その二日後の事だった。今夏になってから初めて大きめの台風が発生して、久々に大雨が降った。どうやら台風はこちらに直進しているらしく、明日にはこの地域一帯が暴風域に覆われる事になるそうだ。

「やっべぇな、この風。傘が何の役割も果たさない」

 海殊は風によって壊れた傘を近くのごみ箱に放り込むと、大きな溜め息を吐いた。

「これだけ風もあると、もう傘があってもなくても変わらないね。帰ったらお風呂入らないと」

 琴葉も困った様に笑って、傘を閉じた。
 その長い髪は雨を吸って重くべったりと彼女の頬にくっついていた。白いワイシャツも透けてしまっており、下のピンク色のキャミソールがくっきりと浮かんでしまっている。

「……えっち」

 琴葉が海殊の視線を感じたのか、胸を隠す様にして両手で覆った。

「ばッ、見てねえよ!」

 図星を突かれた海殊は、そう吠えると先をとっとと歩き出す。琴葉も可笑しそうに笑いながら、彼の後をついて歩くのだった。
 風と雨の音が大きくて会話をする気にもならず、そのまま歩いていた時だった。川沿いの道を歩いていると、琴葉が唐突に海殊の腕を掴んだ。

「ねえってば」
「え?」
「さっきから呼んでるのに」
「え、あ。ごめん」

 雨風の音で彼女から呼ばれていたのに気付かなかったらしい。

「それで、なに?」
「あそこ……」

 海殊の手を掴んでいた手で、彼女は川の方を指差した。
 彼女の指先を視線で追うと、その先には子猫がいた。猫は大きめのバケツの中にいて、中州にあった流木に引っかかってしまっているのだ。
 増水しつつある水に怯えてしまって、動けない様子だ。弱々しく助けを求める鳴き声を微かに上げていた。

「猫か……なんであんなところに」

 おそらく、川に落ちてしまった拍子に必死に何か掴まれるものに掴まったのだろう。そこに至った経緯はわからないが、このまま放っておくとそう遠くない未来にこの子猫は川に流され、溺れてしまうのは確実だ。
 海殊達は河辺まで降りて、川の流れを確認する。
 川自体は大きなものではないし、まだそれほど増水しているわけではない。しかし、普段よりは確実に水が多く、また流れも早かった。濁流のせいで深さもわからないが、普段よりも水位が高い事は間違いなく、足が届く保証もなかった。

(何かあっちに届きそうなものは……)

 周囲を見渡すが、子猫のいる中州まで届きそうなものなどそう簡単に落ちているわけもない。
 かと言って、誰かに助けを求められるものでもなかった。これが人間の子供であったならば一一九番にでも電話をすれば良いのだが、ただの子猫だ。大人が動いてくれるものでもない。
 諦めるしかないのか──そう思っていた時だった。
 彼のすぐそばから、ざぶん、と大きなものが水に落ちた音が聞こえた。

「え……は!?」

 隣を慌てて見ると、そこには彼が貸していた予備の鞄と傘が地面に置かれていたが、その持ち主がいない。
 川の方を見てみると、そこには制服姿のまま泳ぐ琴葉の姿があった。

「なっ、琴葉!? お前、何やってんだよ!」

 泳ぐ琴葉に向かって叫ぶが、彼女の耳には届かない。
 まだ流れはそれほど強くないにせよ、台風前の川に飛び込むなどあまりに危険だ。流れだけでなく、流木やゴミなど色んなものが流れてきているのである。プールで泳ぐのとはわけが違う。
 しかし、彼女は泳ぎが得意だった様で、子猫がいる中州には何とか辿り着けていた。
 彼女は子猫をそっと抱き寄せると、優しく微笑み掛けて「もう怖くないよ」と語り掛ける。

「バカ、お前! どうやってこっち戻ってくるんだよ!」

 海殊は中州にいる琴葉へと怒号を飛ばした。
 そうなのだ。一人で泳ぐのも大変な状況にも関わらず、子猫を抱えたまま泳ぐのは多少水泳ができる程度では難しい。

「頑張るから!」

 頑張って何とかなるものでもないだろうと思ったが、今更何を言っても後の祭りである。
 琴葉は表情を引き締めると、子猫の額にキスをして「ちょっとだけ我慢してね」と囁いた。そして、足からゆっくりと川に浸かり、子猫の顔が水に浸からないようにして泳ぐ。
 しかし、両手を使っていた行きと、しっかりと手を使って泳げない帰りでは全く速度が異なる。それに、泳ぎにくそうで、琴葉の方が息継ぎに苦労していて、ごほごほ咳き込んでいた。

(──ばっか野郎!)

