台風が去った。進路が予定より大分太平洋側に逸れてくれたので、大きな被害等もでなかった。
 昨夜の大雨が嘘だと思う程の快晴で、空には雲一つない。
 今日は良い天気なので、琴葉とも気持ちよく登校できそうだ──そう思っていたが、それは叶わなかった。昨日川の中に飛び込んでしまったせいか、琴葉(ことは)が風邪を引いてしまったのだ。
 さすがに風邪を引いてしまっている者を無理に学校に連れていくわけにも行かないので、彼女には学校を休む様に伝えた。
 意外にも琴葉はその忠告を素直に引き受けた。反対して学校に行くと言いそうなものだったが、余程具合が悪いのだろう。ただ、「大人しく家できゅーちゃんと遊んでる」と言っていたあたり、ただ昨日拾ってきた捨て猫と遊んでいたいだけなのかもしれない。
 ちなみに、あの捨て猫はうちで飼う事になった。
 春子(はるこ)になんと言って許可をもらおうかと頭を悩ませていたのだが、猫を見る度発狂する様に喜び、こちらから伺いを立てるまでもなかった。どうやら春子はずっと猫を飼いたいと思っていた様だが、自身が仕事で家を空ける事が多く、世話を息子にまかせっきりになると気を遣っていたそうだ。
 かくして、朝から母はペットショップで色々買い揃えると海殊よりも早く家を出て行った。ちなみにペットショップの開店時間は九時で、まだオープンすらしていない。
 捨て猫を拾ってきた経緯については、無論ただ拾ってきただけと言っている。居候している家出娘と息子が濁流に飛び込んで救出した、とはさすがに言えなかった。
 昨日は猫以外でも大変で、二人共異臭を放つ出で立ちだった。春子が帰ってくるまでに二人分の制服を洗濯機と乾燥機に突っ込み、琴葉が慌ててアイロンがけをして、何事もなかったかの様にしている。髪は三回洗ってようやく臭いが取れる程で、髪の長い琴葉は更に苦労した様だ。都会の川になんて飛び込むものではない。
 ただ、臭くなって慌てて制服を洗濯するくらいで一つの小さな命が救えたのなら、安いものだ。あのまま放っておけば、確実に〝きゅーちゃん〟は川に流されて死んでいただろう。
 子猫も命の救い手がわかっているのか、琴葉によく懐いていて、昨日はべったりだった。きっとそれで夜中まで遊んでいたので、風邪を引いてしまったのだろうけど。
 欠席に関しては担任に連絡しておいてやろうかと提案したのだが、彼女は自分ですると言っていた。
 確かに、全くこれまで交流のなかった上級生が、いきなり一年のクラス担任に欠席する旨を伝えたとしても、それはそれでどういう関係なんだと突っ込まれそうだ。彼女が自分で連絡する方が良いだろう。

(あれ……そういえば、あいつって何組だったっけ?)

 この時ふと海殊は疑問に思った。
 琴葉が家に住み着いてから二週間以上の付き合いになるが、未だに彼女が一年何組であるかについて聞いていなかったのだ。尤も、一年生に知り合いがいるわけではないので、それを聞いたところでどうしようもないのだけれど。
 数週間ぶりの、隣に誰もいない登校。それは思っていたより寂しくて、物足りなかった。琴葉が横にいるだけで何となく話していたので、彼女がいるのといないのとでは口数が全く異なるのだ。
 ただ、これは琴葉と出会う前では当たり前だったはずだ。基本的に祐樹達三バカとは昇降口や教室まで会わないので、登校はいつも一人だった。
 その生活に戻っただけのはずなのに、たった二週間と少し琴葉と過ごした日常があるせいで、それが寂しく思えてしまう。海殊の二年半程の〝当たり前〟は、たった二週間の琴葉との生活で塗り替えられてしまったのである。

(恋ってすげーな)

 海殊は小さく嘆息して、学校へ向かう。
 琴葉はスマートフォンを持っていないので学校にいる間は連絡が取れないが、家にいるというなら心配もないだろう。こんなにも早く家に帰りたいと思ったのは、入学してから初めてかもしれない。
 それから当たり前の様に登校して教室に入って、授業を受ける。いつもと変わらない日々だが、学校に琴葉がいないと思うだけで退屈で、授業にも身が入らなかった。休み時間や移動教室で一年生を見掛ける度に琴葉もいないかなと探してしまっている自分に気付いて、嫌気が指した程だった。
 だが、そんないつもと変わらない日々に、異変が生じた。それは昼休みの事だった。

「あ、今日は琴葉休みだから、教室で食べようぜ」

 いつもの様に海殊の席に集まってきた祐樹達三バカにそう言うと、三人が怪訝そうに首を傾げた。

「……? どうした?」

 その雰囲気に違和感を抱いた海殊は、三人に訊いた。
 すると、祐樹達は互いに顔を見合わせてから、こう言ったのだ。

「いや、コトハって……誰、その子?」
「え、その名前ってオンナ?」
「お前いつの間に女友達なんて作ったんだ?」

 三人が悪戯そうに笑って、口々に訊いてくる。
 一瞬、彼らが何を言っているのかわからなかった。最初は悪戯かとも思ったのだが、三人共本当に琴葉を知らないといった様子なのだ。まるで琴葉が初めて教室に来た時と同じ様子で質問してきている。

「おい……お前ら、何言ってんだよ……?」

 何か、凄く嫌な予感がした。それは何とも言い難い予感だ。まるで醜悪な肉塊に背中を舐められたかの様な、気持ち悪い感覚。そんな何とも表現し難い感覚が、海殊を襲っていた。

「おいおい、海殊ー! お前、俺達にこっそり女友達作ってたなんて、ずりぃじゃんか。何だよ紹介しろよー」
「コトハ? って名前の子なのか? 何年よ。二組の真昼ちゃんとどっちが可愛い?」
「いやいや、さすがに真昼ちゃんには勝てないっしょ。てか何繋がりで出会ったの? お前そんな女っけある場所に行ってたっけ?」

 三人とも冗談で言っている様には思えなかった。まるで本当に琴葉を知らない様な口ぶりだったのだ。
 それに、彼らの中では『琴葉ちゃんは真昼ちゃんと同等かそれ以上』という話で結論が出ていたはずだった。今更そんな議論を交わす必要性がないし、今その話題を出す意味がわからない。
 だが、こういう状況になってから、今に至るまでもう一つ異変があった。そういえば、朝から一度も彼らは琴葉の名前を発していなかったのだ。もし海殊が一人で登校していれば、『今日琴葉ちゃんはどうした』だの『喧嘩したのか』だのとまるで芸能ゴシップ記者かの様な勢いで訊いてきそうなものなのに、彼らは何も訊いて来なかったのである。

「おいおい、待てよ……琴葉だぞ!?」
「は? どうした、海殊?」
「いや、琴葉だよ! 水谷琴葉! 昨日だって昼休み、ここに来てただろ!? 四人で飯食ってたじゃんか!」

 あまりに海殊が必死に訴えかけるので、不安げな顔で祐樹達三人は顔を見合わせる。
 そして、三人同時「あっ」と声を上げた。

「あ、ああ! 琴葉ちゃんだよな。そうだったそうだった」
「そ、そうだよな。琴葉ちゃん、だよな。一年でお前の彼女の……」
「あれ? 俺、なんで忘れてたんだろ。あんな可愛い子、絶対に一度見たら忘れないはずなのに」

 三人同時に唸って、なんだかどうしようもないほどむず痒くてもやもやした様子だった。
 結局、それから彼らは琴葉について忘れるといった事はなかった。昨日猫を拾った話や、今日は琴葉が風邪を引いた話をしても、何事もなかった様に話している。
 だが、あの瞬間は本当に忘れていた様だった。一瞬海殊をからかう為の冗談かとも思っていたのだが、その気配はなかった。

(何なんだ……? 三人同時って、そんな事あるか?)

 少なくとも、琴葉が初めて教室に来て以降、祐樹達三バカも毎日琴葉とは顔を合わせていた。同時に忘れるなど奇怪な事件など、起きるはずがないのだ。

(まあ……憶えているなら、いいのか)

 奇妙な感覚に陥るが、今ではそれらの雰囲気はない。「琴葉ちゃん早く元気になるといいなー」などと普通に話している。
 きっと、偶然だ。偶然三人共琴葉について忘れてしまっただけなのだ、と自分に言い聞かせる様にした。そうするしか、彼にはできなかったからだ。