていいものではない。
(ファンタジー……だって?)
ファンタジーという単語が何か引っかかって、琴葉との会話を思い返す。そういえば、そのファンタジーという単語を用いた質問を彼女からされた事があった。
それはちょうど、その家に帰るかどうかについて話した直前だった。彼女は唐突に『ちょっとしたファンタジーな質問していい?』と前置いてから、こう訊いてきたのだ。
『もし、ある時目覚めたら、自分が全く別の場所にいて、自分がいた時代とも少し違っていて……頼れるものとか何もなかったとしたら、どうする?』
その質問を思い出して、毛が逆立って身体が震えた。
これまでの琴葉の奇妙な発言やちぐはぐな情報、唐突に忘れられたり見えなくなってしまったりする出来事が、全てそこに繋がっている気がしたのだ。
それは──
(って、待て待て! ふざけるなよ海殊。落ち着け。お前、ちょっと小説の読み過ぎなんだって……そんなの、有り得ないだろ)
自分の思い至りそうになった可能性を、必死に否定する。
そんな事があって良いはずがない。目の前にいる人間が本当は存在しないなど、あってはならない事のはずだ。
それに、琴葉とは手を繋いだ事だってあるし、先日は川の中で身体も抱きかかえている。体温も、感触だってしっかりと感じているのだ。存在しないわけがないのである。
(大丈夫、それは俺の杞憂だ。妄想だ。絶対に、そうに違いない)
一瞬思い浮かんでしまった事が杞憂で妄想だと自分に示す方法は、一つ。
彼女の存在を、はっきりと認識して理解する事だ。水谷琴葉がどこの誰で、一年何組にいるのか。自宅はどこなのか。
ちょっとストーカーちっくな気がしなくもないが、実際につけたり待ち伏せしたりするわけではない。それに、その目当ての彼女は海殊の家に居候している。ストーカーにはならないだろう。
杞憂で妄想ならそれが一番良い。海殊はただ、この不安を拭い去りたいだけなのだから。
だが、奇妙な事はそれだけでは終わらなかった。いや、徐々に増え始めたと言っても過言ではない。
学校帰りに、きゅーちゃんのおもちゃを買いたそうという話になってペットショップに寄ったまではよかった。その後に二人で喫茶店に入った時だ。
「おひとり様ですか?」
店員が海殊の顔を見るや否や、そう訊いた。
同じ学校の制服を着ているのだし、一緒に入店すれば普通は連れだと思うはずだが、余程身分違いだと思われたのだろうか。
「いや、二人だけど?」
ちらりと海殊が後ろの琴葉を見てそう返すと、店員ははっとして「失礼致しました!」と慌てて頭を下げて、対面席へと案内された。
これだけなら、ただ海殊と琴葉が釣り合っておらず、二人が一緒にお茶するとは思わなかった、で済んだ話だ。感じの悪い店、という印象だけで終わっていただろう。
しかし──別の店員が水を運んできた際、別の異変が起きる。なんと、その店員は海殊の前にだけ水を置いて、そのまま「ご注文の際はこちらのボタンでお呼び下さい」と言って立ち去ろうとしたのだ。
「おい、待てよ。この店、一体何なんだ? さっきから」
「え?」
喫茶店の店員が怪訝そうにして振り返って、首を傾げる。
「目の前にもう一人いるだろ、何で俺のだけしか水置かないんだよ。一体何の嫌がらせだ? これがこの店のルールか?」
さすがに海殊も腹が立ってきて、つい言葉が荒くなってしまっていた。
琴葉からは「いいから、気にしないで」と諭されるが、黙っていられなかった。一度だけならまだしも、二度連続はさすがに我慢がならなかったのだ。これではまるで、琴葉を無視している様ではないか。
「え? あっ……! し、失礼しました!」
そこで、まるで初めて琴葉に気付いたと言う様にハッとして頭を下げると、慌ててもう一つの水を持ってきた。琴葉がぺこりと頭を下げると、「本当に申し訳ございません」と店員は何度も謝っていた。
そこにはまるで悪気も悪戯心もなさそうで、それが余計に海殊を苛立たせた。いや、その苛立ちは昨日の祐樹達との不安も相まっていたのかもしれない。
「もう、海殊くんもこんなのでいちいち怒らないでよ。私も申し訳なくなっちゃうから」
そうして海殊を嗜める琴葉の笑みはどこか引き攣っていて、まるで不安と戦っている様な、何かの恐怖と向き合っているかの様な表情だった。
そこで「どうして店員に無視されるんだろう」と突っ込める勇気はなく、海殊はただ「ごめん、気をつけるよ」と言うしかなかった。
だが、奇妙な事はそれからも続いた。
道を歩いていても、前から歩いてきた人が海殊だけ避けて琴葉にぶつかるといった事案は特に多く起こった。不思議とそれらの人々はぶつかってから気付く事が多く、すぐに「え!? あ、すみません!」と謝っていた。意図的に人にぶつかって嫌がらせをする様な人々ではなかったのである。
そして、それからもそういった奇妙な事は続いていった。
中では学校の中でも起こる事も稀にあって、得体の知れない不安がどんどん海殊の中に募っていく。
琴葉はそれに関していつも困った様に笑って「私、存在感薄いから」と言うだけだった。
そんなわけがない、と海殊は思った。ほんの少し前まで、彼女は通行人や学校生徒の視線を一身に集めていたのだ。「あの子何組だ?」「三年の真昼ちゃんより可愛いんじゃないか」と学校でも話題になっていた一年生なのである。そんな彼女が、存在感が薄いわけがないのだ。
だが、そこで海殊の中にもいくつかの不可思議に思っていた事が、くっきりと浮かび上がってくる。
今まで当たり前の様に、琴葉とは過ごしてきた。しかし、それは本当に当たり前だったのか、と引っかかりを感じ始めたのだ。
二週間以上一緒にいるのに、未だに海殊は琴葉が一年の何組であるかもしらない。加えて、これまでの間一度も彼女が一年生と一緒に過ごしているのを見た事がなかった。
それに、紛うことなき美少女で目立つ容姿をしているにも関わらず、誰も琴葉について知らなかった。女の子情報をいち早く収集している祐樹達でさえ、である。
それだけではない。琴葉はテスト前でも教科書を家に持って帰ってくる事などしなかったし、試験期間でもお構いなしに小説を読んでいた。
そして、その小説だ。彼女の小説の情報は、少し遅れていたのである。本好きの割に新刊の情報に疎かったり、同じ本を読んでいたのに結末を知らなかったりした。まるでその間の情報が抜け落ちているかの様に、ここ一~二年の間に発売した本についてだけ知らないのだ。
それは、映画でも同じだった。国民的大ヒットと言っても過言ではない作品でさえも彼女は「え、この作品が映画化したんだ?」と驚いていたのである。学校に行っていれば、いや、学校に行ってなくてもスマートフォンを見ていれば絶対に目に入ってくる情報であるにも関わらず、だ。
それに、疑問点は他にもある。
そもそもの話、これほど愛らしい容姿をしている高校生の娘が二週間も家に帰っていないにも関わらず、彼女の両親からは何も音沙汰がない。普通は親から学校に連絡が入ったり、心配したりするものではないのか。最悪は捜索願が出る可能性だってあるのだ。春子が琴葉の親とコンタクトを取ったという可能性もあるが、もしそうなら息子の海殊にも事情を話すだろう。これでは本当に完全なネグレクトだ。
いや、ネグレクトならばまだ良い。真夏にも関わらず制服の夏服を自宅に取りに帰らないし、制服どころか現在の高校生にとって必要不可欠なスマートフォンでさえも取りに帰らない。そこまで家に帰るのが嫌だという可能性もあるが、どこか変だった。
『……帰れないんだと思う』
そこで、琴葉の言葉が脳裏に蘇ってきた。
それは、初めてデートをした日の帰りの事だった。彼らは家に帰る前に二人が出会った公園に赴いたのだ。その際、家に帰らなくていいのかと訊いた時、彼女はそう答えた。
そして、こう続けたのである。
『帰れないから、私はきっと……ここにいるんだよ』
ぞくりとした。
あの時は心理的に帰りたくないだけなのだと思っていた。
だが、それが心理的ではなく物理的なものだとしたら? 物理的に帰れないとしたら、これらの現象にも説明がつくのではないだろうか。
(そんなわけない……あるはずが、ない)
海殊は自分の考え付いた事を、否定した。
そんな非現実な事を信じられるはずがなかった。SFやファンタジー小説が好きだとしても、それはあくまでもフィクションの中だけの話だ。現実に起こっていいものではない。
(ファンタジー……だって?)
ファンタジーという単語が何か引っかかって、琴葉との会話を思い返す。そういえば、そのファンタジーという単語を用いた質問を彼女からされた事があった。
それはちょうど、その家に帰るかどうかについて話した直前だった。彼女は唐突に『ちょっとしたファンタジーな質問していい?』と前置いてから、こう訊いてきたのだ。
『もし、ある時目覚めたら、自分が全く別の場所にいて、自分がいた時代とも少し違っていて……頼れるものとか何もなかったとしたら、どうする?』
その質問を思い出して、毛が逆立って身体が震えた。
これまでの琴葉の奇妙な発言やちぐはぐな情報、唐突に忘れられたり見えなくなってしまったりする出来事が、全てそこに繋がっている気がしたのだ。
それは──
(って、待て待て! ふざけるなよ海殊。落ち着け。お前、ちょっと小説の読み過ぎなんだって……そんなの、有り得ないだろ)
自分の思い至りそうになった可能性を、必死に否定する。
そんな事があって良いはずがない。目の前にいる人間が本当は存在しないなど、あってはならない事のはずだ。
それに、琴葉とは手を繋いだ事だってあるし、先日は川の中で身体も抱きかかえている。体温も、感触だってしっかりと感じているのだ。存在しないわけがないのである。
(大丈夫、それは俺の杞憂だ。妄想だ。絶対に、そうに違いない)
一瞬思い浮かんでしまった事が杞憂で妄想だと自分に示す方法は、一つ。
彼女の存在を、はっきりと認識して理解する事だ。水谷琴葉がどこの誰で、一年何組にいるのか。自宅はどこなのか。
ちょっとストーカーちっくな気がしなくもないが、実際につけたり待ち伏せしたりするわけではない。それに、その目当ての彼女は海殊の家に居候している。ストーカーにはならないだろう。
杞憂で妄想ならそれが一番良い。海殊はただ、この不安を拭い去りたいだけなのだから。