 琴葉が咳き込んだのを見た瞬間、海殊も鞄を放り投げて川に身を投げていた。
 考えてした行動ではなかった。泳げないわけではないが、水泳に特別自信があるわけでもない。でも、苦しそうにしている琴葉を見ていられなくなって、身体が勝手に動いていたのだ。
 きっと、溺れている誰かを助けようと思って一緒に流されてしまう事例はこうして生まれるのだろう──海殊は必死に泳ぎながらも、そんな事を頭の片隅で考えていた。
 琴葉の近くまで泳いで辿り着いた時には、彼女の顔を水の中で、何とか子猫が沈まない様にして腕を伸ばしている状態だった。
 海殊は彼女の腰を抱き上げて、その身体を水面へと押し上げる。

「ごほっごほっ! って、え!? なんで海殊くんまで!」
「いいから、ちゃんと猫落とさない様に持ってろよ。別に俺は泳ぎが得意なわけじゃないんだから!」

 そんな意味のわからない返答をしながら、二人で協力して必死に河辺へと向かう。
 そこからどうしたのかは、よく覚えていなかった。足が着くところまで辿り着いた時は、安堵で崩れ落ちてしまいそうだった。実際、元居た場所に戻ってこれた時には、二人して膝から崩れ落ちた。

「た……助かった」
「はぁ……良かったぁ……」

 琴葉はびしょびしょの体で、同じくびしょびしょな子猫をぎゅっと抱き締めながら、そう呟いていた。
 もともと雨でびしょびしょだったとは言え、雨水と川の汚水では水の状態が異なる。お互い、身体からは汚水の異臭が放っていて、臭くて堪らなかった。

「お前な……無茶苦茶し過ぎだ。川に飛び込むとか、心臓が停まるかと思っただろ」

 泳いでいる最中はなんと言って怒鳴りつけてやろうかと思っていたが、今となっては安堵と疲労で怒る気力さえなくなっていた。

「それはこっちの台詞だよ。どうして飛び込んだりしたの? もし溺れたらどうするつもりだったの」

 どうしてか、琴葉の方が叱責してくる。少し納得がいかなかった。

「バカ、お前が溺れそうになってたからだろ。目の前で同居人に溺れられて、何もするなって方が無理だ」
「ごめん。でも、私は"大丈夫なはず"だから」
「……はず?」

 ぴくり、と海殊がその言葉に反応する。
 まただ。また、何か違和感を抱いてしまう物言いだった。それはまるで、絶対にそうなる事はありえないという様な言い方だ。

「あ、えっと……中学の頃は水泳も得意だったから」

 彼女は困り顔で慌てて付け足すと、にゃははと笑った。
 確かに水泳が得意なのは泳ぎを見ていてわかった。だが、だからと言って『大丈夫なはず』という表現は出てこないはずである。

「まあ……今はいいか」

 疲労感で頭がまともに働きやしない。
 海殊は大きく溜め息を吐いて立ち上がると、琴葉に手を差し伸べて彼女を起こした。

「ほら、さっさと帰るぞ。お互い臭くて堪ったもんじゃない。さっさと風呂沸かして、母さん帰ってくるまでに何とか誤魔化さないと」
「でも、この子は……」
「うちで飼うよ」

 琴葉が不安げに訊く前に、海殊が答えた。
 これは予め用意していた答えというよりは、完全に思いつきだ。春子への説得など何も考えてやしない。
 ただ、母は動物も嫌いではないはずだし、動物アレルギーもないはずだ。おそらく了承してくれるだろう。

「……いいの?」
「いいも糞も、もう既に一匹でっかい捨て猫を拾ってるからな。ちっこいのがもう一匹増えたくらいで、文句言わないだろ」

 おずおずと不安げに訊く琴葉に対して、海殊はもう一度大きな溜め息を吐いて、そう言った。

「あ、それってもしかして私の事? 失礼だなぁ。私は捨てられたわけじゃないよ」
「家出も捨て猫も同じようなもんだろ」
「えー? 全然違うよねー、きゅーちゃん?」

 琴葉は知らない間にきゅーちゃんと名付けられたらしい子猫に訊いた。子猫が「みゃあ」と肯定する様にして鳴いてみせると、琴葉は「ほらー」と何故か得意げにこちらを見るのだった。全く、お気楽なものである。
 ただ、そうして心から安堵して子猫を眺める彼女の笑顔があまりに愛しくて、胸の奥がずきっと痛んだ。

(母さんに言われるまでもないよな……)

 その痛みを自覚しながら、海殊はふと思った。
 彼はもう自らの感情を自覚していた。出会って間もない頃から彼女に惹かれていた事も、そして彼女と過ごす日々の中で、それが特別な感情になっていた事も、嫌という程自覚している。
 春子から変わったと言われた時は、なんだかその気持ちを指摘された気がして恥ずかしかった。

(全く……俺はいつ恋愛小説だか映画だかの主人公になったんだろうな?)

 海殊は彼女の鞄と傘を拾ってやりながら、何度目かの大きな溜め息を吐く。
 好きな子の為に後先考えずに川に飛び込むなど、まるで彼がよく読む恋愛小説の主人公がやりそうな事だ。そしてきっと、これこそが自分が夢見ていた恋だったのだろう。何となくそんな気がした。
 真剣に恋をしている者は、皆物語の主人公なのだ。それが、ハッピーエンドになるのかバッドエンドになるのかまでは、わからないけれど